中川先生にも有坂さんにも励まされることとなった翌々日、長月(ながつき)と月が替わった。その日の夕方に、さゑ(・・)さんの給仕を受けながら玄白先生の在宅を確認した。

 夕餉を済まして既に書斎に入っていると言う。由甫さんがどうかしましたかと聞いてきたが笑ってごまかした。 

同じ屋根の下に在ると言っても先生の書斎を自ら一人で訪ねるのは初めてだ。一旦自分の部屋に戻って、如何話すか頭の中で想像しながら整理して、それから訪ねた。緊張した。

「入りなさい」

廊下に膝ついたまま、障子を開けた。

 先生は床の間を後ろにして文机の前に座って居た。一瞬、一関に居た時の清庵先生のことを思いだしたけど、座って居る人物は小柄にして細い身体だ。

指図のあるままに文机の前に座らせていただいた。緊張で口の中が乾く。思わず閉じている口を一層閉じた。

「どうだ、もう四カ月にもなる。楼(天真楼)の戦場のような毎日にもこの屋敷の中の生活にも慣れたか?」

先生のお言葉が先になった。微笑(えみ)は私の緊張を解くためのものだろう。お顔には結構深い皺が刻まれている。

「はい。楼の方では先生方や同僚に教えられることが多く、またこの屋敷に在ってはさゑ(・・)さんと奥方様に何かとお世話いただき、この上ない暮らしにございます。

 時折、由甫さんと感謝するしかないねと言いながら、ここに在る間を一層実りあるものにしなければと励まし合っております。

先日、先生に調べて見なさいと宿題のあったへーステルの外科書、楼に早出して漢方の医書にあるそれらしき絵図を探し、比較しながら何を言わんとしているか図書倉で調べたりしてみました。しかし、私の語学の力ではちんぷんかんぷんでした」

「うん。それは当然だろう。有坂君から塾生の中で阿蘭陀語の習得に一番熱心なのは其方(そなた)だと聞いておる。

へーステルの外科書の一項目を託して、其方がどのような行動に出るのか、申し訳ないが試してみた」

そこまで聞くと、黙ってはいられなかった。

「先生、阿蘭陀語を学びたいのです。(かの)(くに)の医学をこの日本(ひのもと)に役立てるためにも阿蘭陀語を翻訳できるほどになりたいのです。その機会を与えて下さい。

 中川先生と有坂先生は、習うなら前野良沢先生に習うのが一番だろうと言ってくれました」

 既に良沢先生の住まいは築地の鉄砲洲(中央区築地明石町)に有る、豊前中津藩中屋敷までの行き方を教えて貰ったとは言えない。

「阿蘭陀語の習得は容易ではない。一年や二年の短い間に出来る物では無い。

桂川(甫周)君に続く人材を育てなければと常々思ってはいるが、其方の江戸滞在の期間を考えると私も大いに迷うのだ。

 語学の師に良沢殿を選ぶのはその通りだろう。しかし、時を考えてみれば学んでも中途半端になる。そのことは我々が身をもって体験しているから言うのだ。

 一年そこらこの江戸で学んでも、その後に引き続き教えてくれる師や友とて郷里、一関には居なかろう。結局は無駄になる。それが惜しいのだ」

「先生、無駄にはしません。何処にあっても勉強は続けます。それ故に先ずは学ぶ機会を与えて下さい。お願いします」

頭を畳に擦りつけた。それから先生の顔を真正面から捉えた。

「学ぶとなれば天真楼に顔を出さない日が出て来ると思います。

また楼に顔を出したものの途中から抜ける、薬の調合にすら手を抜く時があると思います。先生にも、楼の皆さんにも迷惑を掛けながら日を送るようになると思います。

 故に、先生の許可が無ければ、お許しが無ければ私の阿蘭陀語を学ぶという今後の行動はあり得ないのです。

お願い致します。是非に学ぶ機会を与えて下さい」

 また頭を畳に擦りつけた。頭の中で考えていた粗方(あらかた)を口に出来たと思う。先生の次の言葉が出て来るのに間があった。その間、口を一文字にした。

「こうしてみると、元節も吾に似て身体は小さい方だな」

思いがけない言葉に驚いて顔を上げた。

「抱く思いは大きい方が良い。解体新書を世に出した後、(わし)はこの四年余りへーステルの外科書の翻訳に取り組んでいる。

目もしょぼついて心もとない身にあるが、世のため人のためになる、その思いが今の(われ)を支えている。時は金で買えないが、時を生かせるのは(おのれ)だ。己自身だ。自分だ。努力してみるか」

「はい」

 嬉しさのあまり、はい、の後に続く感謝の言葉が出なかった。許されたのだ、許可が下りたのだ、私の満面の笑みを先生が苦笑交じりで見ている。

 

