宿場に入って八、九丁も歩いたけど、まだ町並みが続いている。人だかりが出来ていた。

南京玉すだれとか言う竹細工を器用に扱って様々な形を作って見せるものだった。節回しのある唄に合わせて(つり)竿(ざお)(はし)枝垂(しだれ)(やなぎ)だと形の説明がつく。

 次に驚いたのがガマの油売りだ。刀を振り回しながら、傷につければ血はたちどころに止まり傷が治ると言う。由甫さんと顔を見合わせた。口上が一段落ついたところで我先(われさき)に買い求める周囲に驚きながら、自分も一つ買った。

本当にガマの体内から出る油なのかどうか分からない。何から出来ているのか分からないが軟膏だった。由甫さんと今晩にでも足の豆のつぶれ痕にでも塗って見ようと話した。

 越ケ谷の宿場を外れると、田んぼや畑に混じって(はす)の葉が浮く大池(おおいけ)が続く。途中で出会った(くわ)(かつ)ぐ百姓夫婦?は蓮根(はすね)(レンコン)が地元の特産品だと言う。また草加宿までに何本植えてあるのだろう街道筋は松並木がズーッと続いた。

 高札場を見て草加(くさかの)宿(しゅく)の町並みに入った。明日は江戸入りだ。必ず頭を洗いたい、身体を洗いたい。お風呂が有ることが絶対の条件だ。そう思いながら手引き女子の説明に耳を傾けた。

(とり)の刻(午後六時頃)になるが周りは真っ暗と言うほどではない。凡そ半月の時が経った。一関より百里以上も南に来たのだと思った。

 食事も風呂も終わると、寝床を前にワクワクしながら由甫さんと明日一日の行動を確認しようとなった。

「出立は明け六つ(午前六時)にすんべ(しよう)。(うま)(こく)(お昼)には日本橋だ。

そこから芝の愛宕下まで行っても未の刻(午後一時から午後三時)のうちに(関藩の)中屋敷に到着するだろう。

父に会って先ずは旅装を解き、泊まるところの確認。しばしの生活の場の確認が必要だね」

 私が父上の所に同居するのは確実だろうけど、由甫さんの住まいがどうなるのかまだ分かっていなかった。途端に口数が少なくなった由甫さんだ。声が小さい。

「兄が江戸に居ればそこに寄宿することも出来るのに・・・」

「心配要らないべ。俺と一緒に父の所に世話になれば良いんだ」

 卯月(四月)になったらお前達の後を追って殿のお供で江戸に行く。言った亮策さんを思った。亮策さんに何か考えが有るハズだ。一言、暫く元節の所で世話になれと目の前で言ってくれれば由甫さんの心配も無かったろう。

 それから、清庵先生からお預かりした杉田玄白先生宛の包みを確認した。外装の油紙は一関を出立した時のままで特に問題は生じていない。形から掛軸であることは分かるが、何が書かれているのか分からない。この先に進む街道絵図に目を通した。

「明日は元気に江戸だ」

そう言って、共に納得して床に就いた。しかし、思いに思った江戸だ。どんな所だろう、父上に三年ぶりに会える。そう思うと興奮して眠れなかった。

()の刻(午前零時)にも(うし)の刻(午前一時から午前三時の間)にも一度目が覚めた。(とら)の刻(午前五時前)には、まだ起きるには早い、明け六つ(午前六時)の出立にはまだ時間がある、そう自分に言い聞かせた。ウトウトも出来ず寝床の中で起きる時刻を数えた。

 由甫さんも度々寝返りを打っているところを見ると碌に眠れなかったのだろう。

やがて締め切った雨戸の隙間から光が漏れて来た。段々と明るさを増すその光に今日は好天だなと思った。

 

 旅籠を発って、本陣清水家とその側に脇本陣を見ることが出来た。また木戸口に至る町並みのところどころで焼き煎餅なるものを売っているのが目に付いた。一関で口にしたことはない。

どんなものかと由甫さんと話しながら、食べてみるのが一番と煎餅なるものを買った。

焼き目の付いた丸型のそれは塩味がした。

売り子に聞くと、蒸した米を潰して天日干ししたものに塩を振って焼いたものだと言う。夏場に良く売れると話した。

 

