越後屋からそう遠くはなかった。朽木殿の誘いのままに黒塀のある小料理屋に寄った。 

番頭と言うのか手代と呼ぶのか、彼の、いらっしゃいましの落ち着いた声で迎えられた。

 お供連れで六人様と奥に伝えられた。朽木殿が贔屓(ひいき)にしている所らしい。案内された二階の六畳ばかりの部屋に入ると、朽木殿にシカタ(四方)と呼ばれたお侍様が通りの方になる障子を開け放った。

 夕暮れにはまだ早い。青い空に薄雲が架かっている。蒸していた部屋に風が入って来た。

「おお、気持ち良い」

 そう言いながら一輪の秋桜が飾られた小さな床の間を背に朽木殿が座った。 

このような店に入るのは一関でも江戸に来ても初めてで戸惑った。

 朽木殿の指示通りに、開けたばかりの障子のある側に由甫さんと並んで座った。挨拶に顔を見せた女将らしきご婦人に朽木殿がいつもの通り頼むと伝えると、直ぐに体験して来たばかりのエレキテルの話になった。

「驚いたね。何事も聞くより体験。実地体験だね。エレキテルが良く分かったよ。

されどあれで本当に病が良くなると思うか?。世間では火をとりて病を治すと言われているそうだが、火をとりてとは何ぞや。それがまず分からない。手にビビッと来たのは確かだ。いや驚いたね」

 エレキテルの餌食になったのは語る朽木殿も私も由甫さんも一緒だった。輪になっていた全員が同時だ。朽木殿も本当の所はエレキテルを良くは分かっていなかったらしい。勿論、私も今もって原理を()せない。

「人を驚かすにはもってこいのものですね。エレキテルのお陰で肩こりや腰痛が治ったと耳にしますけど、あれは心の臓に病を抱える者にはいかがなものでしょうか。

 驚いて即刻に死んでしまうなんてこと、無きにしも有らずにも思えます」

「それ、然りだね。心の臓に決して良い物では無い」

朽木殿が断言する。

「源内先生に御挨拶もしないで来ましたけど、それでよかったのでしょうか」

「何、今度お会いしたらお礼を言っておくよ。それよりこの機会を呉れた有坂殿にお礼を伝えておいて欲しい。

ところで、その有坂殿から大槻殿は前野良沢先生に阿蘭陀語をご教授願いたい、弟子入りしたいと日参していると聞いたが・・・」

「はい。日参は兎も角、この長月(ながつき)に入って五回ほど鉄砲洲にある中津藩の先生のお住まいを訪ねています。しかし、何時もお出かけしている、体調がすぐれないと病を理由にして断られ、会うことすら出来かねています。

何時も決まったご婦人が応対に出て来るだけです。

 度々に、玄白先生から御了解をいただいて楼を抜け出ている有様です。

 三度目にお伺いした時には中川淳庵先生の紹介状をご婦人に託したのですが、今もってお会い出来ずにおります。

何か良沢先生にお会いできる方法、門下生に加えていただく方法がございますでしょうか?」

「解体新書が世に出て以来、押しかける者が多くて良沢先生はさぞウンザリしているのだろう。

来る者はどれもこれも弟子入りを口にし、名声を売ることを目的としていると思われているのだろう。

 解体新書の翻訳に最も功績のあった先生が、あの序文の筆翰(ひっかん)を固くお断りした理由を知っているか?」

「はい、先生が長崎遊学の途中に筑紫(福岡県)の太宰府天満宮に立ち寄り、阿蘭陀医術習得の成就とともに、いやしくもその術の真理を知らずしてみだりに名声を得んとするところあらば神よこれを罰せよと祈願していたと、有坂先生に聞いて折ります」

「その通りだ。医者や薬師(くすし)仲間に頑固で通っているが、ただの頑固ではない。先生の信条なのだ。

先生は吾との講義の時に、何事も学ぶにあたって名声を求めることが目的にはならない。己は余のため人のためになる真理を追究するのだと語った。

 評価は人のするもの、名声は後になって人が作り出したものに過ぎないと言った。

全く同感だ。事に当たる姿勢から初めとして先生から学ぶことは多くある」

私も由甫さんも首を縦にした。

「朽木殿がその良沢先生に阿蘭陀語をご教授いただくようになって五、六年になると有坂先生にお聞きしました。

良沢先生にご教授いただくにはまず門下生に加えていただかなければなりません。

 不躾(  ぶしつけ)ながら、何かそのための手立ては御座いますでしょうか」

「誰ぞの紹介状が有ると言うだけでは先生は受け入れない。初めて訪ね来て、入門したいと言う者と同じだと捉えているのだろう。

 入門を許してもらうには、既に自分はこれだけのことをしている、阿蘭陀語を習得したいがためにこれだけの努力をしているという、何か明らか(証明)にできるものがあると良いのだが・・・」

