「部屋に戻ると机の前で泣いた。涙が止らなかった。何故だ。何で急ぐんだ。俺が美希を直してやる。俺が美希を治療する、既に彼女は遺体となっているのに、あの時、私はそう思った。

 学生服が喪服だった。靴下だけ柄入りを黒一色に履き替えた。学校には風邪を引いて体調が悪いから休むと自分から携帯で連絡した。彼女の死を口にできなかった。

 私は午前九時丁度に彼女の家に着いた。歩いて行った。玄関の戸は閉められたままだった。まだ病院から帰っていないんだと思いながら、県道の方に目をやった。

 青空の広がる朝だった。田畑は茶色く、枯れ草の野辺が続いていた。黒塗りの車が走ってくるのが見えた。後ろに見慣れた小父さんのカローラが付いていた。

 私は二台の車を迎える形になった。白く長い棺を小父さん達と一緒に庭の方から座敷に運んだ。三週間前に京子さん達がお見舞いに来て談笑したあの座敷だ。

 慌ただしく葬儀屋さんが動く間、部屋の片隅で棺を見ていた。この中に美希さんが居るんだと思いながら不思議と涙が出なかった」

「ショックが大きすぎる」

「床の間が白い布で覆われ、手前の畳の上に彼女の白い棺が安置された。棺の奥にも前にも両脇にも仏壇や仏具が無かった。棺の左右に白い胡蝶蘭と大きな花瓶に生けられた花が飾られた。棺の前に白布で覆われた長テーブルが置かれ、錦糸の座布団が一つ、その前に置かれた。

 彼女の通夜は無くなったあの日の夕方六時からあの場で行なわれた。

 告別式は翌日の二十二日土曜日、午前十一時から地区内にある藤沢町郷土文化保存伝習館で行なわれた。伝習館は藤沢町の隠れキリシタンの歴史を今に伝える場所だ。 

 私達の住む大籠地区に凡そ四百年、お寺は今も無い。時折、あの地区の冠婚葬祭の場所としても利用されていた。

 熊谷君や京子さん、梨花さんは通夜にも告別式にも来て呉れた。参列者は渡された一輪の白菊を手にして棺の前に置かれている白布の長テーブルの上に献花して合掌した。読経も聞こえない中での祈りは私自身初めての経験だった」

「・・・・」

「告別式では私も両親も明子も美希さんの親族席の後ろに控えた。ご両親からの要望だった。その告別式にはクラス仲間二十二名と担任の岩城先生が参加した。

 梨花さんの弔辞だった。小学校から高校までずっと美希さんと一緒だったと言い、小学校の時も中学の時も高校生になっても合唱部で良く一緒に歌ったと語った。

 この夏にはよさこいソーランを野焼き祭りの舞台で一緒に踊った事、古城巡りをしながらキャンプをした事、文化祭でのエピソードなど学園生活の中での思い出を披露した。それを聞きながら生徒仲間も先生も、そして参列者は早すぎる死に思いを寄せて涙を流した。

 梨花さんは、最後に安らかな永遠の眠りを祈る言葉を美希さんに呼びかけ、友を代表して藤沢高校三年、普通科高橋梨花と締めた。

 私は聞きながら余計に彼女と遊んだ小さい頃からの様々な場面が思い出されて涙が頰を伝った。肩を振るわせ泣きじゃくる明子がハンカチを手にしたまま横に居たのを今も覚えている。

 その後、参列者を前にして謝辞を述べる小父さんの言葉の中に私の知らない美希さんが居た。驚いた。凡そ一年、教会のミサのある日にはミサに参加し、学びのある日にはその講座に参加していたのだと言う。

 そして、カトリックの洗礼を受けたいと希望していて亡くなる二日前、十九日の水曜日の夜、京子さん熊谷君と私が病室を訪問した後の時間に神父さんが来て、ご両親の立ち会いの下に洗礼を受けていた。

