その翌日、天真楼はいつものように患者でごった返していた。有坂さん、由甫さんと一緒に遅い昼時の休みを取った。
私は有坂先生に、桂川先生の講義は面白かった、轡丸十文字の方法は阿蘭陀語以外のよその国の言葉を訳し理解していくのにも役立ちそうですね、解体約図で世間の反応やお役人の行動を探ったのもご時世を慮って適した方法でしたねと言った。
すると頷きながら、甫周殿は自分の父上のことを何か言っていたかと聞いてきた。私も由甫さんも首を横に振った。
「彼はまだ二十八(歳)。普段はおちゃらけて冗談ばかり言うけど、自分の父親のことを話さなかったのは彼の人柄を示すものだ。
父上は桂川家の総帥、幕府の奥医師を務める甫三国訓殿だ」
私と由甫さんは顔を見合わせた。驚いた。
「勿論、将軍お目見えを許されている。阿蘭陀人との対談も許可されている身で、玄白先生の古くからの友人だ。
先生は、翻訳出来たものの、禁令に触れ罪を被るかもしれないと恐れた。
しかし、横文字をそのまま世に出すのではないし、読めばその内容と真意は分かるハズだ、先ずは翻訳の成果を御公儀に知ってもらおうと考えた。
新書の発刊に当たって甫周殿を通じ多忙極める法眼甫三先生に連絡を取り、相談し、その推挙に依って将軍(十代将軍・徳川家治)に献上が叶った。
時の老中(松平右近将監武元、松平右京大夫輝高、松平周防守康福、阿部伊予守正右、板倉佐渡守勝清、田沼主殿守意次)や若年寄りにも進呈し、その一方で、京都に在った先生の従弟、吉村辰碩殿を通じて時の関白(近衛准后内前)や左大臣(九条尚実)、武家伝送役(広橋兼胤)等に献上した。解体新書を懸念なく出版出来たことについても甫周殿の役割は大きかった。
何時どこで何が如何役立つか分からない。其方達も普段から人とのつながりを大切にするが良い。また用意周到に準備して掛かれば反対反論の多いことも丸く収まる。要らざる問題を避けることが出来ると言うことだ。もっともその物事が世のため人のためになるものであること、世の中に有るべきことが大前提だ。
気配りをしたうえでの発刊だったけど、頑迷な漢方医の中には玄白先生のことをあんな小男の言うことなど信じられるか、奇をてらって人の関心を得ようとしているだけだとか、これまでに伝えられている聖書(漢方に関わる書籍)を疑い、蛮夷の書を信じて世を乱そうとしているとか、医者の敵だと口を極めて批判する者が多くいた。
己の生業を邪魔されると感情を露骨にして批判する者もいた。しかし、先生は漢方医学と阿蘭陀医学の相違する要点を摘出して、漢方に拘る頑迷な医者の空理、空論を論破した。
実際に見て、確かめた臓器等を絵図にし、その臓器等の機能、果たしている役割を分かりやすく解説、翻訳した。信念を持って学び、実証する事に心がけて当たればやがて誰も反論はできない、世間の理解を得られると言うことだ。
甫周殿は翻訳の労を取った中で一番年若かったけど好い人だ、そういう人だよ」
思いもしていなかった有坂先生の言葉に教えられるところが多かった。
「そして、もう一人、一つことに腰が落ち着かないおちゃらけた人物が居る。大分歳をとっているけどね、だけど江戸においても大阪においても今や有名人だ」
そう言うと、自分から笑った。平賀源内先生のことだった。
「源内先生は玄白先生の古くからの友人で、先生が唯一心を許して話せる人物だよ」
先生があの解体新書の臓器等の絵図を書いてくれるよう源内先生に頼んだ。しかし、自分は忙しいからと断り、秋田藩の絵師小田野直武さんを紹介した、と語った。
四 平賀源内
その源内先生が四、五日前に天真楼の診療の場に突然現れた時は驚いた。
清潔を大事とする場に、髪は乱れ、髭ぼうぼうの顔に薄汚れた衣と袴姿で、身体からは鼻も捻じ曲がるほどの匂いを発しながら現れた。
