十一 前野良沢の許可
エレキテルを体験してから三日経つ。今日は九月二十八日。空は高く、朝から青空が広がっていたけど、午後になって急に肌寒さを感じるようになった。
「私も一、二年後には必ず門下生に加えてもらいます。阿蘭陀語を学びます。それ故、ますは元節さんが今日必ず弟子入りのお許しを得て下さい。必ずですよ。
朽木殿がおっしゃっていた御父上作成の紙の束をお持ちになりましたか?」
楼を出ようとしたとき、わざわざ近寄って来て言った由甫さんの言葉が、道々、耳に響いた。
そして鉄砲洲が近づくと、今度は、日本の学識者と言える者の中に阿蘭陀医書を翻訳できるものが出てこなければ真に阿蘭陀流医学の進展はないと言った清庵先生の顔が頭の中に浮かんできた。今日こそは・・・。
私の顔を知った門番だ。一週間ぶりになるけど、苦も無く中津藩中屋敷に入れた。門番は既に私が良沢先生の弟子になったものと思っているのかも知れない。
式台を前に来訪を告げると、何時ものご婦人だ。私の顔を見ると最初から申し訳なさそうな顔をして衝立の左傍に正座して丁寧に頭を下げた。
今日で六回目の訪問になる。ご婦人が顔を上げるのを待って、在宅を確認した。
「ならば今日は、私が普段使っている辞書だとこれをお見せ願いたい。是非ともお会いしたいと改めてお伝え下され」
ご婦人が消えた。胸が早鐘を打つ。これでもお会いできなかったらどうしようと思うと周りの肌寒さを感じながらも額に汗が滲み出てくる。腋の下に汗を感じた。
姿を見せたご婦人の顔は少しばかり緩んで居た。返事の言葉を聞くより先に、良い結果が顔に表れている気がした。
「お上がり下さいませ。お会いになるそうでございます」
そう言うご婦人も、嬉しそうだ。
先に立つご婦人の後を追って廊下に出ると、右側は中庭になっていた。赤と白の小さな萩の花弁が三尺ばかりの丈に一杯に咲いている。
左の障子の部屋を通り過ぎ二つ目の部屋の前に立つと、少しばかり驚いた。入口の板戸に丸い金属の取っ手がある。
ご婦人がその戸をコツコツと叩くと、中に向かって、お連れしましたと言う。そして、どうぞお入り下さいませ、と一枚戸を押し開けた。
十畳ほどの大きさその卓の手前には少し離れて幅が三尺ほどもある丸卓があり、飾り彫のある洋椅子なる物がその周りに四つ置かだった。先生は窓を背にして横に四尺、高さ二尺五寸、奥行き二尺はありそうな大きな卓を前にしていた。
その卓の手前には少し離れて幅が三尺ほどもある丸卓があり、飾り彫のある洋椅子なる物がその周りに四つ置かれてある。
良く見ると、大きな卓子も丸卓子も椅子も畳の上に敷かれた厚手のある布のような物の上に置かれている。これが聞いたことのある洋家具かと初めて見る。
「座るが良い」
手の平を上にして右手を前に出し、丸卓に誘った。あのご老人だ。一等最初に訪問した時に見た老人だ。驚きもしたけど、気を悟られないようにした。
先生の座る位置から真向かいの洋椅子を選んだ。座るのを確認すると、先生は立って丸卓の、私と差し向かいになる位置に席を移した。
有坂さんが言ったように、少しばかり頬を膨らませた童顔だ。後ろに束ねた総髪の量は少なく白髪が目に付いた。
「阿蘭陀語を勉強し始めて何年になるのかな?」
「いえ、何年と言えるほどにはございません。
東奥一関藩の藩医の身にある父が江戸詰めにあった頃、四年前に入手した解体新書と辞書の写しを頼りに、一人、阿蘭陀医学も阿蘭陀語も勉強してきたところです」
「この紙の束は容易に手に入らない辞典の一部を写し取った貴重なものだ。大変に手間暇がかかったと思う。御父上の手になるものだと?」
「はい。田舎でもそれを頼りに阿蘭陀語の勉強しておりました。
吾が江戸に出る時に持たせてくれました」
首を縦に、軽く頷く良沢殿だ。
「して、今は天真楼に居るとか」
「はい、この五月から通わせて頂いております」
「住まいは?」
「はい、浜町にある杉田玄白先生の所に寄宿させていただいております」
「それは良い。有坂も居るし、中川や桂川が時折顔を見せるだろう?」
「はい、石川玄常先生にも、嶺春泰先生等にもお声を掛けていただきました」
