第一章 磐井の里              

             一 家訓

(おら)親父(おやず)の代わりに来たがら初めて見ん(る)べ。大肝煎(おおきもい)り様の(やかた)だけに大す(し)た立派なもん(の)だ」

「代々続いて居る家だもの俺達(おらだづ)とは(つが)うさ。家屋敷も長屋門もちょっとす(し)た武家

屋敷や大きな商家には負けねゃ(負けない)、立派なもん(の)だ」

 田植えが終わって農閑期になる。この時期の例年の呼び出し状に各村から駆けつけて来た肝煎り達だ。

 田畑に目を遣る私達の後ろを通って、樫の木で組まれた幅十間も有る白壁の長屋門に吸い込まれていく。一人、二人の従者を連れて(たっ)(つき)(ばかま)に脇差を腰にした彼らの身なりも立派なものだ。

 この坂道は街道筋から続いている。途中に佇む単衣(ひとえ)姿の私達親子三人を大槻家(おおつきけ)ゆかりの者と彼らは思いもしないだろう。門口に立って最後まで見送りの手を振っていた兄者(あに)(義兄・大槻清慶(きよよし))の子等の姿は勿論もう無かった。

 目の前に大きく広がる田んぼは水面(みなも)が見えないほどに稲が生長している。このまま無事に成育してくれ、秋の実りを確かにしてくれと願わざるを得ない。

 ここ数年、麦も夏野菜も頼りにする米も不作が続いている。今年も夏がすぐ目の前だと言うのに重ね着が必要な程に寒い日が続く。

 人足や馬子(まご)、小商い人等だけではない、田畑を耕作する農民すら春先から腹をすかして悲鳴を上げている。

 これから行く半里ほど先の城下に至るまでの道端にも他国(よそ)から流れ来た物乞いがそこここに居るだろう。情に流されて一人に握り飯を遣ればたちまち何人もの物乞いが集まる。  

 持たされたばかりの三人分の握り飯六つ全部を差し出してもそこで取り合いの騒ぎが起きるだろう。それどころかもっと持っているのではないかと迫り、身の危険すら起きかねない。

 そのことは先日にこれから住む借家の下見に一人で行った時に体験している。指を口にくわえた幼な子に握り飯を渡したのに手を繋いでいた母親が取り上げた。お腹を大きくしていた。しかし、更に、それを横取りしようと他の手がいくつも伸びた。周りの大人も子供もだ。道に落ちてしまった握り飯一つを何人もが声を荒げ争って手にしようとする。地獄絵を目の当たりにした。

 三十四、五歳の時の宝暦(ほうれき)の世の大飢饉も思いだされた。それ故に、物乞いが寄って来ても、今日は無視するようにと出立前に常子(つね)(しげ)(かた)(さと)した。

 

 藩医になって二年目になる。清庵先生の家に少しでも近く同じ川小路の通り端に住めればと思っていたが、藩が用意してくれた借家は(かわ)小路(こうじ)から外堀と街道を挟んだ町人屋敷の裏の(さくら)小路(こうじ)の一角だった。

(いわ)井川(いがわ)の土手から一丁ばかり離れてはいるが、大雨の続く日に心配がないでもない。

 本家を継いだ兄者(あに)から金を出すから自らの屋敷を持てと言われたけど断った。常子(つね)のこれまでの苦労や茂質(しげかた)の将来のことを考えれば断るのもどうかと考えた。

 しかし、倹約と農民や町人の事を第一に考えて行動している清庵先生の質素な居宅のことを思うと断るのは当然な気がした。

先生の民間(みんかん)備荒録(びこうろく)が村々の肝煎り等の手に渡ってもう十余年になる。編纂を手伝った長男の三省(さんせい)建部由巳(たけべよしみ))さんがいずれ後を継いで藩医となり活躍してくれると先生は期待していたと思う。それが思いもかけないまだ二十七歳のあの若さでの病死だった。

失意の中に有った先生が、病で藩医を辞したばかりの喜樸(きぼく)先生(小田喜樸、一関藩医、)の後釜に四十四(歳)にもなる私を推薦して下さった。一言も口にしないけど、そうに違いない。あの時も今も、期待に応えねばなるまいと思っている。

 

