「先生。三年余の間、長いことお世話になりました。一関に帰って父を手伝うことに決心しました。阿蘭陀医学のことで言えば中途半端になりますが、先生方にお教えいただいた治療方法等の数々、決して忘れません。

 この一か月の間にあちこち片づける物を片付け、挨拶の必要なところには顔を出してお礼を申し上げ、来月には江戸を離れます」

 その後も亮策さんは、父の側で地元の人々等の診療に当たる、老いた父を見てそうせざるを得ない事情が有る、清庵先生と十分に話し合ってそのように決心したのだと語った。 

 いずれは一関に帰って清庵先生の跡目を継ぐものと思ってはいたけど、今日のこの日に聞くとは思いもしなかった。

玄白先生も初めて耳にすることなのだろう、驚いた顔をした。しかし、黙って頷いた先生だった。そして、先日に預った清庵先生の肖像画の一つに自分の賛を認めておいたと言う。二人の入門の件は既に決着済みという姿勢だった。

 正直、来る道々にまた断られるのではないかと少し不安を抱いていた。それだけに、ホッとした。 

玄白先生の賛は、ここ数年書簡を交わすも千里を隔てているゆえに一度もお会いすることが出来なった。時に先生の弟子なる子煥(私、元節)が先生の肖像画を持って来た。ゆえに先生のお顔を知ることが出来た、喜ばしい、と書き、その後に七言絶句を(したた)めていた。 

 みちのくは杏の木も霞む春。羨ましくも君の長く風塵に絶えてきた顔を縁なしの絵の眉目が伝えている。まさに天涯医療に携わりし人と知る(筆者訳)。

落款に杉田翼と有った。後になって、玄白先生の(いみな)(たすく)だと亮策さんに読み方を教えてもらった。

〔杉田玄白賛〕

東億清庵先生謬見称知己

 往復有年于茲 雖然千里隔 絶未曾一謁

頃其門人平子煥 奉肖像来 因得知来儀 喜題

東海烟霞杏樹春  羨君長己絶風塵

非縁図画伝眉目  何識天涯医国人

               ()(さい)杉田(すぎた)(たすく)

 

 会えることを楽しみにしていた衣関(甫軒、鱗)さんは既に天真楼を辞していた。今は小石川本郷(文京区)と言うところの方で渡辺(わたなべ)(りつ)(けん)という先生の下で眼病の治療方法等を専門に学んでいると言う。

 由甫さんと私が江戸に来た、亮策さんが帰郷する、とかつての同僚だった有坂さんから聞いて駆けつけたと語った。身体の弱くなった清庵先生の身を案じながらも、亮策さんの帰郷の意向にはかなり驚いていた。

「人ぞれぞれに事情があるとはいえ、亮策が江戸を去るのは残念。

己の事で言えば関藩の支援も切れて生活もままならないが、学べることが江戸に居る何よりの楽しみよ。

学ぶ気持ちが無ければ江戸よりも田舎の方が貧しい中にも人間らしい生活ができる」

 そう語る甫軒さんは頬がこけているけど目が輝いている。笑顔を忘れてはいなかった。私の知る人の好い、向学心の強い鱗(衣関)さんだ。

 私に一関に帰る気は毛頭ない。蘭方医学の勉強はこれから始まるのだ。鱗さんの話を聞きながらそう思った。

 そのことが有ってからも半月ばかりになる。五月末、亮策さんと父上が江戸を発った。父上は目の衰えと年齢(とし)を理由に田村公に申し出て江戸詰めを解いてもらった。

二人は玄白先生が賛を書き加えたあの肖像画一本を携えて帰郷した。持病の腰痛と膝の痛みを訴えることの多くなった清庵先生だけど、その喜ぶ姿を想像した。また、久しぶりに見る父上の姿に喜ぶ母上や弟が想像出来た。

 

 六月初め、私と由甫さんは先生のご厚意により書生になることになった。天真楼での寄宿生活をすることなく愛宕下から浜町の玄白先生の本宅の屋根続きの離れに居を移した。贅沢にもそれぞれに六畳一間の畳のある部屋を貰った。このことも江戸を離れるにあたっての亮策さんの手配だった。

