良沢先生の講義が終わったのは暮れ六つ(午後六時)。陽が伸びてまだ周りは明るい。一緒に講義を受けた勝三郎(司馬江漢)さんと迎えの者が来ていた朽木殿に別れて工藤殿の屋敷に足を伸ばすことにした。
居れば良いがと思いながらの訪問だったけど、幸いに工藤殿は在宅だった。
案内された部屋は八畳間の書院風づくりの部屋だった。初めて入る。
「いかがされた」
部屋に入りながらに言葉を投げられた。迎えてくれた工藤殿の脇息には蒔絵に螺鈿が施されている。
「突然に訪ね、ご迷惑だったでしょうか」
「何、大して用もない。娘が久しぶりに里下がりをしたゆえ、奥御殿(伊達家)のことを少しばかり聴いておった」
「それは申し訳ございません。せっかくの親子水入らずの時をお邪魔したようで」
「何、良い良い。気にすることもない。
あや子とて年頃ではあるけど、まだご奉公に上がって三年じゃ。
これからが奥女中として用をなすかどうか問われるところじゃて」
工藤殿の長女があや子と言う名なのだと初めて知った。
「して、御用件は?」
「はい、お陰様で遊学期間の再延長のお許しが出ました。
しかも学俸付きと有って、これも工藤様のお陰と思い、良沢先生のところの講義の帰り、空手ながらお礼を述べにお伺いさせていただきました」
「そうか、そうか。それはご丁寧に。事も無く決まって良かった。
して、学俸は如何ほどになった?」
「はい、年に二両四分いただくことになりました」
工藤殿は黙って首を上下に頷いた。
「関藩(一関藩)の決定のことゆえ何も言えぬが、それでは少なかろう。
其方も四年目になる。江戸の物の値、経済と言うものが如何ほどか良く分かったであろう。
筆に半紙は兎も角、見たい読みたい書籍を買うにはそれでは容易ではあるまい。阿蘭陀書の類には手が届かぬな。
何、困った時には何時でも言って来るが良い」
掛けてくれる優しいお言葉ときりりとした眉に目元のやさしい工藤殿を見ていて、まだ見ぬ息女、あや子殿を思った。父親に似て優しい顔をしているのだろうか。父親似なればさぞ美人だろうと勝手に想像した。
「食事はまだだろう。一緒に夕餉を食べていくが良い」
その言葉に慌てた。
「お言葉、有難うございます。されどこの後、友と会う約束をしてございますれば、御報告と御礼の言葉だけ申し上げて失礼させていただきます」
勝三郎(司馬江漢)さんの顔を思い出しながら、そう告げた。
「こんな遅くにか?、うん、用事があるのでは仕方がない。
友は大事にするが良い。年齢の上下に関係なく己の友人と思える者は大事にせよ。
良くしておけば必ず困った時に助けになるものじゃ」
夏に向かうとはいえ、店を閉める表戸に行く道周りは暗くなるばかりだ。あの時、何故に鍵っ鼻で、顎が張り、両の耳の大きな勝三郎さん(司馬江漢)の顔が浮かんだのだろう。
源内先生が亡くなった後に学び直したいと懇願して再び良沢先生の門下生になった人だ。今では先生の前で、時折一緒に書を開く。頑固で偏屈とも言われる先生がよくぞそれを許したものだと思う。
十も歳上で江戸の町家で生まれ育った勝三郎さんの江戸町話に惹かれることも多いが、私には魂胆が有る。何時の日にか翻訳本の挿絵をお願いするかも知れない。
癖のある源内先生に洋風画を学んだとお聞きしているけど、勝三郎さんもまた一風変わった人だ。
会う約束などしていない。されどあの時、何故かあや子殿とお会いする機会を避けねばと思った。夕餉を一緒にとなればお会いすることにもなったろう。良沢先生の何時かの時の冗談話も頭に浮かんだ。
三 由甫の養子縁組
時の経つのは早い。周りの木々さえ色づいた葉を落とし冬支度だ。江戸に居るのも後残り半年も有るかどうか。
そうなって初めて浅草の酉の市なるものを見にさゑさんと有坂さんと由甫さんとで出かけた。
縁日と言えば子供等は喜ぶ。先生のお子も連れてと思ったが、体調が良くない長子のことも考えて扇さん(長女)もまた誘わなかった。
大鳥神社のお参りに思い思いの熊手を買うのが世の常だろうけど、それで千各万来ならぬ患者万来では困ると冗談を言いながら、シャンシャンシャンの手拍子を断った、小さな熊手をも買わなかった。
