道々に(いわ)()に至る、棚倉(たなくら)に行くともある。三春(みはる)街道(かいどう)だ、会津に何里と言う道標(みちしるべ)を見ながら阿蘭陀医学にも内科、外科、婦人科、小児科、眼科など修める道がいくつも有る、と突拍子もないことを考えた。江戸に在って眼科を専門に学んでいる衣関(きぬどめ)さんを思った。

 宿を出る時は少し寒かったけど、巳の刻(午前十一時)過ぎになるとすっかり春を思わせる陽気になった。何処からか梅の花の匂いがして来た。坂道が続いて、額にも身体にも汗が吹き出た。

 着いた文七(ぶんしち)茶屋(ちゃや)から見下ろす山々や、歩いて来た街道筋の眺めは良い。新緑の頃や秋の紅葉の時にはもっと人の目を奪うだろう。宿に作らせた握り飯をほおばり、しばし休んだ。

「後、何里ぐらいあんべが?(ありますかね?)。白河の宿場には申の刻(午後三時)前には着きそうですね?」

「この先、三里は有ると思うけど、そうなりそうだね。まだ山坂(やまさか)が続くだろうから油断ならないけど、半里あるかないか毎に宿場町があるのは旅をする者にとって助かる」

「そうですよね。こんなに宿場町が続く所ってなかったですね。この先、兄が言っていた白河の関になるん(の)でしょ?」

「この先が間もなく(ふま)(せの)宿(しゅく)で次が太田(おおた)(がわの)宿(しゅく)、その次が小田川(おだがわの)宿(しゅく)で白河の関は太田川と小田川宿の間になるらしい」

「後、三里か。甘酒を貰って元気づけましょうか」

「そうしよう」

顔を見合わせて、笑顔を見せる由甫さんは元気だ。僅か七、八日余りの間に一関に居た時よりも(たくま)しくなったような気がする。顔は春の日に焼けて黒い。

 

 途中、この辺りが白河の関だと言う(から)(うま)の馬子と一緒になった。安くしておくから乗らないかと言う。治作さんの管理する裸馬に何度か乗せてもらったことがあるけど、由甫さんは馬に乗るのは初めてだと語り、大いに興味を示した。

「駄賃はなんぼ(幾ら)になる?」

「一里百文、凡そ二里、白河までニ百文」

高いのか安いのか分からない。だけど交代で馬の背に世話になることにした。

 宿場に入ると馬子は検断屋敷に寄るのだと言う。それで別れて旅籠を探すことにした。

白河は十万石の御城下町らしく街道筋に(たな)が軒をなしていた。また、本陣芳賀家(はがけ)と柳屋とある脇本陣が目を引いた。

三、四十もありそうな軒をなす旅籠に見つける苦労はない。引手女子の喧騒は相も変わらずだ。

「思ったよりも早い到着だね。旅籠に荷を解いて町を歩いてみんべが(みましょうか)」

確かに歩いてみたくもなる街だ。造り酒屋の看板と、軒先に吊るされたまま茶色に変色している(すぎ)(だま)が由甫さんの鼻をくすぐったらしい。

「うむ。二人とも慣れぬ旅だ。油断は禁物、どこで何が起こるか分かんねャ(分からない)。荷を盗まれたら大変なことにもなる。江戸までまだ凡そ半分ある」

由甫さんを戒めた。まだ半分の道だ、もう半分の道だ。どっちに捉えるのだろう。

 

 畳の上に寝転んでから思った。今日で九泊になる。大名行列は一日に凡そ十里歩く。旅に出れば男で一日十里、女でも八里歩くと言った父の言葉を思い出した。

 懐から出して改めて旅程の計画書を見ると、何日かは十里近く歩いたものの大概は一日に七、八里だ。この先六泊を予定しているが、宿場々々の間が凡そ七、八里。日本橋までそうなっている。

 白河(  しらかわ)から宇都宮(うつのみや)まで二十一、二里。途中の大田(おおた)原宿(わらのしゅく)が中間点だが、一つ手前の(なべ)(かけ)宿(しゅく)から大田原宿まで三里ある。旅も十日余りになるとさすがに疲れが出る。

疲れを覚えたら宿場の大小にかかわらず那珂川(なかがわ)越えの鍋掛で一泊し、大田原を飛び越して喜連川(きつれがわ)宿(しゅく)に泊まれ。それから宇都宮へ行け。明け六つに喜連川を発っても宇都宮には陽の高いうちに着く。城下を見物するのも良い。そう言った亮策さんの言葉も思い出した。 

 一関と江戸を何度か行き来した亮策さんだ。明らかに亮策さんが由甫さんを思いやった旅程だなと思った。

だけど、ひ弱い由甫さんはもう居ない。歩くたびに力強くなっていると思う。その由甫さんが戻ってきた。

「先に湯を貰いました。有難うございます。良い湯でしたよ」

 