 千住(  せんじゅの)宿(しゅく)が目に入って来ると、吃驚(びっくり)した。屋根々々が重なって見えた。

宿場に入ると、一層驚いたと言うほかはない。途端に行き交う人馬が増え、大小の(たな)が軒を連ねる。越ケ谷どころではなかった。

 鮒(  ふな)屋や(こい)屋の看板を出す小料理屋が有れば、蕎麦処(そばどころ)うどん(・・・)屋、(もち)屋も有る。(こめ)にその他の穀物を商う(たな)、大きな呉服屋に飾り小物を売る店、胡粉(ごふん)屋、薬屋が目に付く。八百屋(やおや)や魚屋、桶屋に鍵屋、鍛冶屋、左官、大工の看板を掲げているところもある。湯屋に髪結床も分かりやすい。(ぼう)()(わら)屋も有る。

 川を背にして材木屋もあった。それに大きな川に幅四間(約五メートル)、長さが一丁(約百メートル)程も有りそうな大きな橋だ。千住大橋と有る。

河岸(かし)があり目の前の川を大小の船、舟が行き交う。街道筋も大川も活気に溢れている。

 千住は江戸の食料を(まかな)う所と父上に聞いていたけど、これほどの賑わいのあるところと思ってもいなかった。

千住には小塚ヶ原の刑場がある。あの解体新書を表した杉田玄白先生達が初めて腑分けを見たところ、その知識の方が私の頭の中で勝っていた。

 大橋のたもとにあった茶屋で一休みすることにした。目は街道を行き交う人馬に奪われる。町家の人々に混じって自分達と同じように旅姿の人の多いのにも気づいた。

 千住宿から日本橋まで二里八丁(約八・七キロ)。日本橋から芝の愛宕下まで一里(約四キロ)も無い。お茶を啜りながら頭の中はそれを思った。

 

 向島と言うところから竹屋の渡しというもので隅田川を渡ると、街道筋の神社仏閣や町並みに目を奪われた。待乳山(まつちやま)聖天(しょうてん)とある。その(つき)()(へい)や浅草寺の屋根瓦や五重塔を横目に見ながら歩いた。あちこちに見える大小の川と行き交う大船子船の多いのも驚きだ。

 日本橋を見たときには、これがお江戸日本橋、着いたーと一塩(ひとしお)の感慨が沸いた。

橋の大きさにも行き交う人の多さにも驚き、またその河岸(かし)に建つ土蔵の多いことにも、大きさにも驚きながら江戸の町は水の都だなと思う。

長旅の疲れも忘れて足は軽やかだ。目はきょろきょろだ。

 

 未(  ひつじ)の刻(午後二時)を過ぎたかなと思いながら愛宕下田村小路の一関藩と看板の掛かる門前に立った。由甫さんと顔を見合わせた。

着いた。本当に来た。江戸に来たのだと改めて思った。

             ニ 天真楼入門

 父上の所に寄宿して三日目になる。今日は杉田玄白先生に初めて会う。約束の時刻は巳の刻四つ(午前十時)だ。

 父上が事前に玄白先生と連絡を取っていた。その父上でさえ玄白先生と初めてお会いしたのは十日前だと言う。

もはや江戸で医業に就いている者、医業を学ぶもので杉田玄白先生を知らないものは居ない。阿蘭陀医学を学ぼうと天真楼に弟子志願で来るものが日にニ人も三人も居る、それを断るのも大変らしいと聞く。

 また、医者で江戸に在る、東奥(とうおく)一関藩の建部清庵先生門下である、数か月前までこちらに居た建部亮策さんを良く知るもので、清庵先生の使いだと先生の手紙を携えて行ったら然程(さほど)待たずしてお会いできたと語る。

 朝餉が済むと持参する物を確認した。清庵先生からお預かりした文と掛軸であろう油紙に包んだ物を風呂敷に包んだ。

 

 父上の後を由甫さんと一緒だ。玄白先生の居宅は日本橋の浜町と言うところにあるのだと言う。

何処をどう歩いているのか分からない。軒の並ぶ町並みと行き交う人の多さに驚きながら、父が居なかったら道に迷うね、と由甫さんに言った。 

 凡そ半刻(はんとき)近く(小一時間)も歩いたろう。着いたところに天真楼の看板が無い。天真楼を示すものはなにも無かった。

父上に問うと、天真楼は同じ浜町でも隅田川に架かる新大橋(そば)の小浜藩酒井侯の中屋敷にあるのだと言う。

玄白先生は、今はそこを出て、ここ、竹本藤兵衛と言う五百石取りの旗本の借地に住んでいると言うことだった。

 亮策さんが学んでいた天真楼が見られる、衣関(甫軒)さんがまだ学んでいるはずの天真楼を見られる、自分もそこで学ぶのだ、そう思ってワクワクしていただけに肩透かしを食ったような気がした。

