その日以来、玄白先生は肩を落として元気がない。時折、小伝馬町の牢屋に自ら差し入れの肌着や源内先生の好物を届けているとさゑさんからお聞きした。世間に蘭方医の大家と知られる先生が源内先生のために自らその様な行動をしていることに驚く。
有坂さんは私や由甫さんが聞いても事件の事は何も語らない。ただ、源内先生は家を買って夏に引っ越したばかり、何が不満なのか気を病んでいた、昔から癇癪持ちだった、それが近頃は特にひどく見えたと語った。
事件のあの日を指して、二十一日は厄日だと言った。そのことが有って有坂さんに改めて勝三郎さんのことをお聞きした。
勝三郎さんは源内先生に従って時折一緒に諸国の鉱山探索に行っていたのだと言う。また蘭学の勉強にも熱心で阿蘭陀語を学び(それは知っている)、源内先生や鈴木晴信(浮世絵師)に師事して絵も良くする方だと知った。
秋田に帰った小田野直武さんとも親しくしていたと言う。それをお聞きして源内先生に劣らず多才な方だなと思った。私より十(歳)ばかり上らしい。
四 工藤平助との出会い
一昨日の講義の後、良沢先生が、明日は用事があって出かけるが、明後日は何時もの時刻に来るが良い、必ず来いよとのことだった。
師走に入って今日で十日になる。何時もの講義のある洋室に自分一人だった。時々こういうこともあったなと思いながら先生を待っていると、手伝いのご婦人が顔を出した。
来客があって先生は座敷の方でお待ちですと言う。案内された部屋はこの屋敷に一年余通っているけど入ったことが無い。
廊下に腰を落としたご婦人が、お連れしましたと中に声を掛け、障子を開けた。
床の間を背にした先生だった。高さ一尺五寸、幅四尺、奥行き三尺、厚みが三、四寸はある焦げ茶色の卓の向こう側に客人が座って居た。
卓の真ん中に秋桜とリンドウの花を活けた花瓶が置かれて有る。
「こちらに来て座りなさい」
言葉に誘われて、卓を前に客人と相対する形になった。
「今度は紅茶をお持ちします」
婦人の声と障子が閉まる音を後ろ背に聞いた。
「この男が、今話していた大槻元節だ。(蘭学を修めようとする)熱意は並々ならぬ。また学才がある。春に遊学期間が切れると言うのはいかにも惜しい」
客人は私を見ながらニコリとした。その意味するところは分からないが、自分の事が話されていたことは分かった。
「先生がそれほどまでにお話し下さるのだから確かでしょう。
(阿蘭陀語は)一年そこらで分かる物ではございませんし、お聞きした、取り組んでいる姿勢を思えば実に勿体ないお話です。
一関公に(この者の)遊学期間の延長を願い出ましょう。何、関藩は仙台藩の支藩、我らが藩主からの頼みと有れば一関公も断ることは出来ますまい」
ガッシリとした体格の客人は先生に向かって話したけど、私は自分の頬がみるみる紅潮するのが分かった。
先生が首を縦にニ、三回頷く。
「こちらは仙台藩奥医師、工藤平助殿だ。何時も球卿と呼んでおる。
そろそろ年末故にと挨拶に来られた。この時期、毎年のことだ。
甘藷先生を知ってるか?、聞いたことは有ろう。
球卿は私より十ほども若いが、世間で甘藷先生、おいも先生の綽名で呼ばれる青木昆陽先生の所で私と一緒に阿蘭陀語を学んだ仲だ。
挨拶を良くしておくが良い。其方の遊学期間の延長を頼んでいたところだ」
初めてお会いしたばかりなのにとてつもない話だ。強い味方を得た気がした。
蕎麦屋に寄った。帰りの道々を遠いなと思ったことも何度かあるが、今日は近かった。遊学期間の延長、少なくともあと一年は学べる、江戸に居られる、頭の中はそれだけの思いを繰り返した。
日々に変わる師走の街の景色に目を遣ることもなかった。
「いらっしぃませー」
会うことを期待していた女子の声が耳に心地よく響いた。
「もり蕎麦ですね」
私が注文する前に言う。
「いや、今日は鴨の肉とネギの入った温かい蕎麦を頼む」
思わず言った。
「鴨南蛮ですね」
笑いながら言う。以前に隣に座った客が食べていたものを注文した。それが鴨南蛮と言うと初めて知った。
彼女が置いて行った湯呑の蕎麦湯を口にして、鴨も蕎麦も日本にある。田舎でも鴨肉はハット汁でも年越し蕎麦でも正月の雑煮の中でも口にした。何故江戸では鴨南蛮の呼び名なのかと、一人頭の中で理由を追究した。
「何故来なかったの?、(会ってから)一カ月が過ぎて(い)る」