 朝から良い天気だ。一関に比べたら暖かい。由甫さんも同じことを考えていたらしい。

「田舎と温度差がニ、三度は有るでしょうね。暖かい」

 下野(  しもつけの)(くに)宇都宮(うつのみや)の宿場に入った。喜連川の旅籠を七つ(寅の刻)発ちしたからまだ(うま)(こく)(午後一時)を少し過ぎたばかりだ。商家や問屋が店を構え、本陣も脇本陣も有る。 

伝馬(でんま)(ちょう)という町並みを見物しながらゆっくり歩き、日光街道への追分だと言うその近くにあった茶店に寄った。

「日光東照宮までどのくらいある?」

お茶を運んで来た老爺(ろうや)に尋ねた。

「はい。十里(約四十キロ)はあります」

思わず由甫さんと顔を見合った。宇都宮に着いたら日光に足を伸ばそう。日光東照宮を参拝しよう、行って見ようと二人でワクワクして話した昨夜の夢はあっさりとしぼんだ。

「無理だね。寄り道には遠すぎんべ(遠すぎる)。またの機会を待つしかねャ(ない)」

来た道を戻り、旅籠や木賃宿が並ぶと言う大黒(だいこく)(ちょう)に向かった。

 

 今日も青空の下の道中だ。途中から一緒になった薬売りから、小山(おやま)には須賀(すが)神社がある。徳川家康が奉納したという大きな神輿(みこし)が見られる。地元の人々はそれを(あか)神輿(みこし)と呼んでいる。毎年七月にその神輿と他に二十数基の神輿が出る。祇園祭と言って大層なものだと聞かされた。(ひつじ)(こく)(午後二時頃)には小山(おやまの)宿(しゅく)に着いた。

 宿場の木戸口で薬売りとは別れたけど、旅籠を探す前に須賀神社に行って見ようと由甫さんと話し合った。昨日(きのう)に日光東照宮に行かれなかったのを何となく引きずっていた。

 参道の門前は団子屋あり蕎麦屋ありで疲れた身体を休めるにも腹を満たすのに良かった。しばし休んで参道の杉並木の中を行くと、大鳥居と本殿が凛とした空気の中に有った。

残りわずかな道中になるけど、お互いにお守りを買った。引いた(くじ)は中吉、吉報は南にありと有った。

「大吉です。良き縁談ありと有ります。まだ十六(歳)なのに」

由甫さんが自分で言って、笑った。

 

 ここまで来ると、手引き女子の扱いにも慣れた気がする。風呂の造りは如何(どう)か、二人だけで泊まれる部屋の有る無しを聞き出し、翌朝の出立時刻を伝えて握り飯の用意が出来るかを確かめた。部屋の大きさも方角も気にならない。

この旅籠を含めて後三泊で江戸だ。そう思うと、いよいよ江戸入りを現実のものと感じた。三年待った、いや四年待った、そんなことを思いながら父上に会えるのも三年ぶりだなと指折り数えた。

 明日は栗橋(くりはし)の関所を通る。中田(なかだの)宿(しゅく)から利根川の渡しを通って栗橋だ。由甫さんとそれぞれに振り分けの中の通行手形を確かめた。それだけで緊張を覚えた。手形を出したらおどおどするな、堂々としていろ。江戸に行く目的を聞かれたらちゃんと医業の修行に行く、藩の許可状も有ると準備しろ。

床についても亮策さんの忠告を何度か頭の中で反復した。

 

[付記]

 お読み下さっている皆様に感謝しつつ申し上げます。現在のほぼ毎日の投稿を、来週から月、水、金の三日、文字数は現在の一日2500~3000を5000~6000の目安に変更させていただきます。

 その理由は、今も「大槻玄沢抄の後編」を執筆しているのですが、その出来上がりの予定が大幅に遅れているからです。小生のパソコンのレスポンスが遅く、ブログの投稿に30分、時には1時間もかかる勿体ない時間が生じています。

 USBに過去の作品を落としてパソコンの負担を軽くしているのですが、なかなかに改善しません。

毎日、朝の四時、五時から小生の投稿をお待ちの方が居ることを承知のうえで、投稿の方法を修正させていただきます。

 今年は、明日23日、来週の月25日、水27日,金29日の投稿で終了とさせていただきます。

 来年は、1月4日までお休みをいただき、5日金曜日から、月、水、金で投稿させていただきます。

[蛇足」

 なお、小生、今日で76歳になります。妻が久しぶりに夕食に所沢市中に出てみようと誘っていますのでそのようにします。懐が心配だけど。半分トホホ・・・