あの時、私は藤沢地区のテントに行った。そこが熊谷君との待ち合わせの場所だった。彼の家でキャンプの打ち合わせをしたのは八月二日と七日の日の午前と日記にある。
それで出来上がった古城めぐりの日程表を二人で最終確認をして、問題がなければそれをよさこいソーランの演舞が終わった後の梨花さん、京子さん、美希さんに配ることになっていた。
夏休み中だったからあの日のあの時間しか皆が揃って打ち合わせをする時間が取れなかった。それに、熊谷君との二回目の打ち合わせの時に初めて梨花さんもキャンプに参加すると聞いた。
京子さんが梨花さんを誘って、連絡を受けた熊谷君が梨花さんにツーリング、古城巡りだよと説明して、連れてってとなったのだと言う。私は町の中に家がある梨花さんが普段からバイクを乗り回しているとは知らなかった。
熊谷君は藤沢地区の焼き窯の一つに取りついて藁を燃やしていた。私に気づき、やあ、と言ったけど手元を休めなかった。私は本格的な窯焼きの火が入る前の窯を身近に見るのは初めてだった。窯と言うから一般の人は洞穴式をイメージすると思うが、縄文時代はそうではなかったらしい。
野焼きの窯は屋根無しの窯だ。熊谷君の説明だと確か窯は底地が五十センチ程盛り上げられていて、作品を並べる空間が深さ約六、七十センチで幅約三メートル、長さ約七メートルだったと思う。窯の土手の四隅と中央部の左右には十センチぐらいの空気穴が切られていたのを覚えている。
彼は大きい窯の方の藁を焚きながら、窯入れと言って小さい方の窯に作品を並べるのを手伝っていた。並べるのにもコツがあるらしくて、作品を良く焼き上げるために底地への接着部分を少なくするのが良いと言っていた。窯の中を覗くと先に焚かれた藁が窯の底地に灰となって一杯に敷き詰められていた。
後で藁を焼いて作品の上にも藁灰が五センチから十センチ積もるようにするのだと言った。灰が出品作品のひび割れを防ぎ本格的に燃え出すバタ材の炎との間のクッションの役目を果たすという説明に、なる程と思った。
手伝えることがあるかと聞いたら、その前に整理した日程表を先に見てくれと言った。テントの中に戻ってリュックサックから取り出された三枚の日程表は、私と美希さんとで選んだキャンプ地はそのままだけど、日程と順路は変更されていた。
古城巡りの三日間は八月十三、四、五日になった。事前に連絡があってOKした事だった。また一関方面に出てそこから大船渡線沿線の古城巡りで気仙の方に行く、二日目に石巻方面に行くと想定した順路は逆回りになった。
行って見たい古城を何処にするかを熊谷君と先に話し合って決め、市販の分県地図で通る道路、国道か県道か等を確認し走行距離と所要時間を推定した。それに見学時間や昼食時間等の配分を考えて順路を変更した。
二泊三日の一日ごとに行き先と見学先が太字で現わされ綺麗にまとめられていた。あの野焼き祭りの会場では、さっと見てこれで良いと言った。
(参考、古城巡り(ツーリング)行程表1~3。前回の投稿)
「ね。野焼き祭り、どんな感じなのか。良かったら聞かせてくれる?」
百合さんが、見ていたアルバムを手にしていた。
「ああ、良いよ。時間もあるしね。冊子のプログラムに有るけど、あの日、野焼きの窯への火入れの儀式は午後六時から予定されていた。
イベントは午後六時半からとなっていた。梨花さん、京子さん、美希さん達が出演する藤沢高校よさこいソーランの演舞は二日町祭神太鼓の後、五番目に午後八時半から予定されていた。
六時ちょっと前だったね。布丈が足下まである袖口の広い赤色地か黄色地の布地を身に纏った四、五十人の男女が特設舞台と本部のテントの間から出てきた。前の方にも背中の方にもシャネルのマークのような模様が太く黒く上下に二つ重なっている。炎の字を具象化して染め抜いたものだと後で熊谷君に教えられた。
写真だと・・・今見ているそれだ。赤色地の布を纏った者は赤と黒の太紐を、黄色地の布を纏った者は黄と黒の太紐をねじりハチマキにしたり腰の辺りに巻いて帯にしていた。彼等は会場の中央に積み上げられた六角井桁の櫓を取り囲んだ。写真は・・・、それだね。
そして次のアナウンス紹介で麻のカマスで出来た着物を身に纏い、腰をわら縄で絞め縄文人に扮した中学生が十五、六人出てきた。六時を合図に二人一組になって彼らの火起こしが六角井桁の前で始まった。うん。その写真。
一人が動かないように凹みのある火きり板を抑え、もう一人が火きり棒をその中で懸命に回転させる。次の写真だね。赤色地と黄色地の縄文人はその周りである者は立ったまま、ある者は跪き胸の前に両手を合せて祈りを捧げていた。私は例年、祭りの参加は途中からだったから現代縄文人も火おこしも初めて見る光景だった。
五分も経たず会場中央で一筋の煙が立つと、見物客から拍手が沸いた。いつの間にか祈りを捧げる縄文人を取り囲む見物人の輪は二重、三重になっていた。
二本、三本と現代縄文人の手元から立ち上る紫煙の数が増えていく。私と熊谷君の居た所からも現代縄文人の手から薄い板木に火が移されたのが分かった。歓声とともに一段と大きな拍手があちこちから沸き上がった。
その火が中央の六角井桁の櫓に積まれた藁とバタ材に移されると更に大きな歓声と拍手だったね。縄文の炎と呼ばれる巨大な櫓に火が入った瞬間だった。写真はそれだ。まだ周りが明るいね。
縄文の炎は故人となった彫刻家の岡本太郎さんの命名だと聞いている。ネットで検索すれば岩手県藤沢町野焼祭りのホームページが出てくるよ。祭りの情景と歴史が分かる」
「後で、及川君のパソコン借りて見てみる。話がまだ続くものね」