三 清庵門下生

 勉学にも遊びにも農作業の手伝い等にも三年の月日は早い。先日の誕生日が過ぎて十三(歳)になる。

 この冬も寒いのだろうか。霜月の名の通りここ数日は(あさ)(しも)も降り、見える野山は落葉して薄墨を吐いたようだ。

 父上の俸禄は五人扶持で前と変わりないけれども、家にも庭にも手が入って三年前よりも藩の禄をはむ藩医の家らしい門構えになったと思う。

 施術所と薬草小屋兼物置が引っ越してきて間もなくに造作された。庭に咲く黄色い小菊が()だ辺りに香ばしい匂いを漂わせている。

 勉強の合間の気分転換に表に出てはみたけど、見上げる空はどんよりとした雲だ。深呼吸をすると思わずぶるっと身震いがした。

 

 父上は周りが既に暗くなり、寒さが忍び込む暮れ六つ(午後六時)に帰宅した。それでも普段より少し早い帰宅だ。

着替えると夕餉を後にして座敷に私と母を座らせた。

 目出たいことじゃと先に言う。ひんやりとした座敷の空気とは裏腹に顔が(ほころ)んでいる。父の顔は髭が伸びている、一日が経ったんだなと変に感心しながら次の言葉を待った。

「清庵先生が其方(そなた)の入門を許して下さった。明日からにでも通わせるが良いとのことだ。

先生の所は知っての通り幾つかに区切られた施術所(せじゅつどころ)を抱えていて長屋づくりとはいえかなりの広い造作だ。

 住み込みの弟子も居るし、通いの弟子も居る。其方は通いの内弟子となり、施術所を手伝いながら教えを乞うことになる。

先生の住まいは質素な造りだが講義所(こうぎどころ)もある。患者が途切れる(さる)の刻(午後四時)過ぎからいつも講義があると聞いているが、その講義所も時には担ぎ込まれた者の施術の場になったりしている。

 講義の無い日が続くこともあるかもしれぬが不平不満を言わず、そのことは心しておくが良い。何事も清庵先生の教えを良く書き置き、その日のうちに復習することが医術を知る一番の方法だ。

 私のような藩医が時折顔を出して手伝ってはいるが、日頃は何人かの内弟子と子息、(りょう)(さく)殿が病人を世話している。

其方より二つ年上になる(りょう)(さく)殿は医学にかかる知識も施術の域も同じ年齢(とし)(ごろ)の他の弟子達の及ぶところではない。

 清庵先生と同じように亮策殿からも学ぶ心をして接するが良い。其方にとってきっと良い相談相手、話相手、若き先生となる。

論語に十有五にして学に志す。三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知るという(ことわり)が有る。其方はまだ十三(歳)だが、まずは十有三にして学に志すに有れ」

 心は踊った。清庵先生が塾生になることを許可して下さった、明日からにでも通うが良いと聞いただけで後に続いた父上の話をよそにしてハイと返事をした。

 前に伯父に教えてもらった論語だ。その後に六十にして耳に(したが)い、七十にして矩を超えずと続く。

(岩手県一関市役所玄関入り口の右側に建つ「建部清庵由正像」)

 通い始めて何よりも感謝しなければならないと思ったのは亮策さんだ。まるで弟のように接してくれる。亮策さんは私と同じ年頃の塾生三人の面倒を見る役割だ。清庵先生の指示だと思う。

 辰の刻(午前八時頃)に四坪ばかりの講義所に顔を出して、それから揃って施術所の方の掃き掃除、拭き掃除をする。それから戻って講義所の掃除だ。

 初出所の日の施術所の掃除の後、亮策さんの指示があって亮策さんの側で施術の具合を見ていることになった。

他の塾生が清庵先生等の側で手伝っている姿を見て、いつの間にか私も()(らい)の水の交換、患部に当てる布の手渡し等を手伝うことが出来た。

 まだ十五、六と聞いていた亮策さんの患者を診る手さばきや、老若男女の誰にも、身なりにも関わらず話に耳を傾ける姿に感心した。緊張していたせいか時の経つのを忘れた。

 施術が終わった後の(さる)の刻(午後四時過ぎ)、清庵先生は講義所に私達を集めた。亮策さんの指示で先生の真ん前に座らせられた。

 驚いたけど、先生はニコニコしていた。

「今日から通うことになった大槻元節君だ。名前で分かる通り玄梁先生の息子さんだ」

 そして何時ものことの続きなのだろう、清庵先生の講義が始まった。私にとって記念すべき、初めて聞く講義だ。

「今また患者の中に(らい)を患って来ている者が五人居る。

癩は罪を犯した者、悪業を重ねた者が天により罰せられた(やまい)であるから治療方法がないと言う医者が居る。

 四百人からの癩患者を見て、一人の貧しい婦人を治すことが出来たが三百九十九人は直せなかったと言う。

その天刑説を支持する者の中には大家と言われている医者も居る。しかし、それらの医者は己の医術の未熟さを表すもので単なる言い逃れに過ぎない。

 一婦人はどんな善行を行ったがゆえに治療方法が無いという天刑の病を免れることが出来たのだ。

また四百人もの癩患者を診たと言うが、何故その医者の周りにばかり悪行を重ねた者が多く居て、治療を求めて来ると言うのだ。

 また、癩の病は血脈によるもの、血の遺伝によるものだと決めつけて処置の方法がないと言う医者も居る。しかし、その説もまた根拠の無いものだ。今私が診ている患者同士の間には血脈の関係がない。患者の家族関係を探って見ても血脈を言うことは出来ない者も居るのだ。

 病は口から入る。患者に見られる(かさ)はその患者限りの食毒によるものだ。遺伝でもなければ伝染もしない。癩の病は決して天刑の病などと思ってはならぬ。血脈によるものだと理解してはならぬ。

 癩の病の症状はまず手足に赤斑が見られ、その後、胸や背中、腰、腹等に広がる。皆、何処も(かゆ)くなり皮膚が爛れ(かさ)(ぶた)を生じる。

 治療の経験から言えば、発症してまだ四、五年のものは皆快癒(なお)っている。しかし、七、八年以上たつものは治し難く、十五年以上になるものは治せなかった。

 赤斑が見られる程度であれば皆投薬の効果がある。しかし、鳥肌のような赤斑が見られる患者は発症してからの期間が長く、二十もの薬種を煉り薬にして与えても治し難かった。また、患部が白く変色しているものはその皮膚、肉ともその用をなさず治すことは出来ない。

 治療の方法として温泉を勧める医者もいるが、それはならぬ。余が経験を持っていう。

硫黄(いおう)明礬(みょうばん)を含んだ湯は治療すべき患部の爛れや傷口を閉じてしまう故にかえって害になるのだ。

 私は、治療の効果を上げることの出来る物が必ず有るに相違ない。そう思ってこの十数年その方法を探ってきた。そして今は、大楓子(だいふうしのき)を主たる治療薬として用いている。 

 それを多く服用すれば失明すると語る医者も居るが、使って十数年に及ぶも未だに失明する患者は出ていない。失明は大楓子(だいふうしのき)によるものではなく、体内の熱が脳内に何らかの影響を及ぼすが故と心得よ」