余りにも思いがけない結論を先に聞いて、途中から先生の言葉が耳に入らなくなった。

何処をどうやって玄白先生の宅を辞したのか、それすら思い出せない。

 父上は道々ズーっと無言だ。由甫さんは年齢(とし)を言われただけで終わった。その由甫さんの肩を落とし歩む姿を見て十何日間か歩いて来た奥州街道の風景の一片が思い出された。己自身も情けなくなった。上りの道中のことだけで無く、この三年間思い焦がれて来たことは何だったんだろう。

 通り過ぎる人も、分からない江戸の町の家並みも目に霞んだ。患者を診ていた、臨床経験はあると言いたかったが、玄白先生のお言葉に反論できるほどの自信はなかった。

 官舎(愛宕下田村小路、中屋敷)に着いた。

「夕餉は何かうまい物でも食べに行こう、それまでの間はゆっくり休め」

父上の誘いに、私も由甫さんも元気のない声で頷いた。

「なんだ、如何(どう)した。元気を出せ。亮策殿が来月に江戸に出て来ればまた違うさ」

 父上の言葉に、元節は仙台の松井塾で学び、それから江戸に出ても遅くはないと言っていたと教えてくれた亮策さんを思い出した。その亮策さんが清庵先生を説得したのだ。由甫さんの江戸遊学も元は亮策さんの考えだ。亮策さんの上京を待つしかない。父上の言う通り亮策さんが改めて玄白先生に二人の弟子入りを進言してくれるよう期待するしか無い。

そう思うと、少しばかり気を取り直せた。そして、あの清庵先生の肖像画を書いたのは誰だろう、と父上に聞いた。

「おそらく同じ関藩の侍格で絵師でもある北郷(きたごう)(おう)(りゅう)元喬(げんきょう))さんだろう。清庵先生が民間備荒録を書いた後に、人々が餓死することのないようにと食用の草木についてもまとめたのが備荒草木図だ。その草木の原画を書いたのが応竜さんだ」

 

 十日余りが経った。暦も卯月(四月)に変わった。この間、空模様を見ながら江戸の桜の名所と言われる上野の山にも、隅田川沿いの桜並木を見にも行って来た。

上京の折に屋根瓦と五重塔のてっぺんを塀の向こうに見るだけだった浅草の観音様のお参りにも父上に連れられて行って来た。何時も由甫さんと一緒だ。

だけど気になるのは(あと)何日(なんにち)、後何日と(一関藩)田村公とその供連れの江戸上りだ。

十日頃には参勤交代に随行して亮策さんが江戸に来る。これほど待ち遠しく思ったことは無い。天真楼への入塾がかなわなかったら折角の江戸遊学の許可が無駄になる。

 今更漢方医学を教えてくれる塾に入る気は毛頭ない。阿蘭陀医学なのだ。自分の学びたいのは阿蘭陀医学、医術だ。あの解体新書に見た人体の各部位の詳細な絵図も、説明も頭から離れない。

お殿様の御一行が草加(そうかの)宿(しゅく)で江戸入りの形を整えている。父上からの一報を耳にしたときは心がドキドキしだした。

「亮策さんが来るね」

分かっている事なのに由甫さんに念を押した。同調を求めた。

 

 田村公の江戸入りから三日経った。だけど、同じ官舎の何処かの部屋に起居して居るハズなのに亮策さんは姿を見せなかった。

由甫さんも私も気を揉んだ。父上でさえも、誰か急病人でも出て多忙なのだろうと言いながら首をかしげた。そんな折、やっと亮策さんから今日の夕方に伺うと伝文が父上の所に届いた。使い走りの小者は天真楼からだと言った。 

天真楼で三年間学んでいた亮策さんだ、上京して何かとすべきことが有ったのだろう。

 待ち遠しかった。申の刻(午後四時頃)になって亮策さんが来た。

陽に焼けた顔をしていた。三月末から十日余りの旅は自分達の時の道中よりも日差しも強くなっていたと思う。

卯月ももう半ばだ。父が席を譲って上座に亮策さんを座らせた。一歩下がって私と由甫さんの間に座りなおした父上に、やっぱり上座に戻って下さいと遠慮する仕草を見せた。微笑みながら首を横に振る父上に、改めて頭を下げる亮策さんだった。

