七 中川淳庵

 時折、玄白先生の本宅(浜町)によって先生の子供たちを相手に屈託なく遊ぶ中川先生は先生の後輩だと知った。同じ小浜藩の藩医で先生同様に奥医師になったばかりだと有坂先生から聞いた。

 四十近いとも聞いたが、先生や桂川先生、石川先生、有坂先生よりも阿蘭陀語が得意なようだ。天真楼での講義においては解体新書の巻の二にある頭の構造とその働き、神経と口、目、耳、鼻や舌について説明してくれるが、時折、パルへインの解体書やパルシトスとか言う人物の解体の書を交えて話すのに驚きもし、感心もする。

 中川先生の住まいは小石川の(かな)富町(とみちょう)(文京区春日二丁目)の方に有るらしい。だけど、(天真)楼での仕事が終わると有坂先生と一緒に浜町に帰って来ては有坂先生の部屋に籠るのをしばしばみている。有坂先生に尋ねた。

「中川先生は今、阿蘭陀の本草学と薬局とか言う物にかかる書の翻訳に取り組んでいる。その翻訳に手を貸して欲しいということで私の所に来ている。

 先生は本草学に興味を持ち源内先生同様、田村(たむら)元雄(げんゆう)(らん)(すい))先生の所に出入りしていた。当初は田村一門での本草の物産会だったが、第三回の東都物産会から源内先生が主催するようになった。

 源内先生から、異国の教える本草のことも阿蘭陀の薬局という物もどんなものか翻訳紹介したらとの提案があったらしい」

 中川先生自身が馬になる子供達との遊びはその息抜きらしい。子供達は子供たちで、順庵先生は今日は来ないのかと有坂先生にまとわりついて聞くくらいだ。

 何時の時もそれをニコニコしながら玄関口で見守る奥方様(玄白の妻、登恵)だ。玄白先生宅の住人になって日の浅い由甫さんや私だけど、玄白先生と中川先生の家族同様の付き合いを知った。

             八 阿蘭陀語を学びたい

 亮策さんの気配りや玄白先生のご高配から書生生活の基盤は凡そ整った。生活のリズムも出来つつある。

しかし、それだけで私の心は満足しない。医学、薬学に天文、地理、測量や絵画、語学などあらゆる分野で阿蘭陀熱が活況を呈している。江戸に来てそれを現実のものと知った。 

 先生等の講義を聞いているだけでも今までの医学に固執していてはならない、肩をすぼめて御上の言うことを聞いているだけの時代ではない、源内先生の言うとおり異国に学ぶべきことが多いのだと思う。

 それなのに薬の調合と目の前の診察に明け暮れて、また講義所で学ぶだけで良いのだろうか。清庵先生みたいに世の現実を見て人々のためになることをする、それが、自分が国(一関)を出る時に思い描いた夢だ。

 これからの世のため人のために自分は一体何が出来るのだろう。阿蘭陀医学を理解する、推進する。それが人のためになる。

治療に役立つ草木、鉱物等をより多く広く知る。初めて見る器具を使って手術を行い治療の効果を高める。そのためにも阿蘭陀語の習得が最も重要だ。これから先、語学の知識が何よりも必要だ。そう思うと、悶々(もんもん)とする日が続いている。

 

 中川先生が来ている時、さゑ(・・)さんに代わってお茶を有坂先生の部屋に運ぶ役目を買って出た。二人は幾つかの行燈(あんどん)を贅沢に使い部屋を明るくして机を右左に並べていた。

 桂川先生に聞いた轡丸十文字の紙が二人の辺り一面に散らばっていた。阿蘭陀医学書と辞書とに首っ引きだったのだろうけど、私が部屋に入ると揃って目を私に向けた。

「今日はさゑ(・・)さんじゃないんだ、珍客だね」

そう言って中川先生がニコリとした。それが、二人が手を休めるキッカケになった。

 余計な邪魔をしたようで悪い気がしたけど、それを機会に自分の目的を腹に据えて中川先生と有坂先生に相談した。一気に心情を告げた。

「自分も阿蘭陀語を学びたいのです。楼(天真楼)で知る阿蘭陀語以上に、お二人のように彼国の語を話し、翻訳出来るようになりたいのです。是非にその(すべ)をお教え下さい」

