世襲制の世の中に、父はやっとできた直子の次男である私の先行きを案じた。
二十一年上の兄者(清慶)は上伊沢郡(現在の岩手県金ケ崎町、水沢町、胆沢辺り)の大肝煎りの千田家から来た養嗣子だ。
私は父に言われるままに藩医、建部元水(初代、建部清庵)先生の所に通うようになった。鍼灸に薬草の効能等外治(外科)、内治(内科)の基礎を習い、その後、先生の推薦で子息元策先生(二代目建部清庵)も学んだと言う仙台の松井寿哲先生、玄潤先生の下で漢方医学を本格的に学んだ。それが十余年にもなる。
それから戻って生家に近い城下外れの街道筋に町医者の看板を掲げた。父の望む通りに一応の生計を立てられるようになった。
その住居兼用の前の小さな借家に顔を見せるようになったのがそなたの母じゃ」
言葉尻を茂質に向けた。
「兄者の出の千田家を通じて儒と医にかかる私塾を伊沢(現、岩手県奥州市水沢)に開いていた河島家を父が知り、未だ私が仙台で医術を学んでいる折に人を介して常子を手元に置くようになった。勿論、先行き私の嫁にと口説き落としてのことだったようだ。
常子はしばしば私の所に顔を見せるようになった。私を手伝うようになった。
後になって常子自身に聞かされたけど、何時も何かと言伝を頼んだり届け物を持たしたのは父だった。
私が常子に気を引かれることは父の計算のうちだったらしい。其方の母者は私よりも前に父の目にかなった娘だった」
茂質の頬が緩んだ。
「二人の婚礼に親類縁者の反対も有った。大肝煎りの家がどのようなものか、何をせざるを得ないか知る者の娘をとか、他に縁談は一杯あるとか声を大きくする者もいた。
しかし、私自身が常子を好きになったのだ。利発に動き、笑顔を見せる常子を愛したのだ。
だから世話を焼いたその父が亡くなった時も、医術の何たるかを教えてくれた元水先生が亡くなられた時も、私は二人に感謝の言葉しか思い浮かばない」
常子がぽっと顔を赤らめて自分の膝のあたりに目を移した。茂質が母の横画を見た。構わずに話を続けた。
「元水先生亡き後、元策先生が家督を継いで二代目建部清庵由正となり一関藩医となったのは延享四年〈一七四七年〉、先生三十五(歳)の時だった。
引き続き出入りを許され、教えを受けられることになったのは何よりだった。
江戸から戻ったばかりの清庵先生の口から阿蘭陀医学とか、これからの医学の進歩に腑分けが絶対に必要だと聞かされて、(私は)ただただ驚きだった。
人型を基に鍼のツボ、灸のしどころを教わり人の血の流れや気の流れを何時も想像はしていたけど、先生から人体の内部、それぞれの臓器なる物の話を聞かされて胸が躍った。
先生は犬や猫、馬にも腸は有る。人にも有る。各々の臓器を何と言うのか呼ぶのか、人が生きるためにそれぞれの臓器がどんな役割をしているのか、病を治すのにそれを知ることが重要だと説いた。
しかし、それを知るのはまだこれから先のことだと語り、蘭方医学の学びを途中にして江戸を後にせざるを得なかったことをとても悔やんでいた。
それから二十年近くにもなるが、臓器を知ることの出来る人体の腑分けは未だ御上の固く禁じているところだ。
一関城下に過ぎたるもの二つ有り、時の太鼓に建部清庵と人々の口に乗る先生の活躍は其方達も知っての通りだ。
鍼、灸に膏薬や飲み薬の処方が医術と思っていた私に、先生は生きるために食べることが一番大事だ、食べ物が命を繋ぎ、病を未然に防ぐと説いて聞かせた。
繰り返される冷害と凶作にあえぐ城下の人々の悲惨な状況を目の当たりにして、また土地を捨て他国から流れてくる人々を見て飢饉への備えが最も重要であると説いた。米、麦、ひえ、粟、野菜の普段耕作する物の外に口にすることが出来る物が何か、長く保存できるものは何か、それを教えて呉れたのが先生だ。
身近なところに棗、栗、柿、桑の木などの植樹を勧め、そうすることによる利点と実の処理の仕方、食べ方の方法に実の持つ効能を説き、解毒方法に保存の仕方を献策したのが先生の民間備荒録だ。
私は傍にいて教えを受けながら、その校正、筆写等を手伝うことが出来た。巻末に曾根先生(曾根意三、一関藩医)等と一緒に手伝ったものとして私の名が記されたことを誇りに思う。
出来上ったその書を初めて手にしたとき、改めて驚きの念と先生への畏敬の念が大きく湧いた。自分の体が震えたのを今でも覚えている。
三十四(歳)にして医術を学びなおそう、世の人のために働こうとその時私は改めて決心した。茂質の生まれる一、二年前のことだ。
医は仁術とは先生の教えに他ならない。二年前、四十四(歳)にもなる私が一関藩医招請の慶事を授かることが出来たのも先生のお陰だ。医術の上では元水先生とともに今の清庵先生は大恩人である。
世間は阿蘭陀医学の外科医と私を評しているけど、その知識と言えば江戸に出て医学を学んだことのある清庵先生に聞いているものにすぎない。恥じ入るものだ。第一に蘭語(阿蘭陀語)そのものが分からないのだ。
私はまだ江戸に行ったことはない。いずれ村隆公(第四代一関藩主、田村村隆)にお供して江戸に出る機会も有ると思う。清庵先生に学び聞くだけだった阿蘭陀医学の治療方法を実際に学ぶ機会を得ることが出来るやもしれぬ。それを思うと四十六(歳)のこの私でさえ胸がわくわくする。
其方はまだ十歳だけど、これからはこの父を側に見ながら心して医術を学び、世のため人のために尽くすひとかどの人になって欲しい。
施術所を一緒に覗いた際、まだ八歳だと言うのに笑顔で其方に元節という名を下さった先生だ。いずれ先生の所で教えを乞うようになる。機会を見て門下生の端に加えてくれるよう正式に先生にお願いするとして、この際に父(茂性)から譲り受けたものの写し書きを其方に渡し置く。