三つ目の序には当藩藩医の志茂玄寿先生が筆を寄せている。私は志茂先生を知らない。
最後の四つ目の序が清庵先生自身によるものだ。
「王者は民を以って頼むべきものとし、民は食を以って頼むべきものとする。両者の頼みとする所、同じではないように見えるが農を根本として重んじている点で異なるものではない。農は天下の根本である。その根本が強固であれば国はおのずと安泰である。
私のように微禄の者が日頃耕すことも無く、草取りもせず、それでいて安心して生涯を送れるのは、農民が吾らの頼みとするところを支えているからだ」
その書き出しを改めて目にすると、先生の農民に対する慈しみを深く感じる。
また、「今年は長雨で作物が傷み、穀物は実らず、農民は野菜や雑草で命を繋いでいる。見るに忍びず、自分の才の乏しいことも考えずに民が自らの力で飢饉を凌ぐことが出来る方法を書いて、肝煎り組頭に与え周知し、それを以って天恩である農民の恩に報いようとするものである」の一文に、自分に出来ることは何か、何が世のため人のために出来るのか、それを自問自答している先生の姿が目に浮かぶ。父が四、五年前に口にした、世のため人のために尽くすひとかどの人になれ、と言う言葉が心に響く。
文面の間には、道に行き倒れたとなった人の図や、炊き出しの粥を請う人の図を差し込んである、それを見ると、飢饉の惨状と備えの重要なことが殊更に分かる。
(参考図。岩手県立図書館所蔵)
序を書いた日が宝暦乙亥孟冬日と有る。十六年も前の神無月(十月)の末になる。衣関さんが言うように、私の生まれる前に書かれたものが今も色褪せない、世の中に役立つのだ。しかも今、江戸で評判になっていると聞いて、伝えることの大切さ、書き物に残すことの大切さをも知った気がする。
巻末に校正協力者として身近に知る藩医四人の方の名が載っている。曾根先生の父であり元碩君の祖父でもある曾根希方意三、父上の名、大槻茂蓄玄梁、結城君の父の名、結城得英升育、今も時折診療所に手伝いに顔を見せる高橋先生(高橋雲台時義)の名前だ。
父に見せてもらった備荒録よりも立派に装丁されたそれに父上の名をみると、心が躍って頬が紅潮した。
(参考図、岩手県立図書館所蔵)
江戸と言う社会がどんなところなのだろう、改めて思いが飛ぶ。
旧盆が明けた最初の日の講義の時、先生は民間備荒録のことに一言も触れなかった。それよりも衣関さんに託した書簡のことについて語った。
手紙は阿蘭陀医学を知る適当な人物に届くことなく先生の手元に戻ったのだと言う。肩を落とし落胆した姿を見ると備荒録の出版を喜んでばかりもいられない気がした。
年が明けても流行り風邪で施術所に来る人の数が絶えない。先生方の診察を手伝い、その晩に書き留めておくべき医術、薬草の効能等を半紙に書けるようになった。
半紙は貴重品だ。その購入代金を清庵先生の配慮があってのことだろう、亮策さんが塾生皆の分を都合してくれた。
元節の爪帳と言われることも、爪を黒くすることも今は無くなった。去年までと違うことと言えば、自分も薬研を使って薬の調合をするようになった。
病に効くという草木を先生の指示通りに乾燥させること、それを木箱に保存し、あるいは小屋の中に吊るして保存する役目から一歩進んだ。
病に合った調合の仕方を亮策さんや他の先生方からも学んでいる。
梅が咲き、桜が散り、見える限りに田んぼも畑も野も山も青々と茂る。今年の秋は実りが期待できそうだ。
暑い日が続いた葉月(八月)も末、衣関さんが再び江戸に出立することになった。周りはまだ夏の景色だけど、夜には虫が鳴き
秋風が吹く
先生の診療所を手伝っている父上や外の藩医の方々、亮策さんに俺達塾生が門口に立って見送りをした。
その日の講義の時に、先生は阿蘭陀医学にかかる質問状を再び衣関さんに持たしたと語った。
「江戸を離れて二十五、六年にもなる、今江戸に蘭方を修めた医者がどこに居るのか、どんな医者が居るのか分からん。宛先を定めずして託した」
その役目を担いたい。自分もその役を果たしたい。江戸に行きたい、衣関さんが羨ましいと思いながら聞いた。
それから数日して、皆が驚くお達しが先生のお手元に届いた。慶事だ。先生が穀禄百十石を賜ることになった。
意三先生が、大人百人が優に一年間暮らせる米になる、本藩の小姓頭並みの俸禄だと私達にも分かりやすく説明した。
亮策さんは、民間備荒録が幕府にも評判で増刷され各諸藩にも配られたと言う。その功績を本藩の藩主伊達重村公が認めた処遇だと語った。
備荒録を読んで己の信ずるところの方策の提案が皆のためになる、町民を助けることも出来るのだと思ってはいたが、それが俸禄にまで関係して来るとは思いもしなかった。
本藩が支藩の一医者の俸禄に関わって来たのだから余程のことなのだろう。父上は困った顔をしていると亮策さんだ。高額な俸禄の通達は間もなく城下の至るところで知られることになった。話題になった。
しかし、先生の質素な暮らしぶりはその後も変わらない。患者のためにも診療に当たる先生方のためにもと、大工の手が入り診療の場が一部修復、造作されただけだった。
秋も終わり、私が十六(歳)になる誕生日を迎えると、父上が侍ならばとうに元服している年齢だなと言った。
父上の五人扶持の身が何故か侘しくも思われたけど、祝ってくれる父上の言葉と母上のささやかな祝いの膳が私には嬉しい。
それから十日ばかりして元号が改まり、明和が安永となった。
[付記」ごめんなさい。昨日同様にスキャンして回転等をして小生の資料集には正常に記録されているのですけど、何故かこのブログにアップロードすると絵図が回転してしまいます。修正技術の無い小生です。年末に息子が帰ってきたら修正を試みます。




