師走の夜の訪れは早い。夕七つ(午後四時)に周りは真っ暗だ。障子窓を少しばかり開けて外に目を遣ると、少しばかりの雪がまだひらひらと落ちてくる。

 中川先生と甫周先生は何時もの診療終わりの時刻(とき)(暮れ六つ。午後六時)まで姿を見せることはなかった。

診療の場の掃き掃除、拭き掃除は何時も通いの使用人である小母さん四人と私と由甫さんだ。時折、診療の場に出た寄宿生が手伝ってくれる。掃除をする場が広いだけにその時は大助かりだ。

 各先生方は自分の持ち物だけを片付ける。中川先生が座って診ていたハズの場所に貴重なピンセットが一つ落ちていた。

 

 暗い中に、()っすらと雪化粧をした街並みを見ながら帰りの歩を進めた。帰りも三人が一緒だ。ところどころにまだ石ころを見るけど、夜半には道は真っ白になるだろう。

 有坂さんは自分からは何も言わない。昼間の出来事の事情を聴いて良いのかどうなのか今も迷っている。

先生宅の玄関口が見えたところで聞いた。

「今日は何かあったのですか」

「源内先生が死んだ」

「えっ」

殆ど同時に私と由甫さんが驚きの声を発した。

 牢に入れられて凡そ一ケ月になる。直ぐに頭の中で計算出来たけど、なんでまたと死の原因が分からない。死に至るような何が有ったと言うのだ。獄死など想像したことも無い。

 何時も()()さんと一緒に顔を見せる先生の御子(おこ)(たち)のお迎えはなかった。廊下にお線香の匂いがする。

奥方様が顔を出して、こちらにと促した。

 有坂さんに続いて部屋に入ると、仏壇を横に先生(玄白)も中川先生も甫周先生も卓を前にして胡坐のまま座り込んでいた。私達三人を見ると、甫周先生だ。

「お線香をあげてくれ。先生は口もきけない状態だよ」

中川先生が言葉もなく左手でお焼香を促した。有坂さんの後に私、由甫さんと続いた。

甫周先生がこちらに座れと三人に指示した。

「仏様は神田橋本町の自宅だけど、今日はここで通夜だ。長くなるから足を崩して楽になれ」

尻に敷いた座布団が少し冷たかった。卓を前に甫周先生が今日一日の粗方(あらかた)を話した。

「今朝、明け方に息を引き取ったと、小伝馬町から(神田橋本町の)源内先生宅に伝えられたのが(たつ)(こく)五つ半(午前九時)だ」

自分達が診療の場に出た時だ。

「源内先生の死が内々に知らされて、遺体を引き取りに行ったのが狂歌師の平秩(へずつ)東作(とうさく)とその仲間で、()(こく)四ツ半(午前十一時)頃に牢屋敷から遺体を下げ渡されたらしい」

診療の場に顔を見せた中川先生と甫周先生を私が勝手に看板役者登場と思った頃だ。

「先生の獄死は破傷風によるもの。殺傷事件の場で自分の身体も傷つけ、それが破傷風の元になったらしい」

源内先生の死が先生(玄白)の所に伝えられたのはその後、(うま)(こく)(午後一時)を回っていたと言う。

「先生と淳庵先生と私が揃って神田橋本町に行った。しかし、狂歌師の平秩は準備が整っていないからと(かたく)なに我々を屋敷に上げなかった、源内先生の最期を見られなかった、仏様に線香をあげられなかった」

その時の場を思い出したのだろう、怒りを込めながら経過を語る。

「今晩はこの仏壇を借りてここで通夜だ。

蝋燭(ろうそく)()とお線香の火を絶やさないように元節も由甫も付き合え」

 卓の上の握り飯と沢庵を指して、腹ごしらえだ、俺達は先に済ませたと言う。

奥方様が汁を温め直してきましょうと席を立った。

「先生にも食べて下さいと言っているんだけど、まだ口に出来ないでいる」

下を向いたままの先生の肩は落ち込んでいた。小柄な先生が余計に小さく見える。

淳庵先生はどれほど泣いたのだろう。目がまだ赤い。

甫周先生が気を取り直したように言う。

「元節も由甫も源内先生とは二年足らずの付き合いだったかも知れないが、先生の思い出話に付き合え」

 先生(玄白)がふと立って部屋を出て行った。有坂さんが心配そうに眼で追った。

甫周先生の言葉に何か思うところが有ったのだろう、先生は手に半紙と墨、硯に小筆を持って直ぐに戻って来た。

 墨汁が出来ると、先生は私達の目の前で書き始めた。

お側近く右に在る淳庵先生が書き上げられた文面に納得したのだろう。黙って深く頷く。同時にまた新たな涙が頬を伝った。 

 淳庵先生と差し向かいになる甫周先生が、拝見して宜しゅうございますかと丁寧な言葉で先生にお声を掛けた。半紙を手にした。

有坂先生も私も由甫さんも、濡れたままの墨痕を一緒に拝見した。

嗟非常人  (ああ、非常の人)

