二十二 治療
「美希さんの化学療法初日。朝から雨と日記にある。午後に彼女の病室を見舞ったとき、ご両親が付き添っていた。
そのご両親が帰った後だった。
それまで両親を心配させまいと我慢していたんだね。抗がん剤投与の後、気持ちが悪い。だるく表現しようのない倦怠感が身を捩るほど襲ってくる。もう点滴はやりたくない、抗がん剤はもう良い。泣きながら訴えたよ。
私は、点滴は六ヶ月続く。点滴をした後の感覚をそのまま先生に言った方が良い。先生が抗がん剤の分量かなんかを調整して解決方法を考えてくれると思う。そう言った。そうしか言えなかったね」
「受ける感覚は患者さんによって違うからね。抗がん剤の種類にもよるし一概に言えないけど、嘔吐がして気持ちが悪い。倦怠感が襲ってくる、と言う言葉は患者さんからよく聞く」
午前十時までに入院する、午前中に体温、血圧、体重の測定等があって午後二時からの抗がん剤投与に備えることになる、あの日、前日の学校の帰り途に聞いた彼女の言葉が授業の間、何度頭の中によみがえったろう。
あの日の彼女の病室は前と同じ二階でも個室では無かった。四人部屋の一番奥まった左隅のベッドだった。
巡らされているカーテンを覗くと、ご両親の姿が見えた。私に気づいた小父さんが無言のまま頷き丸椅子から立った。手を握っていた小母さんも私に気づいて、及川さんが来てくれたよと声を掛けた。
近づいて見た彼女は青ざめた顔をしていた。私の方を見たけど声がなかった。点滴が終わってどのくらい経っているのか小母さんと話していたら不意に彼女の足下の方のカーテンが開いた。看護師さんだった。
まだ気持ち悪い?と聞いたけど美希さんの返事はなかった。
看護師は初めてだし緊張する、慣れるまでに時間がかかるんですよと小母さんと私の方を見て言った。それからまた彼女の顔を見ながら大丈夫、大丈夫。気持ち落ち着いた?と半分励ますように言った。
そこへ主治医の佐藤先生が顔を出した。先生は隣のベッドとの空間を仕切るカーテンの狭い間を進んで彼女の左肩の側から顔を覗き込んだ。
どうかな?、気持ち悪い?と看護師と同じように聞いた。今度は首を左右に振った。応答に満足したらしい先生は、大丈夫ですね、お大事にと言い忙しなく戻って行った。間もなく看護師もカーテンを閉めて部屋から出て行った。
その後、六時に夕食が届けられたけど彼女は七時を過ぎても手を付けなかった。小母さんが何回か勧めても、まだ良いの一点張りだった。
私は、食事を摂るのを自分が確認します、先に帰って良いですよと言った。小母さんは彼女の態度に不満そうにしていたけど小父さんに促されて帰途に就いた。確か七時半を過ぎていたと思う。
ご両親が帰った後、ベッド近くに寄った。美希さんが出した右手を握ると、彼女は途端に泣きだした。我慢していた感情の何かが堰を切ったみたいだった。
私と反対側に顔を向けて、嗚咽を抑えるように左手で自分の口を押さえていた。肩が震えていた。突然なことなので驚いたし何をどうしたらいいのか戸惑った。
背中をさすっていたけど、ふと、一階の待合室が頭に浮かんだ。待合室に行こうと誘った。彼女のためにも相部屋の他の人のためにもそれが良いと思った。彼女は朝顔の浴衣に黄色い帯だった。
一階のカンファレンス室兼用の待合室の電気を点けると、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上にあの日は紫色のトルコキキョウを活けた花瓶が置かれていた。窓のカーテンは引かれていた。
一番奥にあったソフアーの長椅子に並んで座った。私の左胸に頬を寄せると、手にしたハンカチで涙をぬぐいながら抗がん剤投与の後、気持ちが悪い。だるく表現しようのない倦怠感が身を捩るほど襲ってくると言った。
話しながら思い出したのだろう、感情の高ぶりを抑えられなくなったらしく、もう点滴はやりたくない。抗がん剤はもう良い。そう言って私の胸に強く顔を押しつけて激しく泣き出した。しばらく肩を抱いているしかなかった。
そして、点滴は六ヶ月続くんだ、点滴をした後の感覚をそのまま先生に言った方が良い。先生が抗がん剤の分量かなんかを調整して解決方法を考えてくれると思う、そう言った。そうしか言えなかった。点滴に含まれているアルコール分が気持ちを悪くさせているのか外の何なのか、当時の私に分かるはずもなかった。
「その次の週、八月二十九日の水曜日から抗がん剤の投与と放射線治療のダブルだね。
送迎を小父さんがしてくれた。その夜に病院の方はどうだったと電話した。
気持ちが悪い、倦怠感が襲う、病院の方が心配して放射線治療の開始時間を変更してくれたと美希が言ったと日記にある」
「放射線治療は痛い痒いもないけど、抗がん剤投与はね・・・。美希さんの感覚は正常よ」
山口君が語る百合さんを見ながら頷いた。
八月二十九日水曜日。一日中雨の前日に変わって良い天気とある。美希さんが二回目の抗がん剤投与の点滴を受けて、その後に放射線治療を受ける初めての日だった。
五時限目の授業が終わって早退手続きをした彼女が昇降口に回ると、京子さんや梨花さん等何人かが見送りに出た。元気出してとか頑張ってとか、ファイトと口にしていた。そのことも日記に書いてある。
あの頃はもう、水曜日は彼女が抗がん剤の点滴投与を受ける日であり、ニ、三時間掛かるとクラスの皆が知っていた。
その夜に私は病院の方はどうだったと電話している。彼女は点滴の後やはり気持ちが悪くなったと言った。倦怠感がまた襲ってきた、病院の方が心配して放射線の照射開始を四時五十分からに変更したと言った。そして、美希の事心配してくれて有り難うと言った。
クラスの皆も心配しているんだと言うと、皆、心配してくれて優しくって、感謝だね、そう言って声が途切れた。
思わず大丈夫か?って声を掛けた。心配しないで、ちゃんと勉強して。美希のために受験に失敗した何てイヤだからね。美希のためにも頑張って、美希のために一杯時間を無駄にさせてゴメンネと返ってきた。
無駄な時間なんて無い。一つ一つ美希との大切な時間なんだ。これからバリバリ勉強するよと言った。
お休みなさいと言って彼女は携帯を切ったけど、皆が心配してくれて優しくてと言った涙声が耳に残った。日記を見ながら、当時のことが思い出される。