「恥ずかしながら・・そのようなものは特にございません・・・。有坂先生に学び始めて以来、ABCD(あーべーつえーでー)の帳面と医術専門用語を阿蘭陀語で何というか、どういう綴りになるのか書留め置いている帳面ぐらいのものです。

それらの語句を後になって確かめるために彼国の書、江戸に来て知りましたが辞典とか言う物を片手に語句の周りの字句、綴りが如何(どう)なのかを調べているぐらいのものです」

「うん?、大槻殿は阿蘭陀語の辞典をお持ちか?」

「いえ。田舎に居るときには自分勝手に辞書と言っておりましたが、恥ずかしながらとてもとてもそのように言えるものではございません。

江戸に来て辞書、辞典とも言うものがどの様な物か知りました。

父は仙台藩支藩になる一関藩の藩医です。その父が江戸詰めの折りにカピタンや阿蘭陀通詞を知る知人から写させてもらったという父が作成した藁半紙の束です。

 江戸に出て来るときに、大切に使えと言って持たせてくれました。それが今、阿蘭陀語を知るのに少しばかり役立っているのです。

 辞典は彼国の文字ですので分からないことが多いのですが、よく見ると一つの語、用語の周りは同じような()字面(じづら)で始まり終わりの方が変化している語や用語が並んでいます。つまり同じような意味を持つものが何か変化して別な意味を伝えている。

 父の紙の束からもそのように思っていたのですが、有坂先生や中川先生等の阿蘭陀語にかかる講義をお聞きしていて、また、江戸に来て先生の所で辞典を実際に見る機会を得て、それがそうだと理解ができて来たところです」

「確かにその通りだ。そうと分かれば阿蘭陀語の上達は早いと思う。

今度(こんど)良沢先生の所を訪ねる時は、その紙の束をお持ちするが良い。

 誰であろうと応対に出た方にそれをお貸しして、これを頼りに勉学にいそしんでいると申し添えしてくれと頼むが良い。 

中川殿の書いてくれた紹介状と、その紙の束から先生も改めて考え直すと思う。先生はきっとお会いしてくれるだろう。考えを改めると思う」

「紹介状は中川淳庵先生のご芳名になっておりますが、実際は私の話を聞きながら有坂先生が書簡の中身を(したた)めてくれたのです。

 有坂先生は、先生(玄白)や中川先生、桂川甫周先生等と一緒に解体約図や解体新書の翻訳、まとめの労をとっていながら、どこぞの藩医でもない私の名より小浜藩中川淳庵と有れば門番もすんなリ通してくれようとのお言葉でした。

感謝しております」

「有坂殿らしい気配りだね。人の心を読んで良沢先生に敬意を表しての事だろう。いかにも苦労人らしいね」

運ばれてきた料理に話が中断されるような形になった。黒内朱塗りの高足膳に並ぶ刺身と天ぷらを確認してから朽木殿は盃を手にするよう私と由甫さんを促した。

 付き添いのシカタというお侍様が朽木殿始め各自の盃に注いで回る。お侍様から注いで貰うなぞ初めてのことだ。驚きも驚きだ。朽木殿は一口(ひとくち)盃を口に運び、それから続けた。

「彼は信州の出だけど、信州(しんしゅう)信濃(しなの)のどこぞと言う話はまだ聞いたことが無い。育ったところが決して良い思い出だけではないのだろう。

 玄白先生からお声がかかった時に飛んできたと聞いておる。姉の顔が如何(どう)あったか思い出せなかったけど、姉の名を聞いた時、事情を知った時、飛び上がらんばかりに喜んだ。取る物も取り合えず、ただただ江戸を目指したと聞いたね。

別れた時が四歳と六歳、凡そ二十三年ぶりの再会だったとお聞きした」

「姉とは・・・」

「お聞きしていないか?、玄白先生の御内室、登恵殿だよ」

「えっ!」

思わず由甫さんと顔を見合わせた。

「奥様と有坂さんは兄妹?、実の弟になるお方なのですか」

言葉にせず朽木殿が首をニ、三度縦にした。さゑ(・・)さんが先生(玄白)の腹違いの妹だと先頃に知ったばかりだ。そして今、有坂先生が先生の奥様の実の弟と聞いて私も由甫さんも驚くばかりだ。