好非常事  (非情の事を好み)

行是非常  (行うも是れ非常)

何非常死  (何んぞ非常の死なる)

と有る。源内先生の生涯を語り、死を悼む言葉だ。

 甫周先生も大きく頷きながら、私と指し向かいの席になる有坂さんに手渡し、由甫さんも改めてそれを横から覗き込んだ。

 

 奥方様の運んできた味噌汁とおにぎり、香の物で有坂さんも由甫さんも私も腹を満たした。それからお茶を手に、気になっていたことを口にした。源内先生の遺体を引き取ったという平秩(へずつ)東作(とうさく)とはどういう方なのか、先生のお顔を見ながら涙顔の中川先生を見ながら、そして最後は甫周先生を見ながらお聞きした。

「狂歌師だよ。世間では狂歌と(さげす)んで言うが、私はそうは思わん。狂歌と言われる詩歌(うた)そのものが今の世の中、世間の様を良く伝えている、現わしているからさ」

私の顔を見ながら、先に狂歌と言うものに対する甫周先生の評価があった。

平秩(へずつ)殿は狂歌師であり、戯作者(げさくしゃ)文人(ぶんじん)だ。狂歌は和歌の形、五・七・五・七・七と同じだ。和歌の名作と言われるものそのものを借りて今の世の中の有様を皮肉り、滑稽(こっけい)を盛り込み、自分の思いを(あらわ)したものだ。

 平秩殿はその狂歌の教祖的お方だ。世の中を斜に見ていた先生は平秩殿にぞっこんで昔からのお付き合いがあった。

十年ぐらい前になるけど、源内先生は仲間うちの太田(おおた)南畝(なんぽ)の「寝惚(ねぼけ)先生文集」なる狂歌本に序文を書いたくらいだ。その名が福は内、鬼は外と書いて、福内(ふくうち)鬼外(きがい)と有るから笑える。戯作を書くときは風来(ふうらい)山人(さんじん)とも称している。

 ここ数年は狂歌を好む者同士で誰ぞの家に集まっては狂歌会を開いていたと聞く。先生も参加していたハズだ」

「・・・源内先生の狂歌で特に評判をとった作は・・・」

聞くのが失礼かと、言葉が中途になった。

「余り知らないが私が覚えているのに、春も立ち また夏も立ち 秋も立ち 冬も立つ間に ()えるむだまら・・、と言うのがあるよ」

少し笑いながら口にした甫周先生だ。私も由甫さんも思わず噴き出した。(まらは男性器)。

「吾が桂川家に今も残る狂歌に、はたもとは今ぞ淋しさまさりけり 御金もとらず暮すと思えば、っていうのがある。元歌は百人一首の源宗于(みなもとのむねゆき)の歌、山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草も枯れぬと思へば、だ。

享保(きょうほ)の改革の頃に()まれたもので旗本への給金支給が遅れたことを風刺している。ご先祖様の誰が作ったか定かではないが、祖先もまた幕府にお仕えしていての思いだったのだろう。

ところで二人は源内先生の戯作本を読んだことがあるか?」

 首を横に振った。由甫さんとて同じだ。この一年余、医学医術と阿蘭陀語の勉強にそんな余裕は無かった。

「机に(かじ)り付くにも余裕を持った方が良いぞ。源内先生は風来(ふうらい)山人(さんじん)の名で長枕(ながまくら)(しとね)合戦など男と女の情交をさらす春本(しゅんぽん)まで書いている。戯作(げさく)義太夫(ぎだゆう)浄瑠璃(じょうるり)にも江戸や大阪で評判をとっている。

江戸市中、今や知らない者が居ないあの浮世絵師、鈴木(すずき)(はる)(のぶ)、あの晴信と一緒に絵暦(えこよみ)交換会も開いているのだ。今の浮世絵の隆盛にも一役買っている。

 また、聞いて知っていることもあると思うが、先生(・・)はエレキテルや寒熱昇降器(温度計)を作った。他人も驚くほどの羊を飼い、その毛を利用して着る物さえも作ってみたりした(源内織)。先生の活躍は化け物よ」