参道に出揃う屋台を覗いた。焼き鳥もおでんも美味しい。久しぶりに酒も口にしたけど有坂さんが、病は人をまたない、何時患家からお声がかかるか分からないから(飲酒を)控えるとの言葉に戸惑った。
有坂さんの真面目な性格は何時も変わらない。今日ばかりは良いでしょうよと思いながらも、私はその言葉を飲み込んだ。
感心した。範とせねばなるまい。
由甫さんも私も少しばかりで顔を赤く染めたけど、さゑさんはかなりいける口だと分かった。
天明二年と改まった正月も早々に上屋敷からお呼びがかかった。君侯(一関四代目藩主、田村村隆)が病に伏せたとの通牒で急ぎ駆けつけると、江戸勤番の藩医の方々が公の床周りに侍していた。
横顔から曾根(意三)先生は分かったけど、他者は誰ぞ分からなかった。
遊学の身の私と由甫さんにさえお呼びがかかったのだから既に容態が思わしくなかったのだろう。疔(顔面に出来る悪性の腫物)が出来ていたのだけは分かった。
薬石効無く君侯はそのまま二月四日にお亡くなりになった。
思いもよらず喪に服することになったが、時は巡る。
後二、三ヶ月かといよいよ指折り数えるようになった。
流行り病の患者は減って来たなと思うが、これから田舎に帰っての生活を思うと診察の合間にも溜息が出る。これ以上の(遊学)期間延長は望んでも無理と分かっているが江戸を離れ難い。
それだけでも気が落ち込むのに、由甫さんの相談事には更に驚きだった。
何故私では無いのだ、私は一生懸命頑張ってきた、由甫さんよりもズーっと私の方が優れている。診察や本草の知識は私が上だ。阿蘭陀語の読み書き翻訳も私の方がはるかに出来る、そう思うと何処に在っても腹立たしい。
寄宿生の夕餉の仕度にかかる手伝いの小母さんが、号外だという瓦版を手にして来た。患者の一人が皆に知らせようと読み上げた。
「二月場所も七日目(二月六日)、大関谷風敗れる。
東二段目(現代の十両)筆頭、五尺八寸(約一七六センチ)、三十一貫(約一一六キロ)の小兵、小野川喜三郎に突いていなしてのち渡し込みの手で敗れる。四年続いた連勝は終わった(六十三連勝でストップ)。
伊達のお殿様仰天、仰天」
天心楼の中はたちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。
目の前の患者も私の手を払いのけて、誠か、まことか、小野川何て聞いたことも無い、と繰り返し叫ぶ。
皆と一緒に聞きながら驚きながらも、いつかは負けるさ、それが当たり前だと、自分も専ら谷風びいきなのに冷めて素直に表現できない。
君侯がお亡くなりになったその日の夜に、由甫さんが真剣な顔をして私の部屋に来た。そのときは何時もの通り兄のつもりで気楽に向き合った。それが、聞いているうちに自分でも自覚するほどに己の顔色が変わった。
「先生(玄白)から暮れにお話がございました。ただただ驚くばかりで、恐れながら私一人では返事が出来ませんとお答えしました」
「それでは分からん。何が如何した」
「養嗣子となって欲しいとのことでした。
ゆくゆくは先生の御息女、お扇殿と夫婦になって欲しいとのことでした」
「えっ。養子縁組?」
予期せぬ話にみるみる自分の顔に血が上った。
最初に持ちかけられた話から時が経っていたからだろうか、由甫さんの方が落ち着いた顔をしていた。
「はい。勿論、即座にお断り申し上げました。私には勿体ないお話でございます。
お断り申し上げると、先生は、其方にその意思があるかどうかだけを尋ねておると申されました」
「・・・、お扇さんは未だ八つか九つ」
「はい。返答に困った私は、恐れながら私一人では返事が出来ませんとお答えしたのです。すると先生は、既にこの話にかかる状(手紙)を認めて一関に在る父に申し出ておるとの事でした。
その返事が正月も末、あるいは二月早々には来るだろうとのことでした」
失礼なことだが玄白先生の心を推し量った。江戸にも世にも名声を受け押しも押されもせぬ身に有る、されど虚弱な体質の長男では跡が絶えるやもしれぬ。