 中川先生が有坂先生の顔を見て、それから私の方に顔を向けた。ニコリとしたときの人(なつ)こい顔では無かった。

「まだ江戸に来て四、五カ月。楼で学び始めても三、四カ月だ。塾で学ぶ医学、医術を習得するだけでも一杯一杯だろう。他に語学を学ぶ余裕は無いと思うが・・・」

「自分が藩から得た遊学の期間は二年。それしかないのです。もう五ケ月が過ぎるのです。(あと)一年余。それだけなのです。だからこそ語学の基礎を学びたいのです。

 限られた時間の中でも、江戸に居るうちに翻訳の一端を出来るほどにはなりたいのです。

 先生お二方(ふたかた)の手伝いをさせて下さい。

少しでも阿蘭陀語に触れる機会、翻訳の機会を多く得たいのです。邪魔にならないようにしますので、是非にお願い致します」

今度は有坂先生が中川先生の顔を窺った。無言のままの中川先生だ。

「今翻訳しているのは中川先生が以前から関心を抱いている(かの)(くに)の薬局という物だ。

阿蘭陀では人々が専門の家、施設に薬を求めるらしい、そこが薬を調合し販売、又は授与すると言う。阿蘭陀語で薬局はアポテーク(apotheek)だ。

 其方が本草も十分に知らず、また彼国の人々の暮らし方を知らずに翻訳をどうのと言うにはまだ早い」

少しばかり、語尾は怒気を含んだ言い方だ。

 中川先生は諭すような言い方をした。

「学ぶ意欲のあることは十分に分かった。しかし、一、二年そこらで彼国の言葉を翻訳できるようになるのは無理だ」

「この機会を逃したくないのです。彼国の言葉は江戸に居ればこそ学べるもの、知りうるものと思っております。

何卒(なにとぞ)、何卒、その機会を与えて下さい。手伝わせて下さい。はい、何でもします」

頭を床に擦りつけた。中川先生が有坂先生の方を見るのが分かった。

そして私が天にも昇る気持ちになる言葉を掛けてくれた。

「私や有坂君に学んでも、あるいは桂川君の側で習っても、短い期間に十分な阿蘭陀語を知ることは出来ない。

阿蘭陀語と言えばこの広い江戸と雖も前野良沢先生ほどに理解し、語れる人は他に居ない。先生ほど優れた阿蘭陀通詞(つうじ)は居ない。教わるには一番適した人だろう。 

 一度、良沢先生に当たって見るか?、我々のたどたどしい阿蘭陀語を聞いているよりもはるかに早く阿蘭陀語の習得が進むであろう。

 だけど頑固で変人とも言われる先生だ。そもそも弟子入りが叶うか如何(どう)か・・・」

 言う言葉は厳しくとも理解と賛意以外の何物でもない。思わず、はいと言い、有難うございますと応えた。

天真楼入門の是非にあっても亮策さんの側で中川先生の加勢があった、父上がこれも何かの縁、中川先生への感謝の気持ちを忘れるな、礼を失するなと言ったことの時を思い出した。

「良沢先生の住まいを教えると良い」

 有坂先生に言いながら、私の方にはそれしか出来ないぞ、と言う。また有難うございますと応えた。

 部屋を出ると、固くしていた両の手のひらは汗でびっしょりだ。お盆も湯飲みもあのまま置いてきて良かったのだろうか。そう思うと、さゑ(・・)さんの顔が思い浮かんだ。

 