 京子さんと熊谷君が帰り、病室に私と彼女の二人だけになった時にも彼女は何も言わなかったし、そのような素振りを少しも見せなかった。

 あの一年を通しても、彼女の信心は私の知らないことだった。幼馴染みであり愛する人だった美希さんの事は何でも知っているつもりでいながら・・ショックだった。

 あの通夜の席も告別式のやり方も、地元が隠れキリシタンの里で有り、お寺が無いから準備された方法だと私は勝手に思い込んでいた。

 通夜にも告別式にも神父さんの姿は無かった。参列者を前に小父さんから、神父さんのご支援とご理解を賜わり故人は亡くなる二日前の十九日に病室で洗礼を受け、クリスマスの日の降誕祭の式典の後に、改めて大籠カトリック教会で葬儀が行われると伝えられた」

「そういうこと・・・」

 

 告別式のあの日、青空なのに陽が射す中をチラチラと雪が舞っていたのを覚えている。冬の寒い田舎ではよく見る光景だ。遠くに白雲が浮かんでいた。手のひらに拾った雪はすぐに溶けた。式が終わった後、彼女の遺体は荼毘に付されることなく自宅に帰った。

 十二月二十五日、火曜日。二学期の修了式があり出席した。連休明けだった。午後五時から大籠カトリック教会で降誕祭の後に改めて美希さんの葬儀が行われた。

 

「クリスマスの日と言えば、それぞれに事情があるからね。あの日に参加したのは、熊谷君に京子さん、梨花さん、それによさこいソーランを一緒に踊った佐々木愛さんだった。岩城先生はじめ学校の先生方の参加はなかった」

 午後五時から始まった降誕祭を見るのも、新たに洗礼を受ける人の儀式を見るのも私自身初めてだった。

 信者の方に混じって私も家族も、参加してくれた熊谷君達も手渡された歌詞を手に聖歌を口にした。

 

「聖書の朗読と神父さんの説教を聞き、祈りを捧げた。後になって聖体拝領と言うのだと知ったけど、他人(ひと)に促されて並び、祭壇の前で神父さんからパンもいただいた。

 美希さんの葬儀の段になって棺が開かれ、神父さんが祈りを捧げた。小父さんが寄って来て、最後のお別れをしてくれますかと最後列の椅子に並んで座っていた私や家族、熊谷君達に言った。黙って頷いた、誰の顔も緊張していた。

 白菊を手にして見た棺の中の美希さんはまるで眠っているように見えた。安らかな、穏やかな顔だった。神父さんが施した聖水に故人の額が濡れていた。不思議と私達五人に涙が無かった。

 葬儀が終わって教会の外に出たとき、熊谷君や京子さん達がバスで来ていたことが分かった。七時前だったけど町に帰るバスの最終便はとうに終わっている。

 参列者が三々五々自家用車や徒歩で帰途に就く中で、私の父が自家用車(くるま)で町まで送るよと言った。私は、俺達は歩いても家まで二十分と掛からない、父の言う通りにしてくれと言った。美希さんのご両親は未だ教会関係者と教会の中の事だった。

しかし、四人は遠慮した。京子さんが代表するかのように、彼女の死は悲しいけど、今は不思議と清々(すがすが)しい気持ち、歩いて帰りますと言った。

 あの夜、空は満天の星だった。ヒンヤリとした澄んだ大気の中に数えきれない星が煌めいていた。四人は町まで歩いていた。

空を見上げながら、上を向いて歩こうなど美希さんと一緒に歌ったことのある歌を口ずさみ彼女にお別れをしたのだと後で聞いた。約十一、二キロの道程(みちのり)もあっという間だったと言った」

 

(付録ー明日、11月2日から3,4,5日はブログの投稿をお休みさせていただきます。いつも午前四時を過ぎると小生の小説をお読み下さる方もおり、ここにお断りを書かせていただきます。

 現在執筆している「小説・大槻玄沢抄」の参考になればと大阪、京都、それから名古屋に出て旧木曽街道を馬籠、妻籠、奈良井宿を凡そ6,70キロを歩いてきます。76歳にもなれば、娘婿に同行していただくことにしました。