 道々は少し汗ばむほどの久しぶりの青空だった。

 柴垣の戸口を通って家の中に入ると、素早く茂質が土間の隅に回って水を汲んできた。それを差し出したけど常子に譲った。

柄杓(ひしゃく)を手にした小柄な常子が私を見上げたけど私は黙って頷いた。

 常子と茂質に何かあってはと早めに本家を出たのは正解だったろう。道端に腰を落としたまま、うつろな目をした老若男女を何人も見かけたけど無事に通り過ぎた。

 茂質は次の水を私に呉れて、最後に(みず)(がめ)の前で自分の喉を潤した。それから私と常子に足を洗う水を運んだ。 

板の間に腰を下ろし(とう)(歳)になるその茂質を見ていて、一息ついたら今日こそ話そうと思った。

 まだ巳の(こく)(午前十一時前)だ。家族のこれからの生き方と心構えを話すには良い機会だ。常子の夕餉の用意にはまだ時間が有る。腹がすいたら持たされた握り飯を食えば良い。常子に話していないこともある。

 常子が淹れてくれたお茶を囲炉裏の傍で親子三人口にして、それから板の間に続く六畳間に二人を誘った。奥にもう一間あるだけの造りだ。

 間にある板戸を締めると、たちまち熱気がこもるようで南側の庭に面した障子を開け放つことにした。

前の借家人が植えていた草花が繁る雑草に混じって何種類か咲いている。

 二人が庭を後ろに正座した。常子の左肩の後ろの方に白百合(しらゆり)の花が見える。

「新しい生活が始まる。昨夜(ゆうべ)の宴は兄者(あに)の心尽くしだ。親類縁者に家の使用人に兄者を助ける手代や締役までが集まって祝いの膳を設けてくれた。そのことは忘れてはならない。感謝せざるを得ない。

 されど道々見てきたように、行く当てもなく世の中には腹をすかした子も大人も居る。着の身着のまま雨露を凌ぐのに橋の下を求める者も居る。

 今年も藩の籾蔵(もみぐら)(まい)の拠出が噂されているけども、逃散(ちょうさん)(農地を捨て)して他国(よそ)から流れ来て餓死する者がまた見られるだろう。そのことを忘れてはならない。

 家は代々続く大肝煎りの家ではあるけど、医術とは何の関係もない家柄だ。そこに生まれた私が医術を学ぶことになったのは父(大槻茂性(しげしょう))の勧めである。

 

[付記]

   昨年11月26日、一通の手紙を受け取りました。前・日本赤十字社・社長、大塚義治氏からです。氏は、小生の拙い小説を当初からお読み下さっていた方です。

  70(歳)の手習いによる作品の出来具合等を時に電話や賀状等に寄せて語ることがあっても、手紙は初めてのことでした。

その内容は、6月に職を辞した、まだ退任した実感がないけどおいおい肩の荷を下ろしたような気分と、寂しさをかみしめるような気分を味わうようなことになる、と心情を吐露しながらも小生の作品の公開を促すものでした。

   その後の詳細は、「サイカチ物語」等を公表するに当たっても記述しておりますので、ここでは割愛します。

 

11月26日。この日が、その後の小生を変えた日でもあります。

大塚氏にお読みいただいたのは、全て小生の作品の草稿です。ブログの公開に当たって、どの作品も加筆修正しております。

今回公開する「小説・大槻玄沢抄」前編もまた加筆修正をしております。氏が今にお元気なら、まず先に報告させていただくのですが・・・。(大塚氏に目にしていただいたのは前編まで)

 

  それゆえに、この作品を公開すると言うだけで涙が出てきます。(涙もろくなったねー)

私と同学年。3カ月ばかり小生より3カ月先に生まれた人、酒も大して飲めないのにいつも赤ら顔、副社長室(小生が一緒に仕事をさせていただいたときは副社長)の応接卓子の上はいつも本だらけ・・・、思い出されます。

   格好良く、この書を天上の大塚氏に捧げると言いたいのですが、まだ半分。後編が残っています。(76歳、還暦を経て0歳からの再スタート、まだ16歳。本気でそう考えています。頑張りまーす)

 

  2027年は大槻玄沢没後200年。執筆しだした令和3年、当初はそんなことも知りませんでしたけど、ならば早くに後編も書き上げてNHKの大河ドラマにしてもらえないかと勝手に妄想を抱いております。

 

全国津々浦々、また海外からも支援してくださる皆々様に改めて感謝申し上げますとともに、今後とも宜しくご支援をお願いいたします。