板の間に背中の男を下ろさせ、顔を覗き込んだ。青白い顔をしている。眼はつむり、唇は薄黒く紫色になっている。

「「田んぼを見に行って足を滑らせたべ。独りだったす(し)、帰りが遅いど(と)(くみ)の婆さんが俺家(おらえ)に言ってきた。

婆様の隣家(となり)に声を掛けで一緒に行って見たら、何処(どご)探す(し)ても()(とし)の姿が見え()ャ(見えない)。

田んぼさ行って、周りを見だら、(せき)さ(に)落っこっていたべ。

 何とか二人で引き上げだ。奴がつけでいだ蓑傘は脱がせたんだ」

 蓑傘のままの一人が側から言う。仰向けに横たわる男は喜利という名だと分かった。

鼻に手を遣ると息を吸う気配はない。男の心の臓の辺りを暫く叩いて刺激した。しばし続けたけど反応はない。蓑傘姿のままの二人を前に私は首を横に振った。

「すかたなかんべ(しようがない)」

「婆様に如何(どう)伝えんべ(伝えたら良いのか)。

婆様は一人だべ。家族は居無ャ(居ない)」

 片方が片方に言う言葉を耳にした。蓑傘の二人は貸した一畳余りの板戸に死人を乗せ、筵で覆って帰って行った。

その後で音一君が、葬式を出すことが出来んべか(出来るのだろうか)、と言った。

 

 清庵先生が帰ってきたのはそのことが有って半刻(はんとき)(約一時間)後だった。びしょ濡れの袴の裾を音一君に拭いてもらいながら、私の報告を受けてくれた。

そして、その日の講義の時に先生が教えてくれたのは按摩の術だった。撫でる、押す、揉む、ときには叩いて患者の持つ生命力を思い起こさせるのだと言う。

 その実技を交じえての講義だったけど、私達の目の前で横になっている音一君をそのままにして、先生は、衣服は着たままで良い、心の臓に近い方から遠い方に施術を行うのだと語った。そして、漢方の施術だが、蘭方にもあるのだろうかと最後は独り口にした。

 

 実りの秋だ。来る患者の話だと去年よりも農作物の出来は良いらしい。

だけど、作物の出来具合と世間話を笑いながら言えるのは、医者を必要としながらも心にも生活にもゆとりが有る者だ。診療がために、大きな農家や商家や武家の屋敷を訪れる一方で、長屋暮らしの一軒一軒から声がかかると、行った先々で違った人生模様が垣間見られる。

 生きると言うことは何時の世も決して楽ではない。十九(歳)になる私でさえ余計にそう思う出来事に遭遇した。茂助はまだ三十代半ばの働き盛りだった。

 母に言われたと迎えに来た男の子はやせ細っていた。道々に歳を聞くと、九つだと言う。陽助と同じ歳だなと思いながら世間一般の九つになる子等を想像した。男の子は明らかに栄養不足だ。

 その子が案内したのは街筋(まちすじ)も整備された(すい)(かわ)小路(こうじ)を抜け、吸川に掛かる橋を渡って少しばかり先の地にある長屋だった。

隙間のある障子戸を開けると、左手に炊事場、正面が小さな土間から上がっての六畳一間だった。煎餅(せんべい)布団(薄い布団)に横たわる男の(そば)にその妻君なのだろう、赤子を背にして座って居た。

 私の姿を確認すると、深々と頭を下げる。上げた顔の右頬にほつれ毛がかかっていた。その左横に女の子が座って居る。何歳になるのだろう。

 布団の足元の方にはこの長屋の家主(やぬし)だと言う老人が座って居た。家族に代わって口を開いた。

「寝込んでもうニ十日にもなるべ(なるだろう)。最初にすった(知った)とぎ(時)、何、すぐ治るべ(治るだろう)と隣近所からも聞いでいだけど、さっぱりだ。

 茂(  も)(へい)が日に日に()せこけでいぐのが分かる。その元が何が何なんだが、俺達(おらだづ)には分かんねャ(分からない)。それまでの無理がたたったんべな(たたったのだろう)。

 田畑の手伝いに駆り出されているうちは駄賃に、おこぼれの作物を分けて貰えたりすっ(る)から喰うにも困まんねャ(困らない)。

 暮らす(生活)もまずまずだったぺ(良かった)けど、その時が過ぎると仕事がねャ(無い)。

時折、土方仕事(すごと)や大工仕事の手伝いを見つけで稼ぎに回っていたみたいだけど、冬場は困ったもんだ。それまでの貯えが底を付いだら長屋に暮らす者は似たり寄ったりで春までひたすら辛抱でがす(辛抱になる)。

 ンだがら(そうだから)流行り病に(かか)らねャ(罹ない)ように気を付けねばなんねャ(ならない)」

 家主の言う言葉を聞きながら、茂助という患者の腹を診た。

鳩尾(みぞおち)の辺りから腹部を探る。時に指先に力を入れる。その度に茂助は痛みを訴えた。流行り病などではなかった。明らかに(しゃく)(がん))の気を示していた。不治の病の一つだ。

 家主よりも思わずその細君の方を見た。見守る母子もやせ細っていた。

迎えに来た長子になるのだろう九つになると言う男の子に、後で施術所に薬を取りに来るようにと伝えた。

 その子が施術所に顔を見せたのは一刻(約二時間)も後だった。女の子の手を引いていた。癪を治す薬はない。痛みを止める物とて無い。痛みを少しでも抑えるにはお灸をすえて血の(めぐ)りを良くするぐらいのものだ。

そのことが分かっていても、後で薬を取りに来るようにと言わざるを得なかった。握り飯を持たせたかった。

 あの母子(おやこ)に一時でも腹を満たさせてやりたい。清庵先生からは常日頃、医者は一時の感情で動いてはならん、善行が返って思わぬ仇になることもあると教えられている。

 だけど、炊事場の小母さんに頼んで握り飯を作ってもらった。茂助に滋養をつけさせねばならないのだと、握り飯と一緒に他所(よそ)からもらい受けていた山芋と貴重なニワトリの卵四個を兄妹に持たせた。

 翌日の朝、茂助が亡くなったと、感謝の言葉を添えて家主から連絡が入った。母子の姿が思い出されたけど、どうしようもない。

 そしてそれから三日後、番所から悲惨な報告を受けることになった。母子が自殺したのだと言う。診察に当たった時に何か気づくことはなかったか、変わりはなかったかと番所に呼び出されて仔細を問われた。

男の子と五才になるという娘と、背中に負われていた乳飲み子の首に人の手による青あざが残っていたのだと言う。

母親は鴨居にぶら下がって発見されたと知らされた。