三 いわさきちひろの絵
美希さんは翌日、金曜日も学校を休んだ。休んだ理由が何なのか分らない。授業を受けていても前日の彼女の裸身が度々思い浮かんだ。形の良い乳房が蘇った。授業にならない一日だった。
帰り途、彼女に会いたいと思った。しかし、彼女の家に寄る理由も見つけられなかった。彼女のご両親の信頼を裏切った気もして、正直、寄ることを躊躇った。
翌日の土曜日は台風並みの大雨に風だった。窓ガラスを打つ雨風の音を聞きながら朝から机に向っては見たものの何故連絡が無いんだろう、如何しているんだろうと彼女のことが気になって勉強に集中できなかった。外は荒れ狂う天気でも、何か一言、彼女の言葉が有ればそれだけで勉強に集中できたと思うけど、何の連絡もなかった。
「それから三日たった。十月二十八日、日曜日。十一時過ぎに美希から電話があったと日記にある。
あの日、彼女の誘いで、妹の明子と一緒に美希さんの家を訪問した。誘われたのは自分だけだったけど、明子が自分も行くと主張した。日記には、しょうがないから同伴を認めたと書いてある。
明子のお陰でいわさきちひろという絵本作家を知ることが出来たのだからかえって同伴した方が良かったのかも知れない。
日記には、学校新聞に掲載する美希の目標、絵本作家になるという夢を確かめただけになったとある。元々、美希さんの将来の夢は絵本作家だった。それが病気のせいか一時、将来の進路に看護師とアンケート回答していたからね」
「医者とか看護師を目指すのに親、兄弟、親類縁者、友の病気を身近に見て、あるいは自分自身が病気をして治してもらって決心したというのが多いでしょ。美希さんの迷いだったんでしょうね。その気持ち解るわ」
あの日曜日。十一時過ぎに美希さんから電話があった。昨日の大雨に農作物の被害はどうだったと聞きながら、時間が有ったら遊びに来ないかと誘ってきた。私は嬉しさを隠して、葉物野菜の出荷のために泥を洗い落とすのに時間がかかったとあの朝に父を手伝った作業を彼女に言っている。勿論、行くよと応えた。
父と母に、昼食が終わったら美希ん家に行ってくると言った。聞いていた明子がすかさず私も付いて行くと言った。
母は佐藤さん家に行くならこれを持って行けと綺麗な包装紙に包んだ箱物を寄越した。いつも貰っている物に比べたら恥ずかしいと独り言みたいに言ったけど、あの時、私は気持ちが伝われば良いよと思った。大きさと重さから中身は酒だったと思う。
表に出ると、行く手と反対方向に流れる左手の川は普段の清流が一転して泥の川になっていた。川岸の葦やユキヤナギが水嵩が引いた分、川下に向かって無残な姿で横倒しになっていた。
玄関口に出た美希さんは一緒に来てくれたの!、と言いながら笑顔を見せ、明子の両手を取った。明子がほら見なさいといった感じの顔をして私を見たのを覚えている。
居間のテーブルを前に座っていた彼女のご両親に挨拶して、母からの預かり物を出した。小父さんのお礼の言葉の後に小母さんが、コーヒー?って美希さんに確認した。彼女が後で取りに来ると言ってコーヒーを頼み、自分の部屋に明子と私を誘った。
ベッドの枕元に白いタオルが置かれていた。明子は部屋の中を見渡す事は無かった。本棚に手を出しながら、また借りて行って良い?新しく買った絵本は?と聞いた。
私は初めて本棚の絵本に注目した。背表紙には作品名と○○書店とか、△△社とか出版社の名前だけの物が多かった。絵本ってこういう作りなんだーと思いながら、やっぱり背表紙には作品名も作者名も表示されていた方が良いと思ったのを覚えている。
「絵本の背表紙は大抵、作品名と書店名だけだ、知ってる?」
「いや、知らないね。今聞いた。もっとも余り読んでもいないけどね」
「私は小学生の頃まで結構、絵本を読んだつもりよ。だけどそこまで気にしてなかった。言われてみると確かに背表紙に作者の名前って余り見なかった。作家の名前は絵と一緒に表の表紙よね」
「いわさきちひろの絵って、見たことある?」
「ええ、あるわよ。子供の顔、行動、動作を現した絵が多いよね。ぼかしが入った絵でしょ。
メルヘンを感じるし、何時か何処かで子供のころに経験した情景、確かあの頃にって感じさせる絵だと思うわ。好きな絵よ」
「どっか、駅のホームで大きな看板で見たことがあるな。広告板なんだろうけど」
「もう!、ロマンの無い言い方なんだから」
「あっ、いやゴメン。でも確かに駅のホームでだった」
あの日、彼女は明子に新しく購入した絵本は無いと応え、今度一関に行ったら本屋さんを覗いてみると言った。私が聞くと、町の本屋では余り絵本が並んでいないと言った。
ベッドに腰を下ろしていた彼女の左隣に並んで座った明子は、お姉ちゃんの好きな絵はやっぱりいわさきちひろ?と聞いた。
彼女は何冊かの絵や絵本の名を挙げて、皆可愛くて可愛くてと言った。あの時、これが女の子同士の会話なんだろうなと思いながら彼女の顔を見た。頬が前より少し細くなって見えたけど、穏やかな、晴れやかな顔をしていた。瞳がキラキラしていた。明子が付いて来て良かったと思った。
私は、座った彼女の机の前の椅子が低くて二人の前に両足を投げ出すような姿勢だった。白いタオルに目が行った。
明子の一番好きな絵は?という質問に、彼女はちょっと考えてから「水仙のある母子」と言った。キリストがマリアに抱かれている絵に重なって見える絵だと言う。
そう言うと、立って本棚の一番上の棚の一番右端から数枚の色紙大の絵を取り出した。一つ一つがセロファン紙と和紙で包装されていた。大切にしていることが分かった。
明子は手にした五枚の絵の一枚一枚を見ながら、どれにも綺麗、可愛い、と言って目を輝かせていた。
明子が見て、それから一枚一枚を私に寄越す。滲みとぼかしの技法で書かれた絵は何処か私達が小さい頃に遊んだような、母の胸に抱かれたような気がする。
その中の一枚が「水仙のある母子」の絵だった。涼やかな水仙に囲まれ母親は優しい眼差しで胸に抱いた幼子を見ている。幼子は正面から無心な目を向けていた。あの時、町にある大籠教会のマリアがキリストを抱いている像とどこか似ているなと思った。