 翌日、楼の診療の場に中川先生の姿を見ることは出来なかった。昼時、気分転換に一人表に出て休憩を取っているところに有坂先生が寄って来た。

「探したよ。今朝は早くに出たんだね。姿が無かった」

「あっ、玄白先生から宿題を頂いていて、朝飯もそこそこに楼(天真楼)に来て、ヘーステルの書の言われた所の訳をいかにすればと図書倉で調べていました。

 でも一言半句さっぱりです。分かりません。ちんぷんかんぷんで、ただただ手をこまねいているだけです」

 自分のことながら苦笑にもならない。有坂先生は首を縦に二、三度振りながら言った。

昨夜(ゆうべ)のことだ。良沢先生の住まいを(したた)めてある。先生の日取り(予定)が分からないから何時(いつ)行っても良いと思うが、そもそも問題なのは会ってくれるかどうかだ。

 根気良く当たるしかあるまい」

渡された紙には住まいの(ところ)と、粗方(あらかた)の行き方を示す地図が書いてある。

「頑固と言ってましたけど、そんなに頑固なのでしょうか?」

「ああ頑固だ。解体新書を世に出すに、玄白先生始め我々を指揮し、翻訳の労に一番の功績があったのは良沢先生だ。

序文に先生の名が有って然るべきだ。それを先生は頑なに断った。その理由を世間の人は勝手に幕府の(とが)を一番に恐れたからだとか、訳の不備を自らが知っているからだと(うわさ)した。

 だがそうでは無い。先生(玄白)は良沢先生に再三再四序文の筆翰(ひっかん)をお願いした。

その後に先生から聞かされた固辞した理由に我々も驚いた。

 中津藩(豊前(ぶぜんの)(くに)、現・大分県)奥平侯の藩医の身にある良沢先生は、藩候の理解と支持を得て解体新書の翻訳以前に長崎に遊学していた。

 長崎に行く途中、筑紫(現・福岡県)の太宰府天満宮に参拝し、阿蘭陀医術習得の成就を祈願するとともに、いやしくも己にその術の真理を知らずしてみだりに名声を得んとするところあらば神よこれを罰せよ、と祈願していた。

 解体新書が出来たとて阿蘭陀医学の教える医術の習得はその先だ。まだまだ未熟も未熟。それ故に今ここで己の名を世に出せない。出せば神は何と思われるかと固辞したのだそうだ。 

 神との約束は嘘か誠か分からん。あれだけの翻訳の苦労を思えば、私は序文を書いても良さそうに思うが良沢先生は(がん)として断った。先生(玄白)とて神との約束を口に出されたらそれ以上は言えまい。

 前野良沢という人なくばこの道()くべからず、とその功績を認めている先生だ。やむをえず、阿蘭陀商館長に随行して長崎屋に在った大通詞吉雄幸左衛門(吉雄耕牛)殿に序文を書いて下さるようお願いした。

 良沢先生が吉雄殿と先生との間を取り持ったとお聞きした。

後で先生にお聞きしたことだけど、吉雄殿は良沢先生が長崎に在った時の阿蘭陀語にかかる先生であったらしい。 

 吉雄殿が序文を引き受けたのも、またその序文の中で良沢先生の翻訳にかかる功績に触れたのもそういうことがあってのことだ。

 良沢先生ほど親しかったわけでなかろうけど、先生は先生で、へーステルの外科書を長崎屋で吉雄殿に譲ってもらった(購入した)旧知の仲だった。

 何時か其方(そなた)に話したように、人との繋がりは何時何処でどのようになるか分からない。(あいだ)を大切にしておけば何時か役立つときがあるという証左(しょうさ)だね。

 中川先生は、元節は他の誰よりも熱心に私の所に阿蘭陀語を聞きに来る、昼夜を問わ己に分からないところを聞きに来るという私の言葉を聞いていて良沢先生を紹介する気になったのだと思う。

 其方が部屋を出て行った後、中川先生は、断られても門を叩くのか叩き続けるのか、その勇気があるのか、それもまた彼の行く末を決めることになるだろう、遊学の期間は関係ないと言っていた。

あきらめるな。初志を貫徹するが良い」