 源内先生は本草学に心して来た人と思っていた。そのために諸国を歩いている人との印象が私には強かった。先生(源内)ご自身の口からお聞きしていたこともあるけど、それ以上の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を聞いて今さらながらに驚く。多才も多才だ。豪傑だ。

 仏壇の灯を消さないようにと蝋燭(ろうそく)とお線香の火の進み具合に時折目をやりながら、その後も甫周先生の話に聞き入った。

途中、さゑ(・・)さんが子供たちがやっと寝たと顔を見せた。()(こく)、夜四つ半(午後十一時)を過ぎていたろう。

子供のことも明日のことも有るから寝た方が良いと、さゑ(・・)さんが奥方様を促した。先生が首を縦にした。

それを機に私と由甫さんが手伝ってこの部屋にも布団を二組運び込むことにした。

まるで昼間のように眠くならない。だけどお腹だけは勝手気ままに腹減ったと訴える。()の刻九つ半(午前一時)を回ったろう。私のお腹がグーとなった。それを聞きつけた()()さんだ。

 

[付記」昨日(30日)、大槻玄沢の夢遊西郊記の残りの距離、目黒駅前から新橋まで、凡そ11,2キロを歩くために出かけました。目黒駅から港区の伊皿子までは殆ど目黒通りを行きます。玄沢の西郊記には「行人坂に至る。日既に西没し、人々宵に常時詩を諷し曲を為す唱す。遂に伊皿子を経て聖坂に至るとあります。」そして、「茶房に憩う」とあります。伊皿子までの道は如何であったか記されておりません。

 小生は、目黒通りを行き自然教育園前から品川駅方向に道を採りました。上大崎一丁目、白金台二丁目をへて港区高輪3丁目に向かいました。そこには大槻玄沢の眠る東禅寺が有るからです。想像していたよりも立派な寺院でした。驚いたのは、その山門の門扉です。左右に金剛像が有り、開けてあった門扉には九曜紋が施されていました。この紋は葛西一族、千葉一族の紋でもあります。小生の処女作「サイカチ物語」、「葛西一族の滅亡」にも書かせていただきましたけど、大槻玄沢は葛西一族の流れを汲むと改めて思い出されました。

 その東禅寺は、当時多くの諸大名の菩提寺でもありました。ありましたと言うのは、幕末、明治の「尊王攘夷」の流れの中、日本最初のイギリス公使が水戸藩士等によって襲撃された宿泊所で、菩提寺を移す藩が多く居たのでした。先日にご連絡を頂いた大槻家末裔のM氏が案内するとのことでしたので、それを期待しております。

 次に行ったのが、赤穂義士の眠る泉岳寺です。東禅寺から10分足らずで伊皿子に至る途中の道に在りました。伊皿子の坂を上って、信号を左に採ると聖坂でした。下りきって国道1号線です。

 ゆっくりと東禅寺境内の中も、泉岳寺の47義士に手を合わせていただいたこともあって西郊記の通り「茶房に憩う」で丁度正午、お昼時でした。どの食事提供処もサラリーマン等が多く、込み合っていました。歩き出した右前方には東京タワーが大きく見えます。赤羽橋に至って橋を渡らず右に曲がり、西郊記の通りに将監橋を渡りました。そこを直線に進むと左に増上寺でした。

西郊記は大門前を右に曲がり、やがて左に道を選択して北十数街(今に新橋)、自分の住まいのある畹港(四銀街)となります。

小生のスマホは増上寺前で15000歩、約9キロを数え、時はまだ午後1時30分を回ったばかりでした。そこで、大門前を直進し愛宕警察前の十字路に至りました、はす向かいにある日本赤十字社本社の外観を凡そ10年ぶりに見させていただいて、警察の後ろ方向になる愛宕神社に向きました。

 境内の工事を行っていましたけど、急坂(男坂)の階段も、神社も過去のままでした。神社から30メートルも無いでしょう、NHKの放送発祥の地、博物館も健在でした。博物館は無料で誰で見ることが出来ます。

玄関を入ると、チコちゃんとカー助?が直ぐに迎えてくれました。館内は東京ブギウギ、紫式部の大河ドラマを案内しておりました。過去の放送の歴史が分かるとて、小・中学生、高校生、大人の見学者が多く居ました。表の庭に観光バスが来ていました。

そこから、神社裏に下ると、栄閑院が有ります。ここが杉田玄白が眠る寺院です。日赤本社に5年余勤務していても知らないことでした。

 なんだ、かんだで、凡そ16キロ歩行の一日でした。