八 再入院

 あの日曜日、家族が昼食の食卓に着く前に一人食事を終えて、彼女の家を訪ねたのは午後も一時頃だった。

 

「あの日曜日の午後、私は美希さんが入院するよう、説得しに行った。

 小父さん小母さんに夕食を食べて帰れと言われるまで説得をした。

 だけど、治療を続けても無駄、それと分かっていて気持ちが悪い、頭髪が抜ける、いやな思いをする必要はない、身体を傷つける必要もないと大学病院等の診療を拒否した。

 夕食の誘いもお断りして家に戻った。

 受験勉強どころではない。夜、机を前にして、何度も何度も美希さんのことを考えた、結論が出るはずもない。だけど、診療だけはしてほしい、入院して病気と闘って欲しい、それだけは間違いないと思った。

 朝方になって布団に入ったけど、目が覚めるのも早かった。三時間ぐらいしか寝なかったろう。月曜の朝、八時過ぎ、本当ならバイクで学校に向かっている時刻だ。

 電話で彼女を説得した。それから彼女の家にまで行って説得した。

 学校を休んで説得する私に、やっと彼女が入院すると言ってくれたのは十一時近かった。

 小父さんが町民病院に連絡すると、そのための個室ベッドを用意してあると言うことだった。ご両親は私が説得する側に常に居て動揺していたけど、いざ入院が決まると安堵したようだった」

「美希さんが入院すると承諾したのは、何故かしら」

「分からない。私の説得に根負けしたのかな」

 

 美希さんもあの夜は眠れなかったろう。私が想像した通り彼女は乳癌のステージⅣがどのくらいの病気なのか、何を意味するのかネットで検索していた。

 ご両親と私の前で、私は死ぬ、治療しても無意味、倦怠感や気持ちが悪くなる思いをしたくない、少しでも長く自分の今の体形を維持したい、乳房も髪の毛も失いたくない、今のままの方が良い、と言った。

 私が気持ちは分かると言えば、何が分かるって言うのと大きな声で反論した。 見たことも無い形相だった。

だけど私は、それで自分が納得出来るのか自分で良いと思えるのか、愛する家族や私のために何もしないのかと迫った。

 若いから治癒力がある。治療を頑張ろう、放射線治療も抗がん剤投与もホルモン療法も必要なら何でも受けよう、そう説得した。あの時、意外と冷静な自分が居たのが今思うと不思議だ。

 

 慌ただしく午後二時頃に入院した。私は彼女のご両親と一緒に入院に付き添った。彼女の気持ちが少し落ち着いて、私は熊谷君にメールした。午後五時過ぎで廊下の窓の外は暗闇だった。

 今、町民病院にいる。美希さんが入院した。会いたい、会えるか?。返信メールは、すぐ行く。五時二十分頃には病院に着くと思う。待合室?病室?とあった。

 誰も居ない待合室の灯りは長椅子と低いテーブルを浮き上がらせていた。外窓側に置かれたストーブにまだ火が入っていた。(しん)としたあの日の待合室の光景を何故か今も覚えている。間もなくバイクの停車する音が聞こえた。

 病院の玄関口に立った熊谷君に、こっちと言って待合室に招き入れた。二時頃に入院した。ご両親がまだ病室に居る。そう言って一両日の出来事を話した。

 私は話しながら、私は死ぬのよ、と言った彼女の言葉を思い出して涙が出た。熊谷君にはその言葉を言わなかった、言えなかった。涙を見せる私が落ち着くまで彼は暫く私の肩を抱いていた。

 あの時、私は自分の気持ちを誰かに吐露したかった。そうしないと堪えられなかった。来て呉れて有り難うと言えた。

彼女の夕食が終わったら帰るけど、ご両親と一緒に帰ったら寂しくなるだろうから時間を置いて病院を出ると言った。

そして、明日は登校する。美希さんのお父さんが学校に休学届けを出しに行くと話した。

 

「翌日の火曜日。十一月二十日だ。日記に書いてあるね。

 朝、教室に入るとすぐに京子と梨花と優子が俺の所に来た。昨日、何故休んだの?美希は?・・。そう言って俺の顔を見つめた。俺は疲れた顔をしていたかも知れない。美希は土日挟んで三日連続して休んだのだ。俺も前日休んだのだ。三人が異変を感じていても不思議はない。

 いや生徒皆が何かあったと思っていたのかも知れない。離れた机で熊谷が俺を見ていた。何か言わなければその場から三人は離れなかったろう。

 俺は、美希が昨日入院した。今日、彼女のお父さんが学校に来ると言っていたから詳しいことはその後で岩城先生が皆に伝えると思うと言った、とある」

 

 最後の授業が終われば生徒は皆、三々五々に部活に行ったり、帰路に就く。

しかし、あの日は七時限目の授業が終わって英語の細川先生が出て行くと、入れ替わりに岩城先生がすぐ教室に入ってきた。

 美希さんが町民病院に入院したと伝え、七月の時と同じようにご家族からお見舞い自粛の要請があったと生徒に告げられた。教室が一瞬ざわめいた。

 それがあって、私は毎日、学校の帰りに彼女を見舞った。ご両親も毎日病院に来ていたと思う。顔が会えば私に有り難うと言った。

 学校では、熊谷君や京子さん達から彼女は如何(どう)だった?元気にしてる?と聞かれた。病院に寄っていることを生徒仲間は知っていたし、批判する者は誰もいなかった。その都度、言葉少なに大丈夫、元気だったと応えた。

 

「家族からお見舞い自粛の要請があったことも生徒仲間に伝えられていたけど、私は毎日、学校の帰りに彼女を見舞った。

十一月二十八日、帰りに見舞いに行ったと日記にある。ご両親が先に来て居た。

 痩せたようにも見えたけど彼女の顔色に変わりは無かったとある。私はあの頃、病室に行けば第一に顔色を窺った。変化が無ければ安心する気になれた。

 四時半頃、小父さんに誘われて一階の待合室に行ったとある。あの時、小学校低学年の女の子を連れたご婦人が窓際のストーブの横の長椅子に座って暖を取っていた。 

 小父さんと私はテーブルを前にして二人の座る長椅子と反対側の壁際の長椅子に並んで座った。小父さんの指示のままに私が奥で小父さんが出入り口に近かった。

 私の右耳に小父さんは囁くように言った。入院して十日経った。美希の気分転換も必要なので、先生と話して明後日(あさって)、金曜日に一時(いちじ)退院する。

 それを聞いて、私はそれは良かった、と言った。少しは症状が改善したのだと思った。

しかし、小父さんは私から顔を背け、私の方を見たときは涙が頰を伝っていた。ご婦人が子供を連れて出て行ったのを今も覚えている。

 小父さんはあの日の午後二時頃に、主治医から彼女の回復の見込みが無いと症状がかなり進行していることを告げられたのだった。

 聞いた私は言葉が無かった。同時に体がぶるぶると震えだした。小父さんの胸に肩を抱かれた。小父さんは私の耳に囁くように、彼女の前では平静を装って呉れと言った。一緒に症状を聞いた小母さんも頑張って表に出さないようにして付き添っているのだと言った」

 

 病室に戻った私は美希さんに、一時退院が出来るって聞いた。良かったねと言った。それが精一杯だった。

 彼女の夕食が終わり、帰る段になって小父さんに廊下に誘われた。私のバイクの運転を心配して、駐輪場にPCXを置いたまま小父さんの自家用車(くるま)で一緒に帰ろうと誘ってくれた。

しかし、私は、皆が一緒に帰ると彼女が淋しくなるから後で帰ります、とお礼を言いながら心配しないで下さいと言った。