門構えの立派なことに驚いた。五葉松が門の瓦屋根に掛かる。
築山と池のある庭にも驚いたけど、それ以上に目の前の大きな屋敷だ。高さが如何ほど有るのだろう。大鵬が羽を広げたように横に大きく、その真ん中がもう一つの屋敷があるように一段高くなっている。二階造りになっている。
このような造りを江戸市中、他の屋敷に見たことは無い。これが仮住まいの住居なのかと、ただただ驚くばかりだ。
来訪を告げると、ご婦人が出て来た。年齢の頃なら三十五過ぎ四十前、乳のみ子を胸に抱いている。奥方様なのだろうと勝手に想像した。
「お待ち申しておりました。どうぞ、こちらへ」
案内された部屋は取っ手のあるドア付き、床が板になる洋間と言われるものだ。広さが二十畳は有るだろう。それだけでも驚きだ。
正面の壁の上に有る立派な角を持った鹿の頭の飾りに驚いた。その右の下辺りの一角に小さなターフォ(Tafel、卓)と、その三方を囲むように厚手のあるバクシテル(Bankstel、現代のソファー)が有る。金の色をした取っ手で、その側にも出入口が有ると分かる。
部屋の真ん中には奥行き八、九尺、高さ二尺五寸、横に三尺はありそうな大きなターフォ(Tafel、卓子)だ。その周りにストール(Stoel、洋椅子)が八脚置かれて有る。
一つが鹿の頭を後ろの上にした正面で、それに相対するように離れた手前に一つが置かれ、その間の右側に二脚、左側に四脚配置されて有る。私達の来訪に合わせて椅子を並べ直してあるのは明らかだ。
左側の窓のある壁際に沿って三段になっているヴックンカスト(Boekenkast、本棚)が二つ並び、その上にラァプ(Lamp、油を燃やして灯りをとる物)が一つ置かれて有る。
ご婦人の示すままに、良沢先生と右側の椅子に座った。ターフォの上に既に箸置きが置かれ、箸には亀の絵が描かれている。漆塗りで高価に思える。小皿も各自の分、既に配られてある。
真後ろには壁に沿って縦に五尺、横に七尺は有る三段の棚が拵えられて有る。見たことも無い洋皿や茶わん、花瓶、人形がビードロ(ガラス)の戸越しにズラーっと並んでいるのが分かる。
工藤殿が鹿の頭を後ろに真ん中の椅子に座るのだろう。その席に有る洋椅子の彫り物に自然と目が行った。蔦の先にぶどうの実がなっている。自分の座って居る洋椅子もそういう飾りが彫られているのかと、腰を浮かして背掛けの部分を確かめた。
「よう。よく来てくれましたな。七日も立つから明けましておめでとうとは言わんが、流行り風邪も引かず、息災でしたか?。
この年もよろしく」
ガッシリした身体からいかにも力が余っているような大きな声だ。私達が入ったドゥーア(Deur、戸)と反対側のドゥーアから球卿殿が現れて、それが第一声だった。小さなターフォ(Tafel、卓)とバクシテル(Bankstel、ソファー)が有る所と反対側になる。この部屋に続くもう一つの部屋が隣に有るらしい。
右に焦げ茶色、左に黒色の半々の単衣を着て赤帯を襷掛けにしている。下は袴に違いないが見たことも無い形だ。上から下までが同じ幅で寸胴に見える。私は驚いたけど、良沢先生はそうでもない。前から知っている姿のようだ。
「料理人平助の味をこれから堪能してくだされ」
普段見る、ちょん髷姿の凛々しい顔を崩してニコニコしている。
先生の顔を見ると、目を合わせることもなく私の反応を楽しんでいるようだ。
工藤殿が着席すると、間もなくターフォ(Tafel、卓)とバクシテル(Bankstel、ソファー)のある方の取っ手がカチャリと音を立てた。
ぞろぞろと子供達が入って来た。吃驚した。廊下の先に部屋がまだ続いて有るのだろう。
最後に入って来たのは出迎えてくれたご婦人だ。乳のみ子を抱えたまま工藤殿と正反対側になる八、九尺も離れた席に座った。
先生と私の目の前に四人の御子だ。食事の前に家族を紹介すると言う。工藤殿は自分の右側に席を取って並んだ子供達を一人一人紹介した。
「長男の安太郎十五歳、次女のしず子、三女のつね子、次男の四郎、五歳。妻・遊。
一番上の娘は二年前から仙台藩上屋敷(港区東新橋一丁目)で藩主伊達重村公の奥方、近衛年子殿に仕えておる。
この屋敷におる頃にも嫁(縁談)の話が有ったけど、可愛くてのー、手放せなんだ。何、縁づくのは御奉公を経験してからでも遅くはないと送りだした。
十八(歳)になるが、今は御奉公第一に考えよと言ってある。
この月の藪入りの日にお許しが出てここに来れるかどうか,だ」
「この爺は何度も来ておるから知っておるよのー」
三女、次男と紹介のあった方に向かって先生が自ら言った。
「こちらは初見参の大槻元節じゃ」
半ばおどけた言い方で、私を紹介した。
「杉田玄白先生の所でお世話になり、今、月に二十日も良沢先生の所で阿蘭陀語を学んでいる大槻元節です。
