第三章 大槻玄沢誕生              

             一 荒井庄十郎に学ぶ

 あの日、帰りの道々に小躍りした。去年の長月(ながつき)(九月)だけで六度も弟子入り志願に通ったのがまるで昨日の事のようだ。今思っても、朽木殿のご忠告があんなにも効果を発揮するとは思いもしなかった。

 去年の十月から通い出したのだから、もう丸一年を過ぎたことにもなる。良沢先生の所に通う日は朝五つ半から昼九つ半(午前九時から午後一時)までを己の時として良いと先生(杉田玄白)にお許しを得ている。

 通いの日を決めるのは何時も良沢先生の都合による。この一年、帰る段になって明日の講義の沙汰のあるなしを伝えられてきた。

 そのことだけでも天真楼で患者を診ている玄白先生や他の先生方、仲間に迷惑をかけていることになる。私のわがままな時間の使い方を許して下さっている周りの皆さんに感謝の気持ちで一杯だ。

 良沢先生の所では、私以外に学ぶ一人二人と一緒になることもあった。その都度、お互いに名を名乗り挨拶を交わし、引き続き(よし)みを通じている。源内先生の紹介があって門下生にしてもらったと言う勝三郎(司馬江漢)さんや、朽木殿と一緒になる日もあった。

 だけど大概は丸卓に先生と二人だけの差し向かいで教えていただけた。満足出来ないはずがない。

しかも、側の本棚には漢方や阿蘭陀の医学書、本草書の外にも天文、地理、測量等々の異国本が数多くある。初めて目にするものばかりだ。

 また、阿蘭陀の人々の生活習慣を垣間見るような絵の本も、引き札(パンフレット)らしき物もあり、手にすることも学ぶことも出来た。

 辞典が三つあった。その中の一つはエゲレス(英吉利)という国の言葉の物だと先生に教えられた。

異国の文化を知るのは本棚にある物に限らない。先生自慢の江戸大工に造らせたという百味(ひゃくみ)箪笥(たんす)という物にも驚かされた。

その箪笥に漢方の(くま)()奇応(きおう)(がん)反魂(はんごん)(たん)五苓散(ごれいさん)胡椒(こしょう)延齢(えんれい)(たん)()(こう)(たん)(さん)黄湯(おうとう)(きり)もぐさ、薄荷油(はっかゆ)橙皮油(とうひゆ)などに混じって、見たことも無い、知ることの出来なかった丸薬や粉の薬、瓶詰の薬等が入っていた。

 また、箪笥の上には患家に出かける時の持ち運び用だという目にも珍しい鹿革で出来た薬箱があった。中には四角い瓶や丸瓶が揺れないようにその大きさに合わせてマス目の仕切りがある。また併せて外科用の道具が一緒に収納されていた。

 小刀や(さじ)は楼で何時も見る物とそう変わりが無いが、ハサミが何種類か揃えられてある。我々の使うハサミは手のひらに持って握り潰すがごとくして使用するが、彼国のハサミは親指と人差し指を丸い穴の部分に入れ、刃の部分を交差させて紙や布を切る。

 また、ピンセット(阿蘭陀語)なる物は人の手や指そのままでつまんだりするのが困難な時に使う。金物で出来ている。それが大小四種類も一緒に収納されていたのには驚いた。 

 部屋の壁には重厚な木枠で囲われた彼国の風景を描いたらしい絵やご婦人の肖像画が架かり、違い棚にある花瓶も洋物だ。

 この一年余、私は鉄砲洲に向かい、由甫さんは天真楼に向かう。大概の日々がそうであったから由甫さんが何時も羨ましがっていたのは分かる。

 だけど、この一年は私にとっても由甫さんにとっても阿蘭陀語を学ぶにあたって大きな年になった。いや、今もそれが続いている。

 荒井庄十郎さんのお陰だ。荒井さんはまだ周りに寒さが残る、この三月初めに長崎から源内先生の所に来て、今もそのまま寄宿している。長崎遊学中、源内先生は荒井さんと親しく交友していたらしい。大歓迎の源内先生だ。玄白先生も大喜びだ。

 先生(玄白)が言うには、二年前の三月にカピタンに随行して来た吉雄耕牛(吉雄幸左衛門)殿、あの解体新書の序文を書いた吉雄殿に、是非に阿蘭陀語を塾中の者達に教えてくれる人物を江戸に派遣されたい、滞在期間中は面倒を見る、適当な人物を江戸に派遣されたいと源内先生と一緒に懇願したのだと言う。

 それがまさか、大通詞の西善(にしぜん)三郎(さぶろう)殿を養父に持つ荒井庄十郎さんが来てくれるとは思わなかった、吉雄殿のお姉さんの子、吉雄殿の甥になる方だ。阿蘭陀語を縦横に操る方だと、先生さえも興奮気味に由甫さんと私に教えてくれた。

 先生の願いが叶ったことになる。江戸見物を一通り終えた荒井さんが、三月半ばから天真楼の教壇に立つことになった。塾生に阿蘭陀語を定期的に教えている。

 楼の毎水曜日の未の刻から一刻(二時間)ばかりがその時で、その時刻、診療が休みになる。普段着に着替えた皆が浜町の先生宅に集まり、杉材の香りがまだ残る離れの講義所を使って阿蘭陀語の会話の勉強会だ。

 会話を阿蘭陀語ではサーメンスプラーカ(Samenspraak)と言うのだそうだ。玄白先生や桂川先生、中川先生、有坂先生、朽木さんも極力、参加している。

 忙しくて、所要があるのだと何かと出歩く源内さんの参加は少なかったけど、由甫さんも私も欠席したことはない。

彼国から見たら日本はバイテンランド(buitenland、外国)、我々よその国の人を、バイテンランデル(buitenlander、外国人)と言うのだそうだ。

 男に向かって言うお早うはフーデモルヘン、メネール(Goedemorgen、meneer)、女に言うお早うはフーデモルヘン、メブラウ(Goedemorgen、mevrouw)。コンニチワ