「また秩父か何処かの山から帰って来たばかりなのだろう。
先生、先生、男前だと言う先生の評判が落ちますよ」
笑いながら追い出したのはその時の甫周先生だ。本人には聞こえないように言った。
「清潔を旨とするこの場にあれでは困る」
それが私と由甫さんが源内先生を見た最初だ。
源内先生が教壇に立つと天真楼の廊下に貼りだされてから、昨夜、是非に源内先生についてお聞かせいただきたいと由甫さんと一緒に有坂さんに申し出た。
有坂先生は、源内先生は本草家であるけども、医学に限らず阿蘭陀がもたらす物産、科学等に刺激を受けてその活動の範囲は広いと語った。
また、それがために先生は二度も長崎に遊学したと語る。
「唐伝来の本草に加えて阿蘭陀医学の教える本草に強く関心を抱いた源内先生は薬となる動植物、鉱物の採集のために諸国を奔走した。今も駆けずり廻っている。
またその間に、鉱山鉱物に特に関心を持つようになった。秩父中津川の採金事業から摂津国(兵庫県、大阪府)の多田銀山の検分に、水抜きの工事、秋田佐竹藩から依頼を受けて同領内の銀山、銅山調査に当たったりしている。
何処でどのようにして知り合ったのか定かではないが、源内先生の後ろ盾には積極的に日本の殖産興業政策を推し進める老中田沼意次がいる。資金的援助はその辺りと聞く。
友人でもある玄白先生のターヘル・アナトミア翻訳という事業を知ってもいたけど、世に受ける、世に出ることを先に考える源内先生は翻訳と言う地味な仕事に参加できる訳がなかった。
追い追い知るだろうけど、実際、源内先生は朝鮮人参の栽培方法に拘り、また燃えない布とかいう火浣布(不燃布、石綿布)や寒熱昇降器(寒暖計)を創製し、羅紗の製造(羊毛の織物、国倫織、国倫は源内の名)に三彩陶の焼き物(源内焼)を作り、更には小田野直武さんをも指導した洋風画法の習得など、あらゆる方面に手を出して、それなりの成果を収めて来た」
有坂先生によれば、医学医術にかかる研鑽だけでなく物産の研究から改良、発明に至るまで源内先生は心血を注いできたのだと言う。そして、二年前(安永五年、一七七六年)にはエレキテルと言う「火を取りて病を癒す器」なる物を作りだし、今も江戸市中で話題になっているのだと語る。
「二人もそのエレキテルを体験しに試しに出かけてみるが良い。世間の人々はそのエレキテルを体験するのに「こわごわ会」と言っているそうだ」
そう言って笑顔を見せた。
それから今日、源内先生が教壇に立った。髪を結いなおし、髭を剃り、さっぱりとした顔に袴姿だったけど、長い煙管を口に咥えて登場したのには驚かされた。
開口一番に言う。
「今じゃ玄白も世間が良く知る阿蘭陀医学の大家だ、解体新書は大概市中に受け入れられた。
ここに集まっている其方達も解体新書、解体新書、阿蘭陀医学、阿蘭陀医学で集まった輩だろう」
それから目の前でしばし煙草を吸い込み、それからふーっと鼻から煙を吐いた。
吸殻をどうするのかと思って見ていたら、何やら紙の用でもありそうでもないような物を懐から取り出して文机の端に置いた。吸殻をその上に落とした。講義を聞きに来た皆の目がそこに集中した。
「これは私が開発した燃えない紙、布だ。火浣布だ。熱くて手に持てない吸殻を落としても何ともない。これも阿蘭陀の書を基に私が作って見た。
また、エレキテルの話を聞いているかもしれぬが、いや既に体験してみたと言う好き者もここにおるやもしれぬが、エレキテルもまた彼国の書を参考にして私が作った。
すなわち、阿蘭陀やその他のまだ見ぬ国に、医療に限らず日本よりも進んだ科学を持つ国が有ると言うことだ。
阿蘭陀人のもたらす書や物の教えているものは医学、本草学、薬学に限らない。天文、地理、測量や絵画、語学と幅広い。
