秋の祭りも過ぎた神無月(十月)も末、杉田玄白医師の返書が清庵先生の手元に届いた。先生はそれを私達に披露すると言う。普段手伝ってくれている藩医の方々にもお声を掛けたらしい。講義所に集まった中には父上も曾根君の父上も結城君の父上も混じっていた。講義所が狭く感じるほどだ。窓の外は小雨が降っている。

「春に送った手紙の返事が杉田玄白医師から一昨日(おととい)に届いた。日付が十月十五日となっている。既に知っていると思うが玄白殿は若狭国小浜藩の藩医で今江戸にある。漢学にも漢方にも通じる蘭方医だ。

 俺(  おら)の質問に答えたものだが、皆にも大いに参考になると思って集まってもらった。

師は奥州と江戸と遠く離れているが、この老いぼれを吾党(われら)の同志と言い、漢の古事の鍾子期(しょうしき)に例えて巡り合えたことが嬉しいと言い、俺の良き聞き手だと言って来た。

 見たことも直接に話したこともない師がこれほどまでに俺を思ってくれるとは思いのほかだ。感謝、感謝だ」。

 先生は言いながら自分で感激していた。言葉に詰まって暫しの間、口の辺りをもごもごさせた。早々にお話が途切れた。一息つく格好になった。

「師は、阿蘭陀語の翻訳は容易ではない、難易だと言ってきた。何もかも初めてのことゆえに我が国の言葉にしたらなんというのか、何と訳したらいいのかと仲間とともに苦労しているとある。それが俺にも想像がつく。

 全体を通じて訳は対訳、義訳、直訳の三通りにしたそうだ。骨は阿蘭陀語でベーンデレン。今我々が使っている骨に当たる言葉だからそのまま骨と対訳にしたそうだ。

 また、カラーカべーンは鯨の頭のもろく軟らかい骨だそうで、漢語に軟骨という字があるので軟骨と義訳した。

また飲み食いした物は胃腸に入りその養分はそこで変化して液汁となるが、この液汁に当たる漢語が無い。そこで阿蘭陀語の音のゲールをそのまま直訳して液汁をゲールと呼ぶことにしたと言う。

 訳すにあたって、阿蘭陀語で語るところのことをすべて漢音で書き表し、それにカナを点けると言ってきた。そうすれば、カイタイシンショをもって漢の医者も阿蘭陀医学を知るのに役立つと言っている。

 カイタイシンショは日本人だけに読まれればいいと言う考えではないのだ。玄白殿の先を見る目と心の広さに感服する。

教えを乞うために送った金瘡跌撲(きんそうてつぼく)の書は楢林流(ならばやしりゅう)外科に伝わるものなのだそうだ。その元になった阿蘭陀の原書には整骨の方法や内用薬についても書かれているが金瘡跌撲にはそれが無く、完全な蘭書の翻訳とは言えないと言ってきた。

 また、その書に出てくる薬名や漢名に誤りがあればそれも正して欲しいと頼んだが、十のうち二、三が分かっても役に立たない、薬の名と効能は追い追い吟味して今後分かり次第伝えるとあった。

 また人の身体(からだ)にはセイヌンと言う(けい)が七十四あり、その経から分かれた支脈は幾千万と有るが、そもそも経は漢名で何と言うのかと質問したところ、前に寄越した解体約図の通り身体の経路と言うのは動脈、血脈、筋、神経の四通りより外に無いと言ってきた。

 師が訳したといういくつかを皆に披露したい。セイヌンは阿蘭陀語で言うところのセイニーだそうだ。セイニーは神経(しんけい)と訳すそうだ。

 神経は色が白く丈夫で脳と脊髄から出ている。それは視聴、言動をつかさどり痛痒(つうよう)寒熱(かんねつ)を知る。動かないものを自由に動くようにするのはこの経が有るからだと言ってきた。

 また、我々が漢方を学んで言っているところの動脈はスラクアデルと言うのだそうだ。そのまま動脈と訳し、動脈は(しん)から出る血液を受け全身に配る。

 また反対に動脈の血液を受けて心の臓に戻すのを血脈と訳すと言う。ボルアデルと言うのが阿蘭陀語で、我が国の言葉で血脈とするそうだ。我々が漢方で知るところの青脈(せいみゃく)のことだ。

ブルウド(オランダ語、BLOEDB)は血と訳す。

 血は血脈と動脈の中にありその色は(あか)であり、これが全身を十分に循環して身体を養う。ベンデレンは骨・・・・」

先生の話が続いた。誰もが耳を集中して聞いている。それぞれが、手にした半紙に必死に書き留めている。

先生が手にしている書簡が私には宝物に思えた。同時に阿蘭陀医学を学びたい、阿蘭陀なる国の言葉を知りたい、江戸に行きたい、江戸に行かねばとその思いを新たにした。

 

 そのことが有って間もなく、ニ、三日して亮策さんが江戸に出立すると知った。玄白医師が開いている天真楼という塾に入るのだと言う。

 曾根君も結城君も小田君も驚く反面、そうなるだろうと納得顔だ。しかし、私は羨ましい心がふつふつと湧いて、家に帰って眠れない日が続いた。一緒に江戸に行きたい。

 

 霜月(十一月)も半、亮策さんは江戸に向かった。見送りの門口に立って清庵先生は勿論、先生を手伝っている藩医の方々、塾生に普段診療所に出入りしている薬師(くすし)や手伝いの人々までが見送った。

 そんな中で、別れ際に亮策さんはそっと耳打ちをした。父を宜しく頼む、しっかり勉強すること、いずれは玄沢も江戸に遊学することになると言った。 

 その言葉を信じる。そう思うと、頼りにしていた男子の居なくなる六十二(歳)の清庵先生の顔が余計に()けて見えた。

先生にとって亮策さんを送り出すのは一大決心だろう。