五 石川玄常
面白かった源内先生の講義の後、また二日ばかり経って今度は石川玄常先生の講義があった。先生は元々江戸の生まれだと言う。
「医術医学を幕府の御用医師でもある熊谷無術先生に十四(歳)の時から学び、二十八(歳)の時に京に上った。
人体の解剖が噂され阿蘭陀医学が世に問われるようになっていたのは京都が先だ。それ故に京に上ったのだ。
しかし、その京で漢方医小石元俊殿等らと阿蘭陀医学にかかる意見を交わしている時に、江戸で阿蘭陀医学書の訳述に奮闘している御仁が居ると聞いた。それが前野良沢、杉田玄白先生等だった。
一年と経たず江戸に戻った。クルムスの解剖書の訳述の最後の最後の時期に、つまり解体新書の推敲、校合の頃から私は参加させていただいた。
自分が所持していたミスケル解剖書などを参考にして自分の意見を述べる機会を得ることが出来た。
漢方(医学)よりも阿蘭陀医学の方が進んでいることは今では明らかだ。解体新書然り、医学医術の教育は解剖に始まると言える。
人体の正しい捉え方、各臓器等の果たす役割、働きをまず何よりも先に知ること、それが人のためになる治療方法を探る基本だ」
そしてその後に、巻の四にある脾臓と肝胆、腎臓、膀胱、男女の陰器、子をなす子宮、人の筋についての講義を私が担当すると言った。
六 杉田玄白の初講義
天真楼に集まって来る塾生に人体の捉え方、各臓器等の果たしている役割を最初に教えてくれるのが玄白先生と中川淳庵先生だ。
解体新書に沿って講義が行われるが、その新書そのものが一両もする。高価なものだから塾に入って手にした新書に私さえも手が震えた。
金に困らない出自の者や、何処かの藩の推薦を受け経済的支援があって天真楼の門を叩いた者はまだしも、同僚になる塾生の中には借金の上で新書を手にした者も居る。何時か隣(衣関甫軒)さんが、眼科の門を叩いて貧窮の私生活を語った時のことを思い出した。
玄白先生の講義は解体新書の巻の一に沿うものだ。序図編を傍らに男女の身体の相違から各身体の部位の名称と体内の諸々の臓器の働きを説明する。時折、阿蘭陀語が混じる。
序図編の解体図、天真楼と有る表紙の後に続く百四、五十の臓器、骨等の絵図に今更ながらに感心する。翻訳した説明文よりも先に絵図に気を引かれるのは私だけでは無かろう。
臓器等の一つ一つの陰影が見たこともない実物をより想像させる。阿蘭陀の医学書にある絵を二十一枚の紙に写し取ったものとはいえ彫りの原図を書いた小田野さんの苦労も、また彫師や摺師も大変だったろうと想像がつく。
しかし、玄白先生の一等最初の講義の中では清庵先生にかかる話が一番耳に残った。
「塾生が多く集まってくれるのは喜ばしい。其方等がここで学びこの日本に阿蘭陀医学を広めてくれる、漢方の教えてくれるところの誤りを正し、より外科や婦人の病や小児子供の病を治す方法が広がると思うと実に嬉しい、翻訳した甲斐が有ると言うものだ。
その解体新書が一応稿なり、いかなる方法と経路を以って世に問おうかと腐心している時に、陸奥の一関藩、藩医だと名乗る建部清庵先生の書簡を受け取った。
それは解体約図を出して世間の反応を観ようと思っている時だった。
身も知らぬ先生門下の衣関甫軒君が秋も終わりに天真楼を訪ねて来た。是非に吾が師、建部清庵先生の書簡を見ていただきたいとのことだった。
持参した手紙は明らかに何度か開封されたらしくて手垢があちこちに残っていた。無礼にもこのようなものをと思ったが、その内容は辺境の地に在っても高い識見をもって阿蘭陀医学にかかる疑念を問うものだった。翻訳に苦労したがゆえに、質問のごもっともなことに感激した。
驚いて一緒に翻訳に当たっていた同志の面々に、吾らの仲間が東奥に居る、と披露したくらいだ。
第一の質問に、阿蘭陀には内科の医者が居ないのかと有った。私は、来日する阿蘭陀医師の多くは外科専業だが内科を兼ねている者も居る、内科専門の医者も日本に来ていると応えた。
阿蘭陀の言葉で内科は「ヘネースヘール」(geneesheer)、外科は「ヘールメ―ステル」(heelmeester)だ。阿蘭陀医師の外科技術を見よう見真似で覚え阿蘭陀流外科医を名乗る通詞たちがあちこちに居る。それを誤解した故の質問であったと思う。
第二の質問は阿蘭陀にも風寒暑湿による病、産前産後の病、婦人・小児の病が有るだろう、その病を治すのに阿蘭陀流は膏薬・油薬の類で一通り療治するだけと聞くがこれは不審なことではないかと聞いてきた。
勿論、何でもかでも膏薬・油薬だけで済ませているわけでは無いと応えた。内服薬は阿蘭陀語で「インウエンジケヘネースミッテレン」(inwendige geneesmiddelen)と言う。阿蘭陀の医学書は白湯に解いて飲むものや丸薬などについて紹介し、その種類は唐や日本よりはるかに多い、また製薬の方法も詳しく書いている。
漢方では身体の浅いところの毒素は汗で出し、中の毒素は吐いて出し、深く入り込んでいる毒素は下して出すと教えている。知る者もいると思うが、それを汗吐下三法と言う。それに当たる阿蘭陀医学の教えは三等開塞法だ。「デリーヲーベンデミッテレン」(drie opendemiddelen)と言う。