「お二方(ふたかた)は江戸の生まれだ。父親になる方は下野(しもつけの)(くに)喜連川(きつれがわ)の藩士だったと聞いておる。

六歳と四歳の時にご両親を病で立て続けに亡くし、登恵殿は喜連川藩の家老を勤める叔父に引き取られそこで育ち、有坂殿は信州信濃のどこぞに引き取られたらしい。

家を継ぐべき男子が信濃に引き取られたと言うことは父親の出が元々そちらになるのかも知れない。

登恵殿が二十九(歳)にして四十一(歳)になる玄白先生と結婚した時に、有坂殿を江戸に呼び寄せたのだ。

 登恵殿は大事に育てられ、先生の所に嫁ぐ前の凡そ十年間は伊予(いよの)(くに)大洲藩(おおすはん)の江戸屋敷で公(藩主)の御母堂に当たる方にお仕えしている。

 薄幸の境遇にあったにも関わらず、あの通り朗らかで教養があり、玄白先生を良く支えている。さゑ殿同様に先生の所に集まる方々の面倒をよく見ているお方だ。

 有坂殿は先生の一番弟子ともいえるね。先生が解体新書で世に知られるようになる前から同じ屋根の下で共に暮らしておる」

 半時ほども居たろうか。表に出るとまだ生暖かい風が通り過ぎた。朽木殿等を小料理屋の前でお見送りした。

思いがけない話だった。これから先、有坂先生と如何(どう)向かい合えば()いのだろう。

楼(天真楼)に在っては先生だけど、同じ屋根に住んでいるがゆえにある時は兄のような気持ちで甘えていたのだ。有坂さんを自分達と同じ書生の一人、先輩、玄白先生の内弟子と思い込んでいた。

「鱗(衣関)さんも兄(亮策)もお世話になっている。そして今度は私達がお世話になっているのですから有坂先生には本当に頭が上がりませんね」

「良沢先生宛に私の履歴を(したた)めてくれたのも有坂さんだ。親しく中川先生や源内先生との間を取り持ってくれたのも、また朽木殿を紹介してくれたのも有坂先生だ。

 今まで通り接していくしか無いが、有坂さんが困った時には、何か手伝えるものが有ったらその時には力になろう」

帰りの道々、由甫さんと話した。

 

[付記] 昨日(18日)、年末歩いた駒場薬園の帰り道、大槻玄沢の「夢遊西郊記」の続きで、渋谷の道玄坂から西の方角に道を採り、祐天寺、碑文谷の円融寺(法華寺)、それから目黒不動こと龍泉寺、行人坂等を西郊記の通りに歩いてきました。

 スタートを道玄坂途中からと設定して、行人坂を上りきって間もなく山手線目黒駅、午後4時30分にもなりそこで打ち切りとしました。また後の日に、目黒駅から大崎、品川、田町等を経て玄沢の住居、三十間堀に見立てた新橋駅に戻ろうと思います。

 わが家から駅までの往復、駅の乗り換え等の距離、3,800歩、2.7キロを差し引いても、また祐天寺に至る道を途中間違えたりして歩いた距離はスマホで26,000歩、約17キロになりました。(計29800歩、19.7キロ)

 最後に寄った、目黒不動に甘藷先生、青木昆陽のお墓が有りお参りしてきました。今執筆中の大槻玄沢抄後編で少しばかり青木昆陽に触れて書かせていただいております。

 小生が高校時代、笑われるかな、凡そ半世紀も前です。受験対策にサツマイモ=青木昆陽、解体新書=前野良沢、杉田玄白とだけ丸暗記していました。それが、この大槻玄沢抄執筆の間の文献調査で、将軍徳川吉宗にオランダ語を学べと命じられたのが青木昆陽、野呂元丈。

 そして、青木昆陽の蘭学、オランダ語の一番弟子が前野良沢。半世紀も経って青木昆陽と前野良沢、サツマイモと解体新書が関係していたと知って驚きました。

 青木昆陽のお墓は、目黒不動尊(龍泉寺)本堂の左にある坂を上って本堂を保護する金網を出て、右に方角をとって本堂裏と右下に公園を見ながら3,40メートル行った左側に在ります。一般の家の真向かいでした。先に、龍泉寺の離れた墓所のお墓掃除をしていた方にお聞きしていなければ、本堂の下の方にある青木昆陽の顕彰碑だけ見て帰る所でした。

お墓の側に立つ青木昆陽の言葉。「享保二十年。甘藷を種(う)う。甘藷流伝して、天下をして飢うる人無からしむる、是れ予が願いなり」