元は東奥一関藩の身にあります。覚え置き下さい」
私の方がはるかに年上なのに、子供らを前に緊張した。途中から工藤殿に向けた御挨拶だ。
「よし、挨拶はそれくらいにして、お腹がすいたろう。出来ておる、早速に食べよう。皆、手伝え」
その号令に長男、次女、三女に五歳の次男までが反応した。工藤殿は自分が出て来たドゥーアの方に行く。子供達がついて行く。次男は飛び跳ねるようにして姉の後を追った。
少しばかりあっけにとられた。
先生の顔を見ると、頭を二度、三度と縦に頷いている。子供らの後を目で追いながら、家族とは良いものだろう、と言う。
ドゥーアから次に現れた子供たちは、それぞれがヒラメの煮付けが盛られた皿を手にしていた。ヒラメは胴の辺りで真二つに切られて有るものの一皿に一匹丸ごとだ。
先生と私の目の前に置き、ご両親の席に置き、それからまた取りに行った。あのドゥーアの先の部屋は調理場になっているのだと分かった。
子供らが往復して運んだ後に、工藤殿が大きな鍋を両手にして運んできた。
調理を手伝っていたのだろう後ろに小母さん二人が付いて来た。一人は大きなザルに茶碗を乗せ、一人は沢庵と白菜の香の物を盛った大きな皿を手にしていた。
工藤殿自らがお玉を持って茶碗に粥をよそう。一人の小母さんがそれを手伝って配る。一度ドゥーアの先に消えた一人の小母さんが、今度は梅干しと何やら品の良い紫色かかった香の物を持って来た。私は初めて目にするものだ。
「元旦から昨日までは江戸詰めの諸藩の御家老、御用人の来客が引きも切らずの有様だった。明日からまた色んな御仁が来る。
今日七草粥の日は毎年そうだが、何方にも拙宅に来るのを固くお断りしている。
己の養生の日としているだけでなく、忙しい中にも家族水入らずの日があってこそが一番の薬と思っておる。
石巻(湾)で獲れたヒラメも、京の柴漬けも梅干しも旧知の御仁が暮れに届けた物だけど、粥だけでは物足りないゆえに用意した。賞味して下され」
紫色の香の物は京の柴漬けと言うものだと分かった。梅干しは紀州産だった。
ヒラメの味付けも良かった。美味しかった。ご馳走するから来いと言われても、まさか工藤殿自らが料理番をしているとは思わなかった。
奥方様と子供達が退散した後にお酒をいただいた。私は少しばかりに止めたけど、先生は余程嬉しかったのだろう、かなりのお酒を召し上がった。
帰る段に工藤殿が心配して、籠を手配する、籠を呼ぶと言ってくれたが、元節が一緒じゃ、心配ないと先生は固辞した。
足元が心配されたけど、私の質問に答える先生の頭の方はシッカリしている。
「吾は昔から球卿と呼ぶが、元は周庵。医者としての名は工藤周庵だ。
それが、四年前になるかの。彼の卓越した知識と才能を知った藩主・伊達重村公が還俗蓄髪を命じたのじゃ。四年前に髷を結えと言われた。
以後、工藤平助と名乗るようになった。今では仙台藩の台所を仕切る身にある。それ故、江戸に有る諸藩の御家老、御用人が相談事、頼みごとをしに訪ねる。
その見返りの金子、銀子は黙っていても入ってくる。あの屋敷には何時も千両箱がギッシリ詰まっていると噂する者もおる」
お借りして来た提灯で先生の足元を照らす。ゆっくりした歩みだけど六十近くの酔った老人の足取りだ。気を付けねばなるまい。
鉄砲洲の先生宅にお送りして、浜町に帰り着く頃は亥の刻、夜四つ(午後十字)を回るかなと思いながらお聞きした。
「武家仕事だけの事ではないぞ。彼は医者としても確かな知識と治療の術を持っておる。三十(歳)にして藩から外宅を許されたわけだが、以来患者は途切れなかった。
それが今は診療も手薄にならざるを得なかろう。それでも時折、遠国から弟子入り志願者が今も訪ね来ると言っておった。
今は亡き野呂元丈先生に薬草、本草学を学び、知識を確かなものにした。
以前にも言ったけど、吾と一緒に青木昆陽先生に阿蘭陀語を学んでいたのじゃ。その縁もあってあの大通詞、長崎の吉雄耕牛殿とも交誼がある。
其方の身の回りに居る玄白や淳庵、甫周らもあの屋敷を時折訪問しているのを知っておるか?」
「いえ、初めてお聞きするところです」
「漢方に蘭学の医者、儒学者、国学者、漢学者、まさに文人墨客多士済々が出入りする。
三年前に屋敷を増築した。その普請開きには近松門左(近松門左衛門)の世話物浄瑠璃、曽根崎心中の天満屋お初を演じて大当たりをとった歌舞伎役者の中村富十郎も来た。相撲取り谷風も来た。
其方は球卿を通じて己の交流範囲を広げていくが良い。それが其方の先々のためになる」
先生のお顔を見た。酒が入って饒舌になっていることは確かだけど、これ程に語る先生は初めてだ。提灯と街並みの薄明かりの中ではその表情が読み取れない。