「解体新書の翻訳に関係のあった仲間が玄白の所に顔を出すのだから、勉強すべき其方の環境は整っていると言うことになるな」
言った先生は、一人頷いた。
「されど、真の医学は何のためにある。翻訳は目的ではない。彼国の医術を学び、人のため世のために活かす。より良い医術を人に施すために学ぶ。
医術の理解を深めんがために語学力を磨く。実際に活かす心が無ければ阿蘭陀語を学ぶ必要はあるまい・・・」
「はい、一関に在った時に、吾が師、建部清庵先生が、日本の学識者と言える者の中に阿蘭陀の書を翻訳できるものが出てこなければ真に阿蘭陀流医学の進展はない。
優れた医術を世のため人のために活かすために、未だ知られざる彼国の言葉に果敢に挑む。それが今の世の豪傑だと申しておりました。
己が豪傑になれるかどうかはともかく、阿蘭陀の書の教えをこの人の世に、日本により活かせるようになりたいのです」
応えながら、解体新書の序文の筆翰をお断りしたと聞く、良沢先生の自説を実際に耳にしている気がした。
「彼国に学びこの日本に活かすべきは今やは医学、本草学、薬学に限らず天文、地理、測量、絵画に日々の生活習慣のあり方もだ。
其方は彼国の言葉を学ぶにも、医学と言わず広い視野から阿蘭陀語を学ぶが良い」
源内先生もそう言っていたなと思う。
先生は言いながら、自分の右後ろの方になる横に二尺五寸、高さ三尺ほどの三段に仕切られた書棚に目を移した。見たことも無い厚みのある本がその中に何冊も横に並んでいる。背表紙は異国の文字だ。
「ところで何時から通える?。何時から通ってくるつもりだ。
月に二度や三度と考えているのなら最初からお断り申す。阿蘭陀語の習得はそんなに甘いものではない」
振り向きざまのお言葉だ。穏やかな顔を見せているけど、目は鋭く私を射抜いた。
「玄白先生のお許しを改めて得ねばなりませんが、毎日でも通わせていただきたいと思います」
「ハハハハハ、それは私が困る。週に三日四日、月に半分は通うが良い。
しかも今日のように夕方に来るのではなく、明け六つとは言わぬが朝五つ半から昼九つ(午前九時から正午)の時が良い。
人はその時刻が最もことに当たるのに精が出る」
「月に如何ほどの手当に・・・」
私には支払う月の手当も大きな問題だ。
「月に二両・・・、少なくとも一両。ハハハハ、冗談だよ。藩からそれ相当のものをいただいている身だ。その様な心配は要らん。
その代わり、私の眼鏡違いで覚えが悪い。私の決める期日までに阿蘭陀語の理解が出来ていないと私が判断したら即刻辞めてもらう。
明日から来なくても良いと告げる。そのことを承知しておくが良い」
[付記] 次回、水曜日(24日)から、「第三章 大槻玄沢誕生」になります。
お読み下さる皆様に深く、深く感謝申し上げます。この作品を11月末に投稿を始めて、12月には約800のアクセス数を頂きました。そしてこの1月、昨日(21日)を持って、1カ月1000を超えるアクセス数(延べ読者)となりました。小生の作品の月間読者数の最高を更新し続けています。
76歳になる小生、前編を投稿する傍ら後編を執筆中ですが、皆様から頂くアクセスが最大の励みであり、激励でもあります。涙が出るほどに嬉しい限りです。
今後とも宜しくお願い致します。
[蛇足]1月6日に、8人兄弟のうち既に4人が亡くなり福島県たいら市に嫁いだ姉を除き、妹、弟と3人、池袋で昼食会を開きました。それが終わって暫く街中を散策し、喫茶店に入りました。コップの水を飲んで途端に腹痛です。救急車騒ぎになってしまいました。生牡蠣でしょうか、原因が特定できないままでしたけど食あたりは幸いに私一人ですみました。
病院の処置を受けその日の夜のうちに帰宅出来ましたけど、人生何処で何が有るか分からないとつくづく思い知らされました。あの時頭に浮かんだのは、大槻玄沢抄最後まで書かねば、書かずに死ねないぞと自分に言い聞かせる自分でした。
今は後編も楽しんで執筆しております。既に400字詰め原稿用紙にして600枚にもなりました。寛政五年、大槻玄沢35,6歳を書いています。
今は、原稿用紙に糸目をつけず、何枚に渡っても自分で納得がいけば良いと自分に言い聞かせて執筆しています。
重ねて、今後とも宜しくお願い致します。