 亮策さんの開口一番に天にも昇る気持ちになった。

「二人は喜べ。玄白先生のお許しが出た。五月初めから共に天真楼に通うが良い。

二人は先生の所に居るものとばかり思って行ったが、居ないのに驚いた」

 それから江戸に着いて、ここ二日間の経緯を語った。江戸入りは草加宿を辰の刻五つ立ちして上屋敷藩邸(愛宕下大名小路)に着いたのが申の刻に少し前だったと言う。

 何時もの江戸入りと変わりない。街道筋の人々の目を引くように何時もその時刻に時間をかけて(大名)行列は進んだのだと語る。そのように仕組むのだと初めて知った。

 着いた後は疲れが酷くて上屋敷の中にある侍医の溜まり部屋で身体を休めさせてもらい、夕餉もそこそこに床に就いた。

翌日になって(うま)(こく)過ぎに天真楼を訪ねた。そこで二人が入門していないことを知った。玄白先生は浜町の方の自宅だと聞いて、そのまま先生の所に向かったのだと語る。

「断ったと聞かされて驚いたよ。それから入門を断った理由をお聞かせいただいた。其方達も聞いたことだと思う。

漢方を学び臨床の基礎が無ければ阿蘭陀医学を理解できない、阿蘭陀医学を二年間で修めるのは無理である。遊学期間二年では阿蘭陀語の解釈が出来ないままに終わる。無駄になる。

阿蘭陀語を理解するには第一に阿蘭陀等に住む人々の生活習慣を知ることが先に必要だと言われたと思う」。

思わず、私も由甫さんも首を縦に頷いた。

「それを聞いて私は僭越ながら反論した。阿蘭陀人が阿蘭陀に在ってどうして漢方を先に学んでいましょうか、(かの)(くに)の心ある者は白紙の所から己の国の阿蘭陀医学を学び医者を目指す。故に、漢方を先に学んでいなければ阿蘭陀医学を理解できないとは言えない。

 また、先生が解体新書で表わした人体の構造図で分かるように漢方の教えるところの五臓六腑は実物、実際とははなはだ異なる。今や阿蘭陀医学の方が漢方の教える医学よりも先に進んでいるのは明らか。人体の構造を知り、人体の各部位の機能、役割を知ってこそ人の役に立つ治療の方法等を探ることが出来る。 

漢方が教えるところの良いところ悪いところの取捨は阿蘭陀医学を学んだ後にも出来る。そう言った」

その後に続けた亮策さんのお言葉は玄白先生への反論でもあるけど、私と由甫さんに言って聞かせるようにも聞こえた。

「阿蘭陀医学を二年間で修めるのは無理なことは私にも重々(じゅうじゅう)解る。しかし、それを学ぶための書物、環境は江戸に有る。江戸に在ってこそ阿蘭陀医学の一端をより学ぶことが出来る。

 父清庵も、二年と雖もその機会を逃してはならないと言っている。また阿蘭陀語を理解するには阿蘭陀に住む人々の生活習慣を知ることが重要だと言う先生の説はごもっともだと思う。しかし、だからといって今、先生の所に来ている門下生で、先に海を渡り阿蘭陀人の生活習慣を学んできた御仁は一人とて居ない。

 江戸に在って阿蘭陀人と接する機会が有ればこそ、また長崎に行く機会が有ってこそ異国人の生活習慣に触れることが出来る。他は異国の本に頼るしか無い。その本も江戸に在ってこそ手にすることが出来る。

 本に親しむかどうかは学ぶ者の心がけ一つ。是非に二人の入門をお(みと)めいただきたいと申し出た。

一人は未熟で、弟は医学の医に就いたばかりと承知のうえである。むしろ真っ白な中から是非に二人を玄白先生の思うところの医者に育て上げていただきたい。そうお願いした。

 側で聞いていた中川先生、中川淳庵先生だ。あの解体新書の翻訳に玄白先生と一緒に取り組んだ方だ。小浜藩の藩医で玄白先生の後輩だ。その中川先生が加勢してくれた。 

 二人を引き受けましょう。阿蘭陀医学を学ぶ者にこういう若者が出てくることを我々自身が期待していた。教えられるところは教えましょう。漢方医学に(こだわ)るよりも後に続く阿蘭陀医学を志す人材を真っ(さら)な中から育てるのも私達の仕事でしょう。中川先生が横からそう助言してくれた、思いもしなかったよ」