 翌朝、朝餉の席で会った有坂さんに、先生のお許しが出ました、良沢先生の所に通えます、と小声で報告した。さゑ(・・)さんが、何時もの茶碗に飯を大盛にして寄越した。

「通うとなれば、体力がもっともっと必要になりますよ」

と口を添えた。

 何故知っているのだろうとつぶやくと、上座になる隣に座って居た有坂さんがそっと言った。

「先生の妹さんだもの、昨夜のうちに元節君のことを聞いたのかもね」

 有坂さんの顔を見て、そして、さゑ(・・)さんの顔を改めてみた。

住み込みの女中さんだとばかり思っていた。楼とこの屋敷との間を行き来するのも、もっぱら主従関係にある先生の指図が有ってのことと思っていた。

 先生の妹になる人だと、今の今まで知らなかった。そう思うと、この数カ月の間に失礼なことはなかったかと赤面した。

遅れて顔を出し、差し向かいに座った由甫さんが昨日の夕と同様に、どうかしましたかと聞いてきた。後で話すよ、とだけ答えた。

 由甫さんの部屋に寄った。江戸に来て凡そ五ケ月、共に同じような行動をしてきたと思う。しかし、この先は大きく違ってくる。話しておいた方が良い、そう思った。

 続きの部屋になっているけど、私の部屋の方が先生達の住む座敷等から離れている。部屋の造りは全く同じだ。一間の押し入れが布団と下着や着物を入れて置く行李の置き場所だ。後は畳が六枚敷いてあるだけだ。

 文机が押し入れの横の位置にある。自分と同じ配置だ。またその側に何時購入したのだろう幅三尺、三段になる書棚が置かれてある。漢方にかかる医書が何冊か並んでいたけど、本草綱目と解体約図と解体新書が目に付く。

 源内先生がまとめたという物類品(ぶつるいひん)何とかという書が有ったのに驚いた。私の部屋よりもはるかに物が整理整頓されている。

 文机を横に差し向かいに座ると、ここ三日間の出来事を語った。

「抜け駆けですか」

明らかに不満の顔を作り、横を向いた。構わずに言った。

「一関を出る時に阿蘭陀語を学ぶ、習得する、彼国の医書を翻訳できるまでになる。そう決心して田舎を出て来たのだ」

「自分だって同じです」。

語気を強める。思わず気圧(けお)された。間に少しの沈黙の時が流れた。

「一関に帰りたい」

 下を向く由甫さんの頬から不意に涙が畳を濡らした。両の肩が揺れている。それを目の前にしても何故か落ち着いている自分だ。この先の人生が同じなはずはない。人それぞれの人生だ。知り合う人物(ひと)も知る物事も違い、体験する喜びも悲しみも当然に違ってくる。

「由甫さんはまだ十六(歳)。人体の構造を良く理解し各臓器等の働きを知って、治療方法の幾つかを知って、それから語学の習得に当たっても遅くはない。

 むしろその方が阿蘭陀語を理解し易い。翻訳の力をつけることも出来ると思う。

 知っての通り各先生方も言うところだ。

 焦らずに今は医療の基礎、漢方の教えを学んだ方が良い。私の歳まで五年ある。その期間たるや私よりも阿蘭陀医学を学ぶための準備に生かせると思う。

 この江戸で頑張ろう。今までと変わらず私が力になれるところは協力する」。 

 

 出かける時刻になって、何時もの通り由甫さんと一緒に(天真)楼に向かった。さゑさんに手を引かれ玄関口に揃った先生の子供達の、行ってらっしゃぃませーが何時もより響いて聞こえた。

 時間がそれほどなかったけど、あの後、如何考えてくれたのだろう、由甫さんは無言のまま共に歩を進める。声をかけずらい。

空は良く晴れている。この空が一関にも続いているのだと、ふと思った。残暑が厳しい一日になりそうだ。

             九 初対面の前野良沢

 昨日の昼時、楼(天真楼)で三日ぶりにお会いした中川先生にも玄白先生のお許しが出たと報告した。同時に有坂先生と一緒に深々と頭を下げ、お礼を述べさせていただいた。

 夕方に、有坂先生に貰った地図を頼りに良沢先生の家を訪ねた。五ケ月が経つとはいえ由甫さんや塾の同輩と江戸市中を歩き回ったためしはまだ無い。それ故に、目に入る商家や行き交う人々を見ながら独り街中を行くのも何となく嬉しい。有坂先生に面白いことを教えられた。

 千住の大橋を境に大川の下流は隅田川だと言う。その隅田川が浅草付近では浅草川とか宮戸川と呼ばれ、両国辺りでは両国川と言われているのだと言う。

 浜町から茅場(かやば)(ちょう)と言う街並みを楽しみ、やがて八丁堀の組屋敷塀の通りに入ると風に乗って一層潮の匂いがしてきた。

橋を渡ると大きな屋敷塀が続いた。ここが鉄砲洲と呼ばれている所かと思いながら歩を(ゆる)め探し歩いていると、逢引(あいび)き橋と(つや)めいた名の付く橋が有った。驚いたし、ふと足を止めた。

 次の橋を渡ると中津藩中屋敷は直ぐだった。どこぞの大名屋敷か知らないが、その塀の先に松林と海の景色が垣間見えた。

門番に、前野良沢先生に宛てた天真楼、小浜藩医、中川淳庵の封書を見せると苦も無く屋敷内に入れた。

 何処の藩にも属さない自分の名では天真楼と書いても門前払いであろう、かと言って玄白先生の名を使うことは出来ない、そう言って昨日の昼時に中川先生から差出人の承諾を貰ってくれた有坂先生だ。

 文の中味も昨日のうちに有坂先生が(したた)めている。私の履歴と阿蘭陀語習得の意思の固いことを書き、是非にもご教授されたい、杉田玄白先生もご承知のことであると書いたと聞かされた。重ね重ねのご配慮に有坂先生には頭が下がるばかりだ。

 武家屋敷の造りに向かって、大きな声で来訪を伝えた。誰も出て来ない。

二度目の声を大きくした。右横からだった。

「何かご用か」