しかし、秋になっても冬になっても私はあの解体新書をあの時以来目にすることはなかった。他の塾生達も皆同じだ。藩医の方々の間を一冊の本がグルグル回っているのだろうか。
時折、誰々先生が江戸に手配して解体新書を手にしたとか、仙台の城下で手にしてきたとか聞いたけどその真相は分からない。
父が藩候と共に帰郷すると母上に状(手紙)を寄せたのは年が明けて、まだ雪解けの見られない如月(二月)の初めだった。
見せてもらったその手紙で私が一番嬉しかったのは解体新書を持って帰ると言う一文だ。
皐月(五月)半ば、父上は藩候のお供をして一関に戻った。
母上にも陽助にも私にも田舎で目にすることのない江戸土産が有ったけど、私は何よりも解体新書を早く手にしたかった、見たかった。
父上が帰って来たばかりのその晩にドキドキしながらそれを手にした。
頭も胸も腕も手の甲や指も、また腰や太ももも、足も足の甲も指先も人間の構造はこうなっている、身体の構造がこうなっている、書をめくるたびに出てくるその詳細な絵図の一つ一つに驚く。
顔が紅潮するのも胸が更に早鐘になるのを実感した。清庵先生の講義の時に見せられた時以上に驚きの連続だ。
「これからは阿蘭陀医学の時代だ。この絵図がそれを語っている。この解体新書が示す人体をしっかりと頭に置きなさい。
人が生きるためにそれぞれの臓器等がどんな役割を果たしているか、それを知って病を補うのがこれからの治療であり医者の役目だ」
父の教えに言葉も出ないまま頷いた。
父が持ち帰った医学書の中で蘭方医学に関係したものはそれだけだ。異国との交流を禁じている日本で異国の本を手にするのは余程のことなのだと言う。ただ、見たこともない横文字だけの藁半紙が束になって一つ有った。
「カピタンの泊る屋敷(江戸の長崎屋)に出入りすることの出来る本藩(仙台藩)の藩医から写させてもらった。
その写しが必ず役に立つ日が来るだろう。通詞たちが持っているものだと聞く」
手にすると、父はそう語った。阿蘭陀の文字と言葉を意味する物らしい。符丁のような
AとかBから始まっていた。何時か清庵先生が言葉にした辞書という物かなと思った。
父はその後で笑いながら言った。
「写すにも大変な手間ひまがかかった、金もかかったぞー」
暑い夏もひたすら私は勉強した。解体新書の一つ一つの絵図を頭に叩き込んだ。面白いものだ。最初は驚きばかりだったけど何度も何度も人体の各絵図を見ていると、自分の頭を触って頭の中を想像してみたり、鼻の中、これが耳の中、これが目ん玉と、顔に手を遣りながら考えることが多くなった。
胸に手を当て、この下に心の臓、ここに肝臓なるもの、ここが胃なのだと、絵図をみながら自分の身体に触れた。診察の時にも患者の痛い、痒いと言うところに触れながら骨や人体の中の臓器を想像した。
また横文字だらけのもう一つの束はパラパラと眺めているだけだったけど、読み方を知らずとも何度も見ているうちに二十六文字とその並びは暗記した。
また、いくつかの綴りを見ていて気付いたのは、最初からの五字、六字が同じになっていることが多いのに気づいた。最初からの五字、六字が同じような意味を持ち、その次に続く綴りが言葉の意味を変化させているのではないか、そんな気がした。
意味も分からずに横文字の綴りをなぞってみたり、半紙のないままに指で文机に空書きした。
神無月(十月)も半ばになる。来る患者は流行り病を患っている者が多い。決まって咳をし、熱を出している。周りが寒くなったからと言うわけでもなかろう。普段からの身体づくりや栄養事情もあるのだろう。この秋も決して豊作と言うわけでは無い。
今晩は巻の三、胸、肺、心の篇を開いてみよう。そう思いながら帰路についた。
十一 死を悼む
秋の陽はつるべ落としだ。夕闇が迫っていた。だけど山間に沈む夕陽と赤く染まる浮雲の美しさに足を止めた。冷ややかな風が頬を撫でて過ぎる。北上山脈の連山は黒くなり始めていた。
我に返って土間口の戸を潜ると、母上の仕度する夕餉の匂いがした。
陽助が火吹き竹を手に顔を赤らめながら竈に向かっていた。
すると、後ろで閉めたばかりの戸の開く音がした。治作がよろけるようにして入って来た。
立っている私の姿が見えたのか見えないのか、そのまま奥の板の間に進んで腰を下ろすと頭を抱えるようにして下を向いた。肩が小刻みに震え始めた。
唖然とした。そっと近づき治作の左肩に手を掛けた。
「如何した、何が有った」
返事はない。母上はまな板の上の手を止め、陽助は立ち上がってポカンとしている。
暫くして、治作が声を絞り出すように言った。
「花が死んだ」
「花、えっ?」
驚いた。事情が読み込めない。
「何、何故、どうして」
立っている自分の足が震えだした。笑窪の花の顔が頭に浮かぶ。背が高くなった、胸が膨らんだ、花柄の足袋を履いていた。女性らしくなった花が思い浮かんだ。
「まさか、何故、どうして」
しゃがみこんで治作の両足の膝をゆすった。治作の頬を伝う涙を見ながら、驚くだけだ。