霜月(十一月)、今度は伯父の死だった。あの日、まだ申の刻を過ぎて講義が始まったばかりなのに窓の外はすっかり闇かった。施術所の前で突然、馬がいなないた。
治作さんが裸馬を駆って、大槻家の危急を伝えて来た。
清庵先生が必要なものを取り揃えて、治作さんの後ろに乗って大槻家に急いだ。私も必要かもと想像つくものを手にして急ぎ足で後を追った。
曾根君や結城君達の気を付けての言葉を背中に聞いた。道々、時折吹く北風に煽られる提灯の明かりが濃くなったり薄くなったりした。
伯父の死は心の臓の硬直だった。体調がすぐれないと家族に訴えて奥座敷に横になったのだそうだ。水差しを持って行った伯母が異変に気付き、伯父の肩に触れたのが最後だったと言う。
上半身を起こした伯父が胸を掻きむしる様にして背中を丸め、そのまま後ろに倒れたと言う。開いていた目が恐ろしかったと、後で伯母から聞いた。
清庵先生が駆けつけた時には既にこと切れていたらしい。家族の案内で私が襖を開けると、伯父の最後の床の側で先生が首を横に振ったのを今も覚えている。
龍澤寺で行われた伯父の葬儀は盛大なものだった。かつて配下にあった肝煎りだけでなく、近隣の大肝煎り、組頭に、俳号(和中、曲肱と)を持つ伯父らしく句や歌に茶の湯を通じて交流のあった人々が参列した。清庵先生や藩医の方々もだ。
それだけではない、私が見たことも顔を合わせたこともない藩士や商人、農民、小作人に職人等が龍澤寺の山門に延々と並び、焼香した。葬儀は伯父の人望の大きさと交際範囲の広さを改めて物語っていた。享年七十七(歳)だった。
その葬儀が一段落した後、江戸に在る父上に手紙を認め伯父の訃報を伝えた。
返書には病は人を選ばずとあった。人望を集めた伯父の死を悼んでの言葉だったと思うが、私はこの一年余に逝った人々を思った。
愛した花、田んぼで亡くなった喜利、病と生活苦で命を落とした茂助と細君と子、そして論語や昔話を語り、人の生き方を教えてくれた伯父。
誰にも人生は有るけど、この一年余で人が生きることの難しさ厳しさをより多く知ったような気がする。医者たる者これからも人の死と向き合わねばならない。何と言ったら良いのだろう、表現の仕方を思いつかないけど心の中で改めて人の死を思った。
数日でこの年も終わる。もう一年になるのかと思いながら花のお墓参りに出かけた。治作が居た。盛られた土とその前に置かれた石だけの墓に尾花に白い小菊の花、黄色い小菊の花、紫のリンドウの花が飾られてある。
庭から摘んできた白菊と秋桜を一緒に供えさせてもらった。治作は墓石に声をかけた。
「花、茂坊ちゃんだよ・・・」
焼香して振り向いた私に深々と頭を下げた。それから墓を前に、肩を並べて治作は思い出を幾つか語った。
その中で、花は最後まで大槻家の子として逝った。自分の生い立ちを知らないで死んだという言葉が胸に染みた。すっかり白くなった薄毛の元結に手をやりながら言う。
「何、俺が死んだら、冥途に行ったら話して聞かせやしょう。
初めて親子を名乗り、先に逝った女房と三人で親子の名乗りをしましょう」
まだところどころに冬枯れた雑草が残る。二つの盛られた土を見ながら、返す言葉もなかった
十二 亮策の蘭学話
年が明けて安永六年(一七七七年)になる。冬の農閑期には農民の患者が多い。一年の疲れがどっと来るのだろう、足腰の痛みに塗り薬はないか、貼り薬はないかと訪ねてくる。処方とて大抵はお灸を据えて痛みを和らげる、血の廻りを良くするだけだ。
困るのは農民も商家の人も大工等職人も、またお侍様も流行り病の方だ。その冬の流行り病に合わせて飲み薬を調合してみる。清庵先生やその時に側に居る藩医の方々に教えてもらい乾燥させた草木を調合する。薬研を使うのは結構力がいる。
雪に滑った転んだで足を折った、身体を庇って地に着いた手を挫いたと言って顔をしかめながら来る患者が多いのもこの時期だ。命に別条がないだけまだ良い。
呼ばれて往診した時の商家やお武家様の家族の方に重病人が多い。心の臓が痛むとか胸が痛むとか明らかに重病な者や、駆けつけた時には既に手足の硬直や歪んだ顔の者を見ることが多い。病は何処から、何故こうなったのか、そう思いながら何時も血の廻りが悪くなったから、滞ったからとしか説明できない。
薬は調合して渡すが、他に対処の仕方が分からない。解体新書を見ることが出来て人体の構造は大方頭の中に入れたつもりだ。阿蘭陀医学ならこの後の処置方法をどう説明しているのだろう。治療薬は確立されているのだろうか、身体を切り開くのだろうか、頭蓋骨に穴をあけるのだろうか、神経なるものを束ねる脳と言う物をどうすると言うのだ。
そう思いながら診察に当たることが多くなった弥生(三月)も末、講義の時に清庵先生が、三年ぶりに亮策が帰って来ると言った。肌寒い日が続いているが、先生の顔が自然とほころんでいた。
私にとっても江戸の今を聞く、解体新書発刊の後の医術を取り巻く世の中の変化や父上の近況を聞くまたとない機会だ、嬉しくなった。
良く晴れ上がった皐(五月)の初め、桜が満開だという時に亮策さんが帰郷した。未の刻(午後二時頃)に突然施術所の玄関口で、只今帰りました、と大きな張りのある声が響いた。春の陽気に仕切り戸を開けっ放しだったから、私も音一君も他の塾生も手伝いに来ていた藩医の方々も、汚れ物を入れた盥を手にしていた手伝いの小母さんまでが一斉に玄関口に目をやった。
そして思い出したように、患者を置いて一斉に亮策さんの周りに駆け寄る始末だった。
振り分けを肩にした亮策さんは肩幅が張って背丈は大きくなっていた。脚絆と草鞋に泥が付いている。
頭は町人姿だったけど、黒ずんでも見える顔に口ひげを蓄えていた。精悍な顔だ。出立した日のひょろっとした姿から想像出来ない程の変わりようだ。
腰に付けている印籠も高価なものに変わっている。施された文様を見ると江戸を感じる。