事前の打ち合わせでは、文化祭当日は熊谷君と私が展示物の説明要員を務めることになっていた。京子さんと梨花さんは茶道教室担当に、合唱とよさこいソーラン出演で展示日は手伝う時間的余裕が無かった。美希さんは体調を考慮してよさこいソーランの演舞からも説明要員からも外れていた。
しかし、あの朝、彼女は何も参加しないで文化祭を終わりたくない、今日は体調が良いから説明要員に加えてくれと、登校前に私の携帯に電話して来た。
熊谷君に会って最初にその事を伝えた。彼は前日の事もあるのに嫌な顔もせず了解し、無理しない程度に手伝って貰おうと言った。彼の優しさに心の中で感謝した。
美希さんは女子生徒の何時もの姿で、あの朝もバンダナを被っていた。
私の提案であの朝に彼女から借りてバンダナを私も熊谷君も被ることにした。その方が他の生徒との違いが分かり来場者も私達三人を管理要員か説明要員として理解してくれると思ったし、彼女をその場から特別浮き上がった存在にしたくなかった。
図書室から椅子を持ってきて彼女のために用意すると、熊谷君は俺達の分も用意しようと言った。私の意図を知って、彼女に気を使わせないようにとの彼の気配りだった。
三つの椅子は「サイカチ物語」のタイトルの貼り出しから三メートルの所と、展示物の真ん中辺り、それに写真の展示物前の三箇所、展示物と反対側になる教室の窓側に置いた。人の流れは私達の目の前を行き交う事になる。
熊谷君が一番手前、真ん中が私、美希さんに写真の方の椅子に座って貰うことにした。来場者に聞かれたら知っている範囲で応える、三人で話し合ってそう決めた。
私はガラス窓を通じて冷え込んで来る廊下の寒さ対策として自分家からホカロンを持参していた。彼女にも彼にも配った。
二十七枚の写真は、A四判一枚の用紙一つ一つの右端一行に表題を付けて真ん中に2Lの大きさ(一二七×一七八ミリ)の一葉の写真。その説明文は写真の下、又は左の余白に表題より活字のポイントを少し落として吹き出しにしていた。
(参考、文化祭二十七枚の写真の吹き出し文言)
写真は古城巡りに行ったときにそれぞれが撮ってきたものの中から選んだけど、古城巡りを印象づけるために人物の映った写真は全部カットしたと後で熊谷君に聞かされた。吹き出しは全て京子さんと梨花さん二人の文案とアイデアだった。
展示方法は机の高さより更に上に四十センチ間を置いて三段重ね、横に九列で展示文面に引き続いて窓や壁に貼り出した。三段に重ねる三枚ごとに裏面をセロテープで貼り合わせていた。全体の高さが約六十センチ、横に約二メートル七十センチと日記にある。
「展示物の前は二日間とも人だかりだったね。初日、午前九時を過ぎたばかりの頃に、まずは生徒仲間の人だかりが出来た。頼朝に所領を貰った御家人の名と所領が書いてある郡割図の資料が置かれている前だった。写真だと・・・それだね。
サイカチ物語の冒頭で葛西清重が奥州合戦で活躍し、藤原時代の後の私達の町周辺一帯は葛西清重の所領になった、清重は平泉の復興と治安の維持を図る奥州総奉行になったと展示の文面にある傍の写真だ。自分の写真技術が下手だからワイドに出来なくて二葉三葉に渡っている物もあるけど郡割図だ。
見て分かるとおり岩手県閉伊郡・佐々木行光、厨川・工藤行光、気仙郡・金為俊、宮城県本吉郡・熊谷直実、玉造郡・畠山重忠、加美郡、黒川郡・千葉頼胤、秋田県雄勝郡・小野寺道綱、由利郡・由利維平、福島県耶麻郡、河沼郡・三浦義連などとある。
律令国時代の郡名が今の現代にも残っていてしかも身近な地域で有り、生徒自身や先生、町の人達の多くに見られる工藤、佐々木、熊谷、畠山、千葉、小野寺、三浦の姓を持つ鎌倉武士の名前が貰った所領と一緒に表示されているんだ。関心が集まるのは当然だよね。
熊谷君が展示の文面に貴方の姓のルーツ、ちょっと関心が持てましたか?と書いたのは話題作りに良かった。生徒は自分の氏姓に重ねて立ち止まって話が弾んでいた」
「なるほどね。写真を見ると一目瞭然だね」
「展示の順番で行くと、次ぎに盛岡葛西氏系図からとって歴代領主の名前が初代から並んでいた。写真はそれだ。
その文面の前で、平泉藤原時代と伊達藩・伊達政宗の時代との間に葛西清重から十七代四百年も続いた葛西氏時代があったなんて知らなかったと言う声が多く聞かれた。
(参考、葛西氏歴代、(初代から十七代)一覧)
熊谷君は次に四百年飛んで、戦国時代が終わりを告げようとしていたとして天下平定を図る豊臣秀吉の動向を書いていた。
先に話した惣無事令と秀吉の小田原攻めだね。秀吉に臣下の礼を取らず惣無事令に違反して滅ぼされたのが小田原北条氏直。
伊達政宗は小田原参陣遅れと惣無事令違反から百五十万石とも百七十万石とも言われた領地を七十二万石にまで減封された。
葛西氏十七代葛西晴信も小田原参陣命令に従わなかったがために三十二万石と言われる岩手県と宮城県に跨がる葛西領を没収された。それが秀吉の奥州仕置きですと伝えていた。
ない葛西氏が奥州に進軍する秀吉軍に対抗するために出陣したという葛西氏の陣割りの記述の前でも大きな生徒の輪が出来ていた。江刺、薄衣、千厩、長坂、大原、奥玉、折壁、気仙、鱒淵、西郡など私の地元、藤沢町周辺にあった城、館と、そこから出陣した城主、館主等武将の名前が書かれていてそれが大当たりだった。