「私は居なくなる。元節の父上も江戸を離れる。一関藩邸の長屋で余計な気を遣うよりも、また塾(三又塾、天真楼のこと)があるとはいえ縁故のない小浜藩の中屋敷で気を遣うよりも玄白先生のお側に公私とも仕える方が身になる、勉強になる」

 二人が江戸を離れる四日ばかり前、藩長屋で由甫さんと一緒にその旨お聞きした。玄白先生とどのような話が有ったのか分からない。父上もいかなる時にお願いしていたのか知らない。同席していた父上はニコニコして一言、その方が良いと言った。

 江戸に上がって間もないから、荷物とてそう無い。引っ越しは簡単だった。先に玄白先生宅に同居していた有坂さんが何かと配慮し、手伝ってくれた。解体約図の関係で有坂と言う名を聞いたような気がしたが、失礼になるかとも思い聞かなかった。

 また、我々の引っ越しのこととは別に先生宅の敷地内で家作が進んでいた。出入りの大工等に聞くと、地方から来る弟子志願者等のために棟割長屋と診療所、薬品倉庫、講義所等の造作を頼まれたのだと言う。運び込まれる杉材等が辺りに良い香りを放っていた。

             三 書生生活、講義

 居を移してからも二ヵ月が過ぎようとしている。夏真っ盛りのお天道様を見上げて、江戸の夏は暑いねーと言いながら由甫さんと通う天真楼との二重生活にも漸く慣れて来た。

 楼においては、由甫さんは一関に居た時のかつての私のように先ずは草木の効能を知ること、診療にあたる先生方の指図通りに()(げん)を使って薬を調合することに専念している。私は時折患者を診させていただくこともあるが、大概は先生方の診察を手伝い、由甫さんと同様に薬を調合する役目だ。

 しかし、一関に居た時とは所帯が大きく違う。内弟子なのか通いの弟子なのか、誰が誰なのか、誰が何の役割を務めとしているのか今も分からないことが多い。

 来る患者は小浜藩の上屋敷(千代田区。神田筋違門側)とこの中屋敷(中央区。日本橋浜町)、下屋敷(新宿区。牛込(うしごめ)矢来(やらい))に在る御家人やその家族、下僕だけども、解体約図(・・)を世に出してからと言うもの町方の人々にも門戸を開放したと聞いた。

 解体新書(・・)を出版してからは更に輪を掛けて押しかけるようになったとかで、何時も診療の場は戦場の有様だ。

先生の弟子と名乗る方が多く居るから対応もできるが、藩の診療所としての機能をはるかに超えている。故に門番が門番の役割をなさず、また我々塾生は講義の開かれるのが不定期になっていることに戸惑っている。

 何時(  いつ)に何の講義があり、誰が教壇に立つといつも天真楼の廊下の決まった場所に紙が貼り出される。私と由甫さんはその都度手持ちの紙や頭に控え置いて何が有っても出席することにしているが、宇田川玄随(うだがわげんずい)(津山藩、現・岡山県、江戸定詰の藩医・叔父宇田川玄叔(うだがわげんしゅく)の養嗣子)さんなど通いで先生の弟子を名乗る方の中には、連絡の仕方が悪い、出席の機会を漏らした、聞き漏らしたと不満を言う方もいる。改善の余地があるのは事実だ。

 楼(天真楼)における講義は丁度引っ越しをした六月初めから始っている。二日目にして、診察していた有坂(ありさか)(其馨)さんが夕方の講義の教壇に立ち、ABC(あー、べー、つえー)二十六文字とその発音を教えるのに驚いた。

 私と由甫さんの引っ越しを手伝ってくれたり、日々の仕事の段取りを気さくに教えてくれたりと有坂さんは書生の先輩だとばかり思っていた。まさか教壇に立つとは・・・。

 その講義のあった日の夜に屋敷に帰ってからお聞きした。解体約図(・・)や解体新書(・・)の作成に当初から関わってきた、また亮策さんや鱗さんと一緒に楼で席を並べていたと語ってくれた。由甫さんも私も驚いたのは言うまでもない。

 有坂さんは驕りもない実に腰の低い人だ。父上に貰った藁半紙を通じて阿蘭陀文字を知ってはいたけど声にして何と読むのか知らなかった。有坂先生の一等最初の講義の時にそれを知っただけで胸がワクワクした。