年端も行かぬ娘ではあるが先行きの婿を迎えておけば杉田家の後事を託す心配は無くなる。先生の思いはその様なことなのだろう。
だけど、それで何故に由甫なのだ。何故私では無いのだ。今もその思いに取りつかれる。
薄い青空の見えた昼時と違って、今は雪が舞い始めている。如月(二月)の変わりやすい天気そのままだ。大過なく診療を終えた。
敵なしと言われた谷風が小兵に負けたのだ。そんなことを思いながら、ぼんやりとした空を眺め、傘を広げた。寒さに肩をすぼめた。
一足早く楼(天真楼)を後にしていた有坂さんが宅の玄関口に居た。私の所(部屋)に寄れと言う。私を待っていたようにも思える。
久しぶりに見る部屋の中は相も変わらず整理整頓が行き届いていた。文机の上には開いたままの洋書が有る。
それを後ろにして座布団に腰を下ろした有坂さんは部屋の片隅を指さして、座布団を持って来て座れと指示した。
「如何した。ここ何日かぼんやりしているように見える。
口が渇く、小便が近い、足がしびれる、疲れやすいと訴える患者に、良く食べ良く休め、休養を取れだけでは可笑しかろう。
淤血(血行障害)が疑われる患者に必要なのは甘いものは抑える、運動を良くする、お茶をよく飲むなどの教えに、桂皮の煎じ薬の処方が必要なハズだが・・・。
其方は診察に身が入らないようだな」
「その様なことは有りません。あと数ヶ月で江戸を去らねばならない。そのことで気が重くなることは確かですけれども、それは分かっていたこと。
(当初の予定から)二年もの間余計に学ばせていただいたゆえ感謝せねばなりません。ただ、やり残したことが一杯有りすぎて・・・、いざとなるとやはり気が塞ぐことは事実で・・・・」
「その気持ちは分からないでもない。しかし、診察は診察じゃ。
患者は病に苦しみ悩むから、じっとしては居られないから(天真)楼に来る。其方の事情とは何ら関係が無い。いかなる時も医者は常に患者に真摯に向かい、診る心が無くてどうする。
其方が江戸に来た頃の四年前とは違って阿蘭陀本の医学書も地理の書等も江戸を離れても大分に手にし易くなっておろう。
今は何処にあっても学ぼうとする心がけ次第じゃ。
其方なら一関に帰ってもきっと阿蘭陀医学を引き続き学び、普及せしめることが出来よう」
「なぜ、由甫さんだけが江戸に残るのですか」
「うん?、・・・そのことか。耳にしておるのだな。彼とて一旦は一関に帰ると聞いておる。
由甫の養嗣子の話、ゆくゆくのお扇との事(婚姻)は先生もよくよくお考えの上でのことだろう。
あの通り病弱な長子を見ての決断だ。
由甫の勉強ぶりは年と共に日に日に力強く、またコツコツと努力を重ねておる。
養嗣子の話をするのも、彼の医療に対するこの三年余の真摯な態度を先生自身が評価してのことだ。
それに年齢のことも考慮したのは間違いなかろう。扇と年齢が近いのは由甫だ。それとて凡そ一回り近くも違う。
其方は何処に居っても押しも押されもせぬ医者として成り立つ。塾にあっても阿蘭陀医学に詳しい人、阿蘭陀語が得意な方と評価されても居よう。
しかし、由甫はまだこれからだ。建部清庵先生に縁組のお話を持ち掛けていると聞くが、まだ返事が無いそうだ。どう転ぶかまだ分からん」
「有坂先生は由甫さんをお望みですか」
「そういう・・・、由甫と其方を比較するようなことを言ってはおらん!」
有坂さんにしては珍しく怒気を含んだ大きな声だ。
「済みません」
素直に聞き取れない自分だ。
お扇さんと一回り以上も歳の違う私よりも由甫さんにその話が有って当然だろう。彼に田舎を出て来るときのひ弱さはもう無い。阿蘭陀語を学び医療の質を高めていこうとする二十歳の青年になったなと私も認めている。
一呼吸息ついて己の心を落ち着かせた。有坂さんの顔が怒っていた、口にした言葉も怒っていた。だけど有坂さんと話をしただけでモヤモヤしていた気がスーッツと晴れていく。お叱りを受けて心は腑に落ちた気がする。
失礼しますと頭を下げて廊下に出ると、冬の冷気が途端に身を包んだ。明日からは心を入れ替えよう、そう思った。