第四章 転変、天変
一 赤蝦夷風説考
三月、谷風の連勝街道は止まらない。もう三年も京、大阪、江戸の本場所で負け無しだと瓦版が伝える。場所後の大関昇進を伝える瓦版に、そこここの町人は勿論、吾らの塾に学ぶ塾生達も、本場所の相撲を観ることが出来ずともやんやの喝采だ。
四月二日、天子様が崩御したとかで年号が天明に変わった(天明元年、一七八一年)。新しく光格天皇の世だと言うが、政治に変わりは無い。詳しくは分からないが幕府の懐具合は厳しいとこれも瓦版だ。
権勢を握る老中田沼意次殿の政治を農民も商人も是々非々良くも悪くも噂する。そんな中で工藤殿から甫周先生と私にお呼びがかかった。
玄白先生に診療業務の抜け出しの許しを得たのは甫周先生だ。私は同行することになった。
夕も七つ(午後四時)になる頃だ。築地の工藤邸の敷地内に入ると、四月も半ばとて咲き誇る桜が一層青空に映えて見えた。
「いよ。よく来てくれた。まずはゆるりとしてくれ」
通された部屋は以前に良沢先生と一緒に平助料理を味わった所だ。現れた工藤殿は、今日は濃い紺色の単衣姿だ。
卓の上の目の前には手にしたこともない絵柄のあるこっぷ(kop、コップ)に、飲んだことも無い赤色をした葡萄酒と言うものが用意されていた。最初からそのつもりだったらしい。
「私の塾に来ている書生や訪ね来る松前藩の友人(松前藩医師・前田玄丹)、知人から北方の事情や蝦夷地のことを教えてもらってきた。
また、お二人に翻訳を手伝ってもらった阿蘭陀語やオロシヤ語の書を熟読して蝦夷、千島、カムチャッカ、オロシヤの地理的なことをまとめることが出来た。これを「赤蝦夷風説考」下巻と位置づけ、引き続き次に上巻をまとめるつもりでおる。
これからの日本の北方領土の有り方、つまりは開拓、交易、オロシヤに対抗する国防等について私なりの考えをまとめ書き上げ世に問う。
今日はまずは下の巻の完成祝いと、これまでの協力のお礼を込めてお二方をお呼びした。ゆっくりしてくれ」
工藤殿の言葉が終わらないうちに、前にも知る、隣の部屋から料理が運ばれてきた。
大きな金物のディへンブラフ(de dienblad、お盆)に焦んがりと茶色く焼け目の色のついた物は鴨の丸焼きだと言う。もう一つの金物の皿には大きな蟹だ。
箸は無い。食事の時に肉等を切り刺して喰う時のメス(de mes、ナイフ)とホルコ(de vork、フオーク)と言う物を阿蘭陀の書で見たことが有るけど、実物を見るのも使うのも自分は初めてだ。
メスはへーステルの外科書等にも出て来る手術用のメス(ナイフ)と姿形が変わりない。デフォルド(de bord、取り皿)を並べて置き、一礼して去る小母さん達に有難うと声を掛ける工藤殿だ。気さくな人柄を感じる。
飲みながら食べながら、工藤殿が間もなく発刊すると言う赤蝦夷風説考の内容を語った。
「赤蝦夷とはオロシヤのことだ。そのオロシヤが南下を図り日本侵略を意図していると聞く。しかし。戦争は双方の国にとって何の益にもならない。
戦は破壊と民を痛めるだけのことだ。国防を強化するのも一つの手だが、今はむしろ交易を望むオロシヤと友好な関係を築くことが大事だ。
蝦夷地や松前でも港を開き、交易を進めることの方が得策だ。
蝦夷地のアイヌの人々は今も日本に従っているではないか。その蝦夷地の開発、開拓に協力して日本が貢租を取れる工面をしたら厳しい幕府の財政を助けることになる。
長崎同様に蝦夷にも奉行を置いて蝦夷地の経営を真剣に考えた方が良い。
蝦夷、オロシヤを通じて欧邏巴(ヨーロッパ)の国々と交易を持てば、必ずや我が国の発展に寄与する。
阿蘭陀一国にこの国の富を持ちだされることは無い。むしろまだ見ぬ彼国の産物や書籍がもたらす情報が貴重だ」
工藤殿の説を聞きながら私は何か世界が大きく広がる気がした。権現様(徳川家康)のお陰で今は戦のない世の中にあるけど、国の中の藩同士の争いや戦は随分と小さなことに思えた。
日本人で阿蘭陀語を翻訳出来る豪傑が出ることを期待する、その豪傑が現れれば日本の医学は大きく発展する。そう説いた建部清庵先生の「豪傑」という言葉を思い出した。
国を閉じる日本に有っても世界を見て国防や国の発展を考える、そのための政策の提案が出来る人物もまた豪傑ではないか。
工藤殿を見ながらに、工藤殿は豪傑だなと思った。
「政治経済の権勢は老中田沼意次殿にある。
田沼殿は去年の秋にお忍びで吾が家に来てもくれたが、何時かの日に蝦夷地の活用方法について改めて提案をしてみたいものじゃ」
