山越えになる七曲峠から宮城県側に入って米川町のカトリック教会を見学した。生まれ故郷の藤沢町で発見されたという隠れキリシタンの遺物も展示されていたのでそれを見た。教会の中にあったマリア像と宗門改帳が印象に残っているね。
次に行った佐沼城址は小高い森の中で公園になっていた。駐車場の道路に面した所に佐沼城復元絵図が掲げられていた。
本丸を三重の水堀が囲む城だった。現地を歩いて、今も流れる迫川と水田や沼沢地から自然の要害を利用して堅固な城だったと思えた。
葛西晴信が秀吉の上方軍と戦いの陣を構えたときに本陣としたというのも、また葛西大崎一揆勃発で窮地に立たされた領主木村親子が立て籠もって蒲生氏郷、伊達政宗の救出を待ったというのも頷けた。
ただ、行った日が月曜日だったからね。公園内にあった登米市歴史博物館が休館だった。京子さんに、月曜日って休館が多い、行く先々、皆ダメなんてことないでしょうねと言われた。私と熊谷君の調査不足だったね。
京子さんが何事も気を抜かず先々の事も考える、調べる、それって必要よと言った。その時は何とも思わなかったけど、彼女が今、看護師になって働いている。なるほどねと思うところがあるね。
その後、葛西氏宗家の居城だったという寺池城址に行ったけど、それを思わせるものは石垣の一部があるだけで他に何もなかった。
ただ、寺池には旧登米(高等)尋常小学校校舎とか、水沢県庁とか、旧登米警察署庁舎とか明治時代の建築物で重要文化財になっている物があると熊谷君と事前にネットで調べていたからそれらを見学した。寺池に向かう道沿いに「ようこそ宮城の明治村へ」の横断幕があったね。
昼食は寺池の町のラーメン屋だった。それから神取、和渕の古戦場だったらしい所を通過した。めぼしいものは何もなかった。
佳景山駅に着いてバイクを駅前に置いて須江山に向かった。登り口が分からなくてまごまごした。葛西氏配下の城主、館主と重臣達の終焉の場となったのが須江山だ。
駅から歩いて三、四百メートルぐらい行ったところに大槻但馬守平泰常殞命地とある石碑と、「殿入沢跡」と古ぼけた白い標柱があった。
(参考、殿入沢跡の標柱、大槻但馬守平泰常殞命地碑)
石碑の建立者に大槻文彦と有るのに驚いたよ。国語学者で日本初の国語辞典「言海」を編纂した博士だ。石碑の文面から須江山で憤死した祖先が居たのだと分かったね。
その石碑と標柱のある道路際から畑の中の十五、六メートル奥まったところに桑島さんの家があった。葛西一族関係の人々の魂を弔ってきたというのが桑島家だ。
長屋門を今に残す立派な家屋敷だったね。玄関のチャイムを押すと、すぐに五十過ぎだろう年配の小父さんが顔を出した。
挨拶をして、熊谷君が葛西晴信関連で古城巡りをしていると伝えると、あんた達見たいに若い人が葛西一族を知ろうとしてくれるなんて嬉しい、と歓迎してくれた。そして、玄関口から表に丸椅子を取り出し、手際よく輪状に六個並べて座りなさいと指示した。
桑島さんは、かつてはこうして話すこともあったけど今は来てくれる人も居なくなってねと言いながら、須江山での葛西一族の悲劇を語った。途中、講談調になったりして面白くもあり、聞かせる話術だったね。
そうか、思い出しながらちょっと真似てみるよ。覚えているかな?出来るかな?。
時は天正十九年、一五九一年八月、桃生郡深谷の庄、今の宮城県東松島にある小野城。そこは伊達政宗の家臣・長江播磨守入道月鑑斎の居城だった。そこに、関白豊臣秀次に取りなし所領を安堵するからとの政宗のお触れを信じて葛西一族の旧城主・館主達が集まって来た。
小野城で政宗の饗応を受けた殿様達は人数も多いし従者も連れている。そこで政宗は、近くの深谷の庄、須江山に勾配の緩い広地があるのでそこに移って各々吉報を待てと言う。皆がそこに移って吉報はまだかと待って四日。運命の日、八月十四日未の刻、今の午後の二時頃だね、とそこで桑島さんの注釈が入った。
騎馬武者や鉄砲隊、槍隊、弓矢隊に徒士、かなりの数の軍兵が東浜街道をやってくるのが須江山から見えた。集まった旧城主・館主は馬印、旗差し物から政宗の家臣である泉田安芸率いる軍兵であると分る。泉田安芸は伊達家中の中でも百戦錬磨の猛将と言われた人物だ、とまた桑島さんの注釈が入った。
葛西の殿様達は伊達の軍団の頼もしさを思う反面、疑問が湧いた。軍兵が続々と続く南側の東浜街道から、突然、泉田安芸の大音響の声が響いた。
『主君、我らが政宗公は各々方の旧領安堵と助命について関白秀次様に専心嘆願に及び候えども、関白様のお目見え宜しからず、一揆の統領は一人残らずはた物に及ぶべしと仰せ付けに御座った。よって今は之までに相成り申した。政宗公に代わり各々方のお命、頂戴仕り申―す。』こんな感じだったと思う」
「ヘーッ。上手ね」
「ハハハ、でも中身は深刻だよね。はた物とは、はりつけ、討伐の事だ」
「及川君にこういう特技があるとはね」
「あの時、桑島さんは、泉田が言い終わると同時に法螺貝が山野に響き渡り、それを合図に後ろ手に回った軍兵と正面からの軍兵が一斉に葛西の殿様達に襲いかかったと語った。
殺された者の中に桑島さんのご先祖も居たのだそうだ。葛西氏に縁故のある者として桑島家は約四百年この地で非業の死を遂げた人々の霊魂を弔ってきたと語った。政宗の謀略が有ったと分かっていても、伊達の領地となって尚更に憤死した葛西氏ゆかりの人々を表だって鎮魂することは出来ない。桑島家のご先祖様は氏神様を祀る祠をお墓の代わりにしたと語った。
その後で私達を氏神様の祠と殿入沢のある所に案内して呉れた。桑島さん家の庭を外れ、僅か十メートル程山際に行った所に一段高くなった四、五坪程の平地があった。その左側が山から続く窪みで水嵩のない小川がちょろちょろ流れていた。
皆さんが立つここが自陣の場であり殿入沢ですと言われて驚いたよ。庭に続く私有地だよ。足を踏み入れた所が自刃の場だと聞いて思わず足下の地面を見た。雑草が生えているだけだった。
そして僅か十メートルばかり離れて繁る杉と雑木の林が続く目の前の山が須江山だと言った。その急斜面に僅か五、六十センチ幅の階段が一直線に二、三十段あった。その先の上の木立の中に祠が見えた。私達は階段と祠に向かって、並んで手を合せ、礼をした」
「祠のあるところまで、上らなかったの?」
「うん、見た目にも急勾配だったからね。女性軍の事を考えて上らなかった」
須江山の登り口も屋敷の私有地の奥からだった。外にも登り口はあるのだろうけど桑島さんは目の前の杉と雑木の林の中を上って行くと言った。頂上までの道はここ数年手入れが十分でないから細い道が藪になっている所もあるし、笹で手を切ることもある、登るのは止めたらどうかと忠告をいただいた。
しかし、藪になっていても頂上までの道は続いていると聞いて予定通り登ることにした。往復三十分も見ればと言うことだった。意外と近いんだなと思った。
また縁があったらお会いしましょうと丁寧な言葉をいただき、私達はありがとうございますと揃ってお礼を述べた。