 他の塾生と一緒にアー(A)、べー(B)、ツエー(C)、デー(D)、エー(E)、エフ(F)ゲー(G)と声を合わせ、目の前の机の上に指で何度もその文字を書いた。何日間かそれだけが続いた。

 それからある日に有坂先生は大きな紙を目の前に張り出した。幾つかの阿蘭陀語(単語)を指し示しながら、文字は左から右に横書きすると塾生に教えた。

 阿蘭陀語がどんなものか、有坂先生は聴講する皆の理解が深まったと判断したのだろう。月が替わると、解体約図に見た絵図の一部を拡大した物を目の前に張り出した。人体の構造とその各部位の果たしている機能、役割を教えてくれた。

私も由甫さんも清庵先生の所で解体約図に接している。また父上の解体新書を見ていたから驚かなかったけど、その絵図を目にしただけで大きく驚きを示す同輩が多かった。ここ数年の阿蘭陀医学にかかる評判だけで玄白先生の門を叩いたのだろう。

 解体約図の絵図に附された番号、記号はそのままだ。有坂先生はそれを使い玄白先生達の訳した言葉と漢字で人体の各部位の果たしている機能、役割を教え、次に阿蘭陀語での表現の仕方と綴り方を教えてくれた。

 

 六月末に初めて教壇に立った桂川(甫周)先生の講義には驚きもし、最後には大笑いだった。先生(桂川甫周)は解体新書が出来るまでの経過を話した。

「二十の(とし)に玄白先生の誘いを受け骨ケ原(小塚が原)に腑分けを見に行った。

行った仲間内では玄白先生と中川先生、有坂先生、長崎屋で見かけたことのある前野良沢先生は知っていたけど、他は知らない人ばかりだった」

長崎屋は長崎の出島から毎春に江戸に来る阿蘭陀人一行が泊る宿だと知った。

「見に行った翌日に玄白先生と中川先生が築地の鉄砲洲に有る豊前中津藩の前野良沢先生の所を訪ねた。どんな話をしたのか分からぬが、三人でターヘル・アナトミアを翻訳しようと意見が一致した。

 良沢先生は医者であり通詞でもある、私は日をおかず、翻訳に参加しろと玄白先生から誘いを受けた」

 それだけを聞いても驚きだ。二十歳(はたち)と言えば自分はまだ田舎で診療の一端を担うようになったばかりだ。

 医書を翻訳するには普段行っている医療を熟知していること、少なくとも人体の各部位を良く知って今どんな治療を施しているかを知っていなければ出来ることではない。そうでなければ阿蘭陀の医書が教える治療の方法を理解できないだろう。漢方の教えと比較できないだろう。新しい治療の方法が余計にちんぷんかんぷんだろう。

 解体新書の序文にも、また田舎で聞いた亮策さんの阿蘭陀話にも出て来た前野良沢というまだ見ぬ人の名を改めて頭に記録した。

「お互いに主君に仕える藩医の身だ。故に日を決めて一月(ひとつき)に六、七回集まり、集まれば熱中して日の暮れるまで考えを詰め、議論した。一つの字句章句を訳するのに意見百出で議論が沸騰した」

 そして、議論している間に(かの)(くに)の言葉を対訳、義訳、直訳に分けることにしたと言う。

一関に居た時、清庵先生が玄白先生の返書を我々に披露した時の説明にも、そのように有ったような気がする。

骨は阿蘭陀語でベーンデレン。今我々が使っている骨に当たる言葉だからそのままベーンデレンは骨と対訳、翻訳した。阿蘭陀語のカラーカべーンは鯨の頭のもろく軟らかい骨だそうで、漢語に軟骨という文字があるので軟骨と義訳した。

 また阿蘭陀語の発音のキリールの意味するものは漢方医学にも漢語にも見いだせないのでそのまま当て漢字で機里(きりー)()と直訳した。意味するものは何かを後で探ることにして丸の中に十文字を書いて記し置いた。それを仲間内では(くつわ)丸十文字と呼んだ、と桂川先生だ。