田沼様がここに来たと初めて聞くことだ。驚いた。甫周さんも同じだろう。
「吾の北方政策にかかる考えをまとめるのはこれからが本番だ。
阿蘭陀やオロシヤの書物等の翻訳、協力にお二方の力をまだまだ借りねばならぬ。
そこでだ。まずはこれまでの翻訳にかかるお礼の気持ちを込めて金子を用意した。
お二方に是非に受け取って欲しいのじゃ。何、大した金ではないが、な・・・」
思わず甫周さんの横顔を見た。甫周さんに従おうと思った。二人にそれぞれ五両だと言う、大金だ。それが工藤殿からお声を掛けられた今日の要件だった。
「お言葉に甘えて頂戴仕ります」
甫周さんのさほど間を置かない返事を耳にして、一緒に頭を下げた。
一刻ほどの時はあっという間だった。出された料理は美味しかった。デザート(het
dessert)だと言うそれはリンゴだったけど、焼いたと言うのか蒸したと言うのか、これがリンゴかと思うものだった。柔らかくて、小さなホルコ(de vork、フオーク)とレペル(de lepel、スプーン)で食べた。
その後で、自分達の後ろにあるビードロの箱棚(葡萄牙語、vidro、ガラス戸棚)の中を改めて見せてもらった。良沢先生と来た時には横目に見ただけだった。
置かれた花瓶はそれぞれが鑑賞用なのか派手な色と大胆な柄だ。
戸棚の中の一番上には大皿、中皿、小皿や洋風の食器茶器のセットが並ぶ。どれもこれも鮮やかな花や西洋の景色が描かれてある。
その横にあるのが酒盛り用の道具だと言う、
葡萄酒を入れて飲むときに使う角のフラスコ(葡萄牙語、frasco、硝子製)というものが蝶番のある蓋箱に二十あった。手にするところが金色に光る金物で模様付けされている。
その側には飲ませていただいたばかりの物と同じかどうかは分からないが、黒々とした葡萄酒が三本ある。徳利の形にも似た首の長いビードロに入っている。
二段目の途中から有る幾つかの置時計は大名も金持ちの商人も欲しがるだろう。
阿蘭陀語の医書や本草書や彼国の産物や文化を伝える書は二段目と一番下の棚だ。独逸なる国の書だというものも有った。
先日に、独逸語もABCDだと甫周さんに教えて貰ったばかりだ。
甫周さんの宅は工藤殿の屋敷からさほど離れていない。少しばかり回り道になるけどそこまで御一緒した。
「五両もの大金、いただいて宜しかったのでしょうか」
今さらながらに聞いた。
「ハハハハハ。貰っておいて良いのじゃ。其方もそれ相当に翻訳等の手伝いをしたではないか。
あの通り、工藤殿は金に困ってはおらぬ。洋物が棚に一杯あったろう。あれを欲しがる大名、商人等にあの品々を売って利を得ているとも聞いておる。
江戸に出て来たカピタンから異国の品々を手にするだけでなく、工藤殿の晩功塾に学ぼうと長崎から訪ね来る輩や蝦夷地の松前から来る輩が、珍しい洋物を手土産に持参して来る。
御上から見れば御禁制品に当たる物も有るだろうが、何、近頃は品々にかかる取締まりは緩やかになっておる。ただ同然に手にした物を売り捌いておるのだから金は溜まる一方だ。
あの屋敷に泥棒に入ったが良いが、目の間の千両箱が重くて担げぬまま思案していて捕まったという間抜けな泥棒もいたと聞いた。
工藤殿の所には金が腐るほどあるゆえ、貰ってやった、身動きがしやすいように懐を軽くしてやったと思うが良い」
語る甫周さんの言葉尻には笑顔が混じっていた。
初めて見るお屋敷だ。大きな門構えだ。江戸も幕府の奥医師を代々務める御方のお屋敷だ。
寄って行けと誘われたし大いに関心があるけど、宵も五つ(午後八時)なればと丁重にお断り申し上げ、帰途に就くことにした。
道々、懐のこのお金は洋書購入の助けの一部になる、そう思った。
ニ 遊学期間の再延長
閏五月(六月)、遊学期間の再延長のお許しが出た。愛宕下の上屋敷(大名小路)に由甫さんと一緒に呼び出された。自分が予測していた時日よりもかなりズレていた。遅かった。
それ故に道々、遊学期間は終わりだ、故郷に直ぐに帰れと告げられるのかと思いもした。だけど、期間再延長のお許しの伝達だった。しかも年額二両四分の学俸(奨学金)を二人にそれぞれに出すと言う。学俸は初めてのことだ。
思っても居なかったことだけに嬉しい。同時にこれで本当に生活の支えや学用品購入の支弁になると思った。
工藤平助殿の斡旋と計らいであることに間違いないが、清庵先生の助言も有ったことだろう。