鴨南蛮の膳を私の目の前に置きながら、年の暮れがもう近いと女子が言う。小皿に白菜の漬物が添えてある。
「いや、一度来た。其方の姿が見えなかった」
丼ぶりに箸をつける前だ。
「何時来たの?」
「十日ばかり前、この月に入って二十日前後・・・」
源内さんの殺傷事件があった日とは言えない。
「ああ、あの日。月のものが有って体調が酷く悪くて・・」
慌てるように口を塞いだ。
「蕎麦が伸びてしまう、早くお召し上がり下さい」
女子は暖簾の掛かる厨房の方に向かった。
健康な女子なら月のものがあって当たり前だ。私は医者だ、姿の見え無い女子に心で言った。
待っていた、少しは気にしていてくれていたと思うと何故か嬉しい。
お代を払う時になって、女子は自分からまつと言いますと名乗った。
「げんせつと言う」
「げんせつ?」
「うん、元旦の元に節分の節。大槻元節だ」
「良い名前、お医者様らしい名前ね」
今日は私の付けで良い、勘定は無くて良いと言う。
「いや、払うよ。書生の身だ、懐具合はいつも寂しいけど今日はそれ程でもない」
女子は受け取らなかった。
帰りの道は心が浮いたままだ。まつと言うのかと改めて頭の中に女子を思った。一年前(に知った)か、大して言葉を交わしたわけでもないのに同じ仙台領、郷里が近い。それだけで親しみがこみあげてくる。
有難うと思いながら、ここでも他人様に助けられているなと思う。腰を引き、頭を畳に擦りつけて是非にも望みが叶うよう良しなにお取り計らいお頼み申します。工藤殿にお礼を述べた場面が思い出された。
夜、早速に父上にも清庵先生にも状(手紙)を認めた。私の江戸遊学期間の延長について関藩から何か沙汰があると思う。蘭学について師事している前野良沢先生を通じ仙台藩、藩医工藤平助殿を紹介された。
その工藤殿が本藩を通じて私の江戸遊学期間の延長について田村公に申し出る。伊達のお殿様から一関公に話が上がると書いた。
書き終えてから、ふと、由甫さんはどうなると思った。先駆けですか、自分だけ勝手に抜けがけですか、と何時か前に聞いた由甫さんの言葉が蘇った。
状を書き直した。父上には清庵先生に改めて御礼を言いながらも、由甫殿も江戸に残れるようにして欲しいと倅が書いて来たと伝えて欲しいと書き加え、先生にはご報告とともに、是非にも由甫殿と共に期間を延長して学べるよう関藩への取りなしを依頼した。
五 平賀源内の死
一週間が過ぎた。見上げる空は雪に変わりそうな霙混じりの雨だ。三人とも自然と足早になる。表戸を開けたばかりの道々の店も薄暗い中に寒々と見える。
「寒いね。自分が前に居た信濃はもっと寒かったけどね」
「一関も同じです。北上山系が里に近いから師走になるともっと寒い日がありました」由甫さんが受けて応えた。
「この天気だと、昼前には雪に変わりますね」
先生宅から楼まではそう遠くないけど、このような天気の日は困りものだ。傘は有っても大概は足元が濡れる。私の言葉に、雨よりもいっそのこと雪になれば良いと有坂さんだ。
私達よりも朝が早い小母さん達が起してくれていた火鉢で暖を取って診療の場に出た。
「この天気では、患者も少ないですかね」
周りを見渡しながら由甫さんだ。すかさず有坂さんが、病は人を待たず、出だしが遅いだけで患者はいつもの通りだ、と応える。
「流行り病が収まれば良いんだが」
私が言うと、
「何時もの年と変わりない。これが飢饉の年となったらもっと大変だ。弱った身体でもっと風邪が流行る。患者が押しかけて来る。それが無いだけでもこの冬はまだ良い」
体験からの答えが返ってきた。
五つ半(午前九時)前にはパラパラだった患者も昼四つ(午前十時)には何時もの通り診療の場は徐々に騒々しさを増した。有坂先生の言うとおりだった。
それどころか、甫周(桂川)先生と中川〈淳庵〉先生が四ツ半(午前十一時)に診療の場に顔を出した時には、歌舞伎役者じゃないけど患者の方が待ってましたとばかりに押しかけた。
昼時を過ぎて未の刻、八つ半(午後二時)になると、それでも患者の数がかなり減った。
雪に変わったお天気のせいかなと思っていると、診療の場を覗いたさゑさんが有坂先生に中川先生、甫周先生に声を掛けて連れて行った。
残された私と由甫さんが戸惑っていると、間もなく有坂先生が戻って来た。何事もなかったように黙って診察を始めた。私も由甫さんも首を傾げたけど、有坂さんに聞くことはなかった。