科学とは何ぞや、分かるか。私にも分からん。ただ、そう訳す言葉を使う輩が居るから私も科学と言っておる。
玄白と初めて知り合ったのは、私の師である田村元雄(藍水)先生に開きましょうと提案して開いた東都薬品会でだ。私が三十、玄白が二十五、それからの付き合いだ。田村先生のところで先に知った淳庵(中川淳庵)に至ってはまだ二十歳も前だった。
世間の人は私を本草家と言う。確かに阿蘭陀書を片手に草木の外に飲み薬に出来る鉱物は何か探って、それが糞が出ないと騒ぐ人のために腹下しにつながった。薬品会を自ら開くようにもなったのだから、世間の人がそうくくるのは間違いないのだろう。
しかし、彼国の教える物は幅広い。良い防寒着が出来れば流行り病を少しでも抑えることが出来る、そう考えて未を飼い、その毛をもって彼国の教える羅紗と言う物を作ってみた。
また、これがどうして治療器具なんだと疑いながら木箱を前にして彼国の書を参考にエレキテルを作った。肩が凝ってしょうがない、腰が痛いという御仁にエレキテルを試して評判を取るようになった。
今では、腰がどうの肩がどうのに関係なくエレキテルを使って催しを開くと言ったらやたらめったに人が押し寄せて来る。
すなわち、其方達もわざわざ視野を狭めて医学書だけを見るのではなく、ありとあらゆる視点から彼国の書や物に学び医術を見直す、医学を考えるべきだと言うことだ」
「付記] 明けましておめでとうございます。
早々に能登の地震災害、羽田の飛行機事故、これを思うと明けましておめでとうございますの言葉も今年は使っていいものかどうかと思うのは小生ばかりではないでしょう。
過去三年、兄、姉、兄と続いて亡くし、四年ぶりに年賀状を認めました。時は廻るんですよね。涙を拭いて前を向くしかない。そう思いつつも、今は被災された方々に掛ける言葉もありません。
ブログの投稿について昨年末にお約束させていただきましたように、本年は月、水、金の三日間で投稿させていただきます。
一回が400字詰め原稿用紙にして、12,3枚から15,6枚になります。
ブログにアップロードすると回転してしまう資料の絵図が、年末に来た息子(娘婿)に教えていただいて正常に搭載できるようになりました。第一章 磐井の里・11の絵図、及び第二章 青雲・1の添付絵図は下記の通りに修正しております。
また、年末からのこの間に皆様にお礼とご報告をしておくべきことが三つございました。
一つは、小生の作品がアメーバ事務局のご配慮により著名な作家・故・藤沢周平氏の作品紹介等の後に紹介されるようになったことです。スマホでもパソコンでも「私の小説、藤沢勉」とネットに入力・検索すれば小生の作品が紹介されております。全くの連絡もなくの搭載で本人が一番びっくりしております。しかも、3,4作品同時で小生の顔写真付きとは・・・家族ともども驚く以外に在りません。
二つは、昨年12月、一カ月のアクセス数が凡そ800(読者)になったことです。驚いていたところ、年が明けたこの三が日に400を超えるアクセスが有りました。1月2日、一日248アクセスと、これまでの一日の最高記録227を超えました。皆様のご支援に深く感謝申し上げます。
三つは、驚きました。大槻玄沢(磐水)から6代目になるという直系のご子孫の方(67歳)からメールが届いたことです。小生の頭の中は、大槻玄沢ー大槻磐渓ー大槻文彦で子孫が絶えたと思っていましたが、文彦氏が同族の大槻家から養嗣子を迎えていたのです。文彦ー養嗣子ー某氏の母ー某氏(67歳)となっていました。元旦にご住所、連絡先等を頂きましたので、失礼のないように連絡させていただいております。強い味方を得たような気がしております。
民間備荒録絵図
仙台・芭蕉の辻の絵図