メネールは男への呼びかけに使い、メブラウは女への呼びかけに使うのだと言う。男に向かって今日(こんにち)わはフーデダハ、メネール(Goedemiddag、meneer)、女に向かって今晩わ,はフーデンアーブァント、メブラウ(Goedenavond、mevrouw)で、お早うも今日わも今晩わも兼ねて、区別のない万能表現方法は「ダハ!(Dag )の一言だと言う。

 ダハ!がお早うにも今日わにも今晩わにも、お休みなさいにもなると語る。ダンキュー、ヴェル!(dank u wel!、どうもありがとう)と、ブァト コスト デイト(wat kost dit、これは幾らするのか、値は如何ほどか?)は阿蘭陀の書を買うのに大いに役立ちそうだ。我々が言うところの書はーク(boek、本)と知った。

 会話の勉強会は私を羨ましがる由甫さんの心を癒す大きな出来事になった。しばらくは遠慮して各先生方や先輩達たちの後ろにいた由甫さんだったけど、今では席を一番前の列の私の横に取り、熱心に阿蘭陀語の習熟に取り組んでいる。目が輝いている。

 私とて、良沢先生に師事にしながら他に思いもしなかった学ぶ機会を得て一年前には想像も出来なかった程に異国(世界)を知り、阿蘭陀を理解し、阿蘭陀書の言葉も医学も大いに知ることが出来た。勉強がより進んだ。

 

 田舎から出て来る途中や江戸に来たばかりの頃の泣き虫の由甫さんはもう居ない。由甫さんはこの一年で私の背丈を越え、顔から幼さが消え、口や顎の周りに髭が生えだした。また、楼では診療に当たる各先生や先輩達の指示に従ってコツコツと生薬を切り刻む、すりつぶす、ふるいにかけきめ細かな粉にする、調合する、練り合わせる、丸薬に形作る、袋詰めにする、あるいは粉のまま薬包紙に包む等の作業に専念している。弱音を吐かない。

 私も良沢先生の所から楼に戻れば、誰ぞの先生に代わって患者を診る。由甫さんと一緒に製薬に当たることもある。

薬草や生薬の種類に効能等を知ることは人体の構造や各臓器の働きを知ることと同じように大事なことだと一関に居た時よりも実感している。阿蘭陀の医学書、本草書がそれを教えている。

             二 遊学期間の悩み

 そして、今、私の一番の心配事は遊学期間の終わりだ。霜月に入ったから残り四カ月。指折り数えると不安に取りつかれる。

 阿蘭陀医学の学びも翻訳の有様の習得も未だ途中だと藩に訴え出ても、厳しい藩財政を盾にして二年という期限は動かないだろう。期間延長が無くば田舎に帰らざるを得ない。

 由甫さんも一関を離れるについて藩の許しが必要であったろうけど、江戸滞在にかかる生活費も学費も清庵先生からの仕送りだ。藩からの支援が無くもこのまま数年は滞在を無理なく確保できそうに思う。そう考えると由甫さんを羨ましくも思う。

 阿蘭陀医学の習得は二年では相当に無理がある。一年や二年阿蘭陀語を学んで帰っても郷里には引き続き教えてくれる人とて無かろう、習得を助ける書を入手することとて難しかろう。天真楼入門にあたって言われた玄白先生の言葉が蘇る。

今になって、先生に己の悩みを言い出せない。

「支度が出来ましたよ。どうぞ召し上がれ」

「はい。有難うございます。いただきます」

焼かれた秋刀魚(さんま)が目の前だ。わかめ入りの味噌汁が良い匂いをさせている。

「元気がないわね。どうかしたの」

姉のような言い方だけど、今の悩みをさゑさんに口に出来ない。

「如何した。患者から流行り病を貰わないように朝飯はよく食べて、精をつけておいた方がいいぞ」

「お薬が必要ですか、何かお持ちしましょうか」

有坂さんの言葉を受けて由甫さんだ。今の私の悩みにつける薬は無い。

(せん)さんが顔を出した。

「お父様のお顔を書いたの・・」

それをさゑ(・・)さんに見せるために来たらしい。さゑさんが笑い出した。

さゑさんから受け取った絵を手に私も笑い、横から覗き込んだ有坂さんも大笑いだ。玄白先生の両目は顔の左右に飛び、両耳近くにある。鼻は真ん中にあるが小さく、鼻の穴が何故か大きい。小さな両目に眉毛が細く離れて額にある。手を出した由甫さんに絵を渡した。

 由甫さんも笑いだした。やがて大笑いだ。そして、さゑさんが解説した。きっと扇さんが先生の膝の上に抱っこされて、先生の顔を下の方から見たときのお顔なのでしょう。

 扇さんの絵が私の気持ちを紛らせてくれた。小さな右手に黒々と墨が付いていた。

 

 午後になって、何時もの通りに楼を抜け出させていただいた。鉄砲洲に向かった。先生(良沢)の指定した今日の時刻にはまだ余裕がある。

 目にする神社仏閣の塀を超えた木々の枝葉はすっかり紅葉している。時折ハラハラと舞い落ちる葉を見ながら故郷の山々を思い出した。

 無理な相談だと分かっていても父上に手紙を書いて遊学期間の延長を藩に願い出た方が良いのだろうか。八丁堀を過ぎて橋を渡り、大名屋敷の塀が続く中に在っても、どうしたら良いものかと自分の考えが纏まらない。