十九 藤沢野焼き祭り

「八月十一日、土曜日。藤沢野焼き祭り。三十五度の猛暑日。朝起きたら部屋から見える空は雲一つ無かった。町全体が朝からざわついている感じだったと日記に書いてるね。

 その野焼き祭りのPR冊子だけど、確かそのアルバムの後ろに挟んである。一年で町一番の行事だ」

「綺麗な冊子」

百合さんが手にしてページをめくる。山口君が覗き込んだ。

「そのページの、二、三枚目かな?。そう、それが藤沢野焼き祭会場の絵図だ。

 会場に入ってすぐ右側に消防団の詰め所だね。反対側の左側には少し離れて売店ブースが軒を連ねる。その先の弧を描いた所にイベント用の特設舞台が設けられていた。そこが梨花さん、京子さん達よさこいソーラン部が踊りを披露する場所だ。

あの日も舞台の左右には鉄パイプで組まれた櫓があり音響装置や照明機材が据え付けられていた。

 グランドの真ん中に「縄文の炎」ってあるだろ。そこには太さ約二十センチ、長さ約三メートルもある木材が六角井桁に十段ほどの高さに積み上げられる。

 井桁の中には製材の際に出るバタ材と呼ばれる材木の切れ端が小山のように積まれる。後で、火が入ってボンボン燃やされるんだ。

 それをコの字型に取り囲むようにして七,八メートル離れた所に各自治区の窯が十数基造られる。窯を目の前にして各自治区のテントがその外側に張られる」

(参考、縄文の炎・藤沢野焼き祭)

「会場は、いつもこんな感じ?」

「そう、毎年、大体同じだね」

「江戸とか明治とか、昔から行われている行事なの?」

「いや、確か昭和五十一年からだったと思う、考古学の塩野半十郎さんという先生が町の本郷地区の縄文遺跡を調査していて、そこの住民の何人かを指揮して縄文の野焼きを再現して土器類を作った、それがキッカケで町おこしの一環で大規模に行われるようになったと聞いている。

 まだ四十四、五年の歴史ということになるのかな?」

「何処に特徴があるのかしら」

「うん、縄文焼きとある通り、粘土を()ねたままなんだ。釉薬(ゆうやく)の使用は認められない。

 町の人は勿論、町以外からでも、誰でも出品出来る。縄文土器風から現代作品まで町民等の思いのこもった作品、千数百点の作品が十数基の窯を使って一晩で焼き上げられる。

 出来上がった作品に付着した(すす)が何とも言えない素朴さを感じさせる。まさに縄文時代の物を思い起こさせるね。

故人となったけど、かつては彫刻家の岡本太郎さん、池田満寿夫さんもこの祭りの特別審査員等として参加していたんだ。

 岡本太郎さんの「縄文人」という作品。高さ一メートル五、六十センチ、重さ四百二十キロもある。それが町に寄贈されて野焼き祭り会場近くの文化センターの前庭に常時展示されている」

「それはちょっと行って見たいね」

「うん。また一つ約束が増えるわね。時期が来たら及川君、案内してよ」

「開催が例年通りだと、今は、野焼き祭りは八月の第二土曜、日曜だね。それぞれ勤務の事情があるから時期が来たら相談するよ。話を戻して良いかな?」

「ええ」、「うん」

「あの会場が夜、京子さん、美希さん達がよさこいソーランを披露する場所だった。

演舞は二日町祭り陣太鼓の後、五番目に午後八時半から予定されていた。それが終わった後に彼女達三人とツーリング、キャンプの日程について話し合う予定だった。

 夏休み中だったからね。行く予定の皆が揃う。二泊三日の日程表の事前の打ち合わせをするのにも、あの時、あの場所がちょうど都合が良かった。

熊谷君に私、京子さんに美希さんの予定だったけど、京子さんがソーラン部の仲間、部長を務めていた梨花さんを誘っていて五人で行くことになっていた。

あの時の日程表をアルバムの後ろに挟んである。それが・・、それ、それだ」

ホチキスで右上の端を閉じている三枚の日程表を百合さんが探し当てた。山口君との目の前に置いたけど、直ぐに山口君が手