例えば、スポイトと申す水鉄砲のようなもので肛門から薬水を入れ腹下しをする。腸の働きを回復させる。これを「キリステル」(klisteer)と言う。漢方で言うところの蜜煎導法よりも簡便で即効性がある。其方たちがこれから学ばねばならないことだ。阿蘭陀医学は知る価値も、学ぶ価値も大いにある。
また、長崎に行って来た槍持ち挟み箱持ちの手合いの中に阿蘭陀流療治法直伝を吹聴する者が居るが、彼国の医者の下で学び習わないでもそう言えるほどの療治方法なのかと聞いてきた。
勿論、そのような輩と与するものでは無いと否定し、阿蘭陀医学を修めるのは容易なことではないと返事した。
腑分けを見れば唐の説くところは大きく異なり、阿蘭陀の絵図は寸分違わない。故に「和蘭正流の医道建立」を決意したけども、その翻訳たるや容易ではない、今、仲間と翻訳に取り組んでいるところだと応えた。人の形態の真も知らずに医業に就いていたのは面目なき次第とも書いた。
第三の質問は、辺境の地にある田舎では阿蘭陀の本草書を見ることが出来ない、漢方が教えるところの本草綱目のように本草の気味効能を良く教える阿蘭陀書が有るかとのことだった。
そこで私は、「ド、ニュース」の「コロイトブック」、アブラハムユンチクの「ア、ルドゲワッセン」、ウェインマンの「本草彩色写真図之書」、ヨンストンスの「禽獣魚介蟲を説き申候書」、スエイステマタという「金石を説き申候書」が有ると返事を認めた。それらの書は万国の薬となりうる草木、鉱物等の紹介に始まり、効能を説いている。唐(中国伝来)の本草綱目の及ぶところではない。
わが天真楼の供える図書として置いてある。其方達がいずれ目にしなければならないものだが、どの書も手に入り難く貴重な物ゆえ大切に扱って欲しい。
四つ目の質問は、そもそも阿蘭陀の医学書は日本に多く入って来ているのかと言うものだった。私は、人体の内部構造を説明する書だけでも数十冊ある。クルムスやブランカールツ、カスパリュス、コイテル、パルへイン、ハルへイン等の名を上げて、彼らが書いた書籍が日本に入ってきていると書き送った。
また治療の書として十一部を紹介した。内科外科にかかるマタローストローストの書にポイセンの内科書、ブカンの内科書、アンブルシスパーレの医家集成書、アポテーキの内外方彙書、ウヲイトンカットカームルの内外医法集成書、ショメールホイスホウデレーキの内外医法集成書、ヘーストルの内外医書二つ、ホウチュルンの外科書、ワーペンホイスの外科書だ。それらは私が数年かけて入手し、今、楼(天真楼)の図書として備えてある。
有坂君から話が有ると思うが、其方達塾生の間で図書係を作り、図書蔵の貸し出し本の管理をして欲しい。
必要と思うところを書き写し取るのは構わないが、書き込みは禁止だ。
己で手にした方が良いと思うものは己で購入した方が良い。しかし、容易には手に入らない。入手の方法は限られている。長崎屋に来る出島の和蘭医師や通詞、カピタン等に頼み込むようになるが、おのずと高い金を吹きかけられる。
なお、何年も前から楢林流の金瘡の書や京の御典医伊良子氏になる訓蒙図彙が阿蘭陀流治療の書と言われてきているが、それらは阿蘭陀の膏薬、油薬に漢方の教えるところの外科処置の方法を各家の経験、事情から加えたもので、とても阿蘭陀流治療の訳書と言える物では無い。
また、有坂君から既に習ったと思うが、阿蘭陀文字は二十六、数えが九つだ。その辞書としてマーリン・ハルマ・ハンノット・ローケスなどが纏めた「ウヲールデンブック」(woordenbook)が有ると建部先生に紹介した。
先生は面白いことを言ってきた。彼国にも基になる言葉(雅俗)と方言があるのかと聞いてきた。アジアは漢字で通じ、阿蘭陀辺り彼国各国に通じるのは羅甸語(大槻玄沢著、蘭学階梯に羅甸と、この字が使われている)だ。ラテン語が彼諸国の語源だ、基になる言葉だ。
我々はラテン語と阿蘭陀語の区分も分からずに阿蘭陀流外科書と言いながら同じ薬一つにもマチマチの呼び方をしていたのだ。ターヘル・アナトミアを訳すにあたってそれが良く分かった。医書は皆ラテン語で書かれている。建部先生にはラテン語が彼諸国の雅俗で阿蘭陀語が方言になると応えた。
建部先生とは未だ面識もない。しかし、質問の書を受け取った時、まさに吾が意を汲む、これぞ仲間、同輩だと思った。阿蘭陀医学の教えるところに気を配し、その発展を願っていた先人が東奥に居たのだ。
先生は、日本にも学識ある人出て阿蘭陀の医書を翻訳して漢字にしたら正真正銘の阿蘭陀流が出来る、唐の書を借らずとも外科の一家が立つ、また婦人科小児科の療治方法も確立されるだろうと言い、人の多く集まる広い江戸に在ってこそ翻訳に取り組む豪傑が出て欲しいと言ってきた。
今真に、天真楼に学ぶ諸君らが豪傑になって欲しいのだ。医学のいろんな分野の翻訳に発展にその身を捧げて欲しい。
書簡の最後に、質問も豪傑のことも答えが良からんことを期待して遺言も同様に候と有った。先生は今六十路にある。私は心情の一致に感激して質問に答えるとともに、書簡のやりとりだけと雖も、先生を知りえたことは千載の奇遇と書き送らせていただいた」