 それから天真楼に戻り、会えていなかった旧友と会い、昨晩は飲み明かしてそのまま友人の所に泊まらせてもらったのだと言う。亮策さんの報告が終わると、私も父上も由甫さんも笑みの浮かぶ顔を互いに見合った。

「今日は二人の祝いの席だ、夕餉に酒肴を飲み食べさせてくれる(みせ)に行きましょう」

亮策さんの誘いだ。清庵先生に似て亮策さんも十分に行ける口だ。

 

 ほろ酔い加減で亮策さんは自分の部屋に帰った。由甫さんも付いて行った。

部屋に明かりを点けると、父上が目の前に座れと言う。そして諭すように言った。

「今日の話は、玄白先生と起居を共にして三年の間、先生の所で学んでいた亮策さんだからこそ言えた。おそらく玄白先生の意気や(へき)を知った上での反論、説得だったろう。 

 中川先生が側に居たことも、また口添えの加担をしてくれたことも幸いだった。これも何かの縁だ。玄白先生はもとより中川先生にも感謝の気持ちを忘れず、今後くれぐれも礼を失しないようにしなければならぬ。

これからはただひたすら学ぶことだ。その機会を得たのだ。夢がかなったのだ」

 父上の言葉がしっかりと耳に入った。何年ぶりかで二人だけの、嬉しい夜になった。 

 

 五月一日、空はまさに皐月(さつき)晴れだ。亮策さんが付いているから安心だ。由甫さんと一緒に隅田川沿いにある天真楼に向かった。

玄白先生との約束の時刻は()の刻(午前十時)だ。門番の立つ小浜藩中屋敷の門を潜り、天真楼の看板の掛かる屋敷の門口に立つと、改めて屋敷全体を見上げた。

 今日からここで修行が始まるのだと思うと胸がドキドキし出した。 

 到着を告げ、誰も迎えに出ない玄関口を亮策さんの指示に従って通った。途中の廊下で先日に玄白先生の所でお茶を運んでくれた女中に会った。その女中が亮策さんに軽く会釈をして案内の先に立った。 

 診療に当たっている場が左に見えた。患者を前にした白衣の作務衣姿が余計に目に付く。その部屋をいくつか通り過ぎ、奥まった座敷に案内された。先生は床の間を後ろに既に座って居た。右横には何冊かの本を重ねた文机がある。

 亮策さんが、連れて来ましたとご挨拶かたがた由甫さんと私を改めて紹介した。先生は、ニコニコしながらいきなりの提案だった。

「二人は住まいをこの屋敷内に移したらどうかの?。其方も知っての通りこの敷地内に長屋造りながら弟子達のための(むね)(寄宿舎)が二つ有る。朝夕の賄いは雇いの小母さん達が通いでしてくれるゆえ困ることもあるまい」

「二人ともここからそう遠くない愛宕下田村小路の一関藩中屋敷に住まいを得て御座います。診療の場にも、また江戸の生活にも慣れるまで暫くはそこから通う方が良いでしょう」

 亮策さんが由甫さんや私に代わってお応えした。由甫さんは今は亮策さんと一緒。私は父上の所に寄宿していると伝えた。そして、亮策さんは私達三人でさえ耳にしていなかったことを言い出した。

 

[付記」12月25日はクリスマス。皆さんはどのようなプレゼントがありましたか?。歳をとると貰うより差し上げる方でしょうか。小生には嬉しいプレゼントが二つ届きました。

 一つは、仙台市博物館から、仙台、芭蕉の辻の錦絵をブログに投稿して良いとの承認書です。もう一つは、サイカチ物語を投稿していた時にも「良いね」ポイントを下さった某出版社(出版業界通中堅どころ)の編集長がフォロワーになってくださ下さったことです。出版に携わるプロの方からの応援は実に励みになります。有難うございます。

 なお、下記に芭蕉の辻の絵の添付を試みましたが、小生の資料集にはスキャンした後も正常に保存できているのに、アップロードすると回転してしまいます。ですので年末に息子が帰ってきたら改めろて紹介させていただきます。

仙台市やその周辺にお住みの方等、時には同博物館に出かけてみてはいかがでしょうか。