 

 女中なのだろう、玄関口で迎えてくれた女子の後をついて行く。中庭に梅の花が咲いている。案内された座敷は違い棚と天袋のある十畳程の部屋だった。

 一旦下がった女中は淹れて来たお茶を置くときに戸惑たようで、後ろに控えていた私と由甫さんに父と肩を並べて横一列になるよう指示した。

 しばし待って、目の前に細い身体の小柄な人物が入って来た。頭を丸めお坊さんの作務衣にも似た紺色の木綿の上着姿を見ると、直ぐに杉田玄白先生だなと思った。

「先日には初めてながら面談のお許しを頂き、誠に有難うございました。失礼つかまつりました。

世はすっかり春の陽気になりましたが、先生もまた御息災とお見受けいたします。

 今日は先にお話した二人を連れて御座います。

右に建部清庵先生のご子息、建部(よし)()、名は(つとむ)と、左に倅の大槻(げん)(せつ)茂質(しげかた)に御座います」

 父の言葉に合わせて由甫さんと一緒に頭を下げた。

「まずはお茶を口にして、ゆっくりとなされ」

頭を上げると、先生は微笑んでいた。目じりに大きな(しわ)がある。

「上京に当たり、清庵先生から先生宛のお預かり物を二人が持参して御座います」

 それに合わせて、託された文と物だと伝え、私から進呈した。

先生は目の前で文を確かめ、それから油紙の梱包を解いた。

手紙の内容は勿論分からないけれども、油紙から出て来た物は予想した通りに掛軸だった。

先生が私たち三人にも見えるように、ご自分の右方に肖像画を披露した。長さ二尺は有る。幅は九寸ほどだろう。

 正直少しばかり驚いた。掛軸は二本とも文机の上に書を広げている清庵先生の彩色肖像画だった。

 着物姿の清庵先生は右腕を机に付き、左手を袖に隠し、丸めた頭に長い眉、大きな鼻の左横に黒子(ほくろ)、小さい口を閉じて書に目を通している。絵の中の文机の右端にも本が何冊か重ねてある。まさにいつもの清庵先生の姿そのものだ。

 肖像画の上部の余白の右隅に「病は口より()(わざわい)は口より(いず)る、これを慎め、これを慎め」と賛を(したた)め、安永七季春、六十七歳とある。一関に在って講義の時に何度も耳にしたことが書かれていた。

「建部殿は何時もご心配してくれている。有難いことだ」

玄白先生は語り、お預かりしましょうと言った。そして、清庵先生からいただいたこれまでの手紙の中でも、解体約図や解体新書の発刊を心配してご禁制の折、くれぐれもお気をつけ下されと認めてあったとお聞かせいただいた。

 かつては、発刊された「紅毛談(おらんだばなし)」という随筆に異国の横文字が並んでいると言うだけで出版禁止処分になり、その著者自身が蟄居閉門を命じられたのだと語る。

それを聞いて改めて解体新書等の発刊は凄いことだと思った。同時に清庵先生の、これを慎め、これを慎めの口癖(くちぐせ)は芦東山にかかる(いわ)れだけではないのだと思った。

 しかし、その後で玄白先生は思っても居なかったことを口にした。

「その後いろいろと考えたが、弟子入りの件、お断りしたい。

清庵先生のご子息と雖もまだ十六(歳)と聞く。また貴殿のご子息は清庵先生のところにお世話になっていると言っても一関を出たことが無く、漢方医学の基礎もまだ未熟でござろう。

 東奥(  みちのく)といえば仙台。その仙台にて漢方医学を広く学んでいれば良し、それも無く、いきなり阿蘭陀医学を学びたいと言っても理解が出来る物ではない。

 実際に患者を診る、臨床の基礎が無ければ阿蘭陀医学の教えるところの良し悪しも分からず、また漢方医学の良いところを生かせない。

二年間の遊学期間で阿蘭陀医学を学びたいと言うことだが、学ぶには相当に無理がある。阿蘭陀語の解釈が出来ないままに終わるだろう。

 阿蘭陀語の習熟には第一に阿蘭陀に住む人々の生活習慣を知ること、それが阿蘭陀医学を学ぶよりも先に必要である」