 改めて感心した。翻訳の(すべ)を知った気がした。阿蘭陀語に限らず何時の日にか他の異国の語を訳すにも役立つのではと思った。実際、凡そ一年余りも過ぎる頃には訳語の増加と正反対に(くつわ)丸十文字は減って行ったのだと言う。

そして、聞く塾生の笑いを取る顛末を話した。  

「玄白先生は翻訳を急げ、(いそ)げと()かせた。皆は若いし身体は丈夫だけど、私は年も取り病を得ることも多くなった。死は予測がつかない。皆がこの翻訳の大事を成し遂げた時には私は死んでいるかもしれぬ。地下の人となり、草葉の陰で翻訳物を見ることになりかねない。先生は度々(たびたび)急げ急げと草葉の陰を口にした。

 それで私は先生を草葉の陰さんと呼んだ。先生の綽名(あだな)は既に亡くなった人、草葉の陰さんだ。覚えておいて損はない。私は今もそう呼んでいる」

それから解体約図の発刊は先生の発案だったと言う。

「ひと通り訳書は出来たものの、周りは漢方医学に凝り固まった頭の持ち主ばかりだ。阿蘭陀医学という言葉も無い時だ。医者の頭を叩けばカポーン、カポーン、漢方(カンポー)と返って来る。

 幕府のお役人は自らが彼国の御禁制品を隠し持ちながら、阿蘭陀本は御禁制、禁制品と言う。先生の友人でもある後藤(ごとう)()(しゅん)殿が長崎屋に来た阿蘭陀人から見聞したことを綴った「紅毛談(おらんだばなし)」という随筆がある。その中にABCニ十六文字を書き込んでいた。ただそれだけで後藤殿は捕縛された。

 ましてや解体新書がその阿蘭陀語を訳した本と有ればどうなるか分からない。悪い結果が待っているかも知れない。役人の頭もまた叩けば御禁制、禁制しかない連中だ。いや、お役人様の頭を叩いた時点で捕えられる、俺は他国に逃げるけどね」

また皆の笑いを誘った。

「だから世の中を知る玄白先生は解体新書(・・)を世に出す前に、あの解体約図(・・)で世の中の反応を見ることにした。(解体)約図は解体新書の報帖(ひきふだ)(現代のパンフレット)だ」

 それから実際の講義に入った。桂川先生は解体新書の巻の三で説くところの胸や肺、(しん)、動脈、血脈、腹や(はらわた)等について講義を担当するらしい。

 

[付記] 昨日、12月28日、新橋駅前(玄沢が住んでいた三十間堀に見立てる)から京王井の頭線・駒場東大前駅側に在る目黒区立駒場野公園まで凡そ11キロ、玄沢の「夢遊西郊記」にある道順に沿って山王街、霊南坂、溜池、赤坂(赤坂見附)青山百人街(青山通り)、渋谷、道玄坂、御薬園までを歩いてきました。江戸時代、駒場御薬園は将軍の鷹狩の場でもありました。

 玄沢が寛政三年(1791年)医者仲間等と訪れた所です。御薬園入園にはそうそうに出来る物ではありません。許可が要ります。園の御庭番は諸国を歩いて本草を採取する一方で、隠密の役割を果たしていたと記録されています。

 小生が歩いた理由は、幕府のお咎めを受けないように、世話してくれた御庭番等に迷惑が掛からないようにと玄沢が夢の中の体験として御薬園行を書き、一日に往還五,六十里と記述しているからです。五、六十里は200から240キロにもなり、有り得ないことです。実際を知りたくて歩いてみました

 復路は、道玄坂の下りの途中から西に道を採り、祐天寺、碑文谷、法華寺(目黒不動尊)に至り、帰る道を驪山、行人坂、伊皿子、聖坂、赤羽橋、将監橋、北十数街、三十間堀の自宅と有ります。この往路は概算16,7キロになります。

 確かに往還一日に歩ける距離です。復路は次回に歩いてみようと思います。これも作品を書くに当たっての楽しみの一つです。

 

 今年一年、お読み下さった皆様に感謝申し上げます。来年は1月5日の金曜日から投稿させていただきます。

 ここに皆様に、良いお年であることを祈念させていただきます。

 またお会いしましょうー!。