「大谷海岸の海に遊んだ時だった。海水浴だ。あの砂浜に寝転んで一人で荷物当番をしていた私の所に戻ってきた美希さんは、やっぱり怖いから膝から下だけ海に入ってきたと言った。
一月前の手術の傷口はふさがっていても、父が大丈夫だと言っていたと熊谷君が伝えても彼女は恐怖心を拭い切れないでいた」
「それで良い。私達医者の目からしたら、まだ一か月だろ、海に入らない方が良いね。雑菌が怖い」
「何も知らないってことは恐ろしくもある。あの夏に雑菌が如何のと、思いもしなかったよ。それよりも、自然の恐ろしさを後でまざまざと知ることになった。
あの日、大谷海岸の浜辺に五人が揃ったところで、熊谷君があと十五分ぐらいしたらここを引き上げると言った。梨花さんが、えーっ、て不満の声を上げたね。
その後で彼女は、また何時か来よう、車で私達の町から一時間もしないで来られる。海は綺麗だし松林は景色が良い、砂浜は広くて遠浅だし駅は近い、この砂浜絶対無くなって欲しくないと言った。
熊谷君が笑いながら、海も砂浜も勝手にどっかに歩いて行かないよ。無くならないよと言い、私も京子さんも美希さんも笑いながら頷いた。その後のビーチバレーに興じた嬌声と躍動の光景を今も良く覚えている。アルバムのどこかに写真も有るはずだ。
それが四年後の三月に起きたあの東日本大震災だ。日本一海に近い駅舎も松原も砂浜も、遠浅の海も今は消えてしまった。
目の前のアルバムに残っている写真の光景は二度と戻ってこない」
「えっ、そうなの?」
百合さんが、アルバムから顔を上げて私の顔を見る。
「地盤沈下?」
山口君が事実を言葉にした。
「そう、あの震災で大谷海岸一帯は地盤が沈下した。海が陸地に近づいた。
マンボウが飼われていた水族館も日本一海水浴場に近い駅と謳われていたツートンカラーの駅舎も津波で無くなった。
あの災害は私が大学二年を終わる三月に起きた。
医者のイロハ、まだ学ぶことだけに集中していて心に余裕が無かったね。生家に安否と被害を確認する電話を入れたけど被災地の何処かにボランテイァに行きもしなかった。今思うと恥ずかしい。
電話で父の伝える言葉に驚くばかりだった。私の生家から宮城県になるけど海沿いの津谷川にも大谷にも自家用車で三十分程で行ける距離だ。前にも話したけど青物を出荷するほどの農業もやり、油、洗剤等の日用雑貨から生鮮食品の販売もしていた。都会のスーパーとは比較にならないけど、魚も販売をしていたから、父は卸をしていた人達の安否が気になって当然だった。
電話の父は被災地の状況を目の当たりにしてその悲惨さを口に出来ないと言った。町が消えていた。多くの人が亡くなっていた。呆然と立ち尽くすしかなかったと言った。
自然の中で一番損なわれたのは遠浅の砂浜も松原も無くなった大谷海岸ではないかとも言った。
三年たって父が復興状況を見に行ったとき、新しく作られた道の駅の建物の横に『鎮魂、あの日を忘れない』と横書きにした板と小さなお地蔵さんが海をバックにテーブルの上に置かれていたと言った。
被災の状況が思い出されて、合掌しながら涙が流れて仕方が無かったと言ったね。復興に立つ人々に本当に頭が下がると言った。
今度、熊谷君の田舎での結婚式のため八年ぶりに生家に帰る。自家用車で太平洋側の海沿いに出て幾つかの町の復興の状況を確認して来ようと思っている」
「熊谷さんの結婚式は何時なの?」
「六月の二十四日、土曜日だ」
「ジューンブライドね」
「碁石海岸でのキャンプ、翌朝の海に上る日の出の参拝、思い出に残る光景はまた何時か話すよ。三枚目だね。
三日目は内陸に戻って東北道をツーリングする計画だった。走行距離が約百八十二、三キロ、時速四十キロにしても約五時間の運転になる。
日程表に出発、碁石海岸キャンプ場午前九時と有るけど、実際は出発が一時間以上も早くなった。キャンプ地からニ、三キロも離れたところにあった写真スポットの穴通磯を見学できたのも現地に行っての熊谷君の判断と発案だった。
穴通磯をバックにみんなで撮った写真も有るハズだよ・・・・。そう、そのM字型の小島だ。中を遊覧船が潜り抜ける。
藤原の郷に行った時にも彼の事前調査に驚かされた。
あの郷に模造の城柵は三つあった。それぞれ離れた所にあってパンフレットには時代によって城柵の作り方が違うとあった。しかし、私達には敵の侵入を防ぐための木柵と楼門、櫓門、物見所等で城柵は造られていると分かったけど、形や大きさの違いの外に何が如何違っているのか分からなかったね。
彼は伊治城と言ったかな?、宮城県の栗原郡にあった伊治城は八世紀から九世紀初頭に作られた柵で、古代の律令国家が支配権拡大のために蝦夷地対策として作った官権の柵だと言う。
それに対して岩手県一関市の川崎の柵と盛岡の厨川の柵は十世紀から十一世紀に作られた柵で、逆に律令国家の支配権拡大を防ぐために蝦夷の安倍一族が作った柵だと語った。
岩城先生に聞かせていただいた以上に彼は調べていた。感心したね。日記には柵の名前の記録と、熊谷の事前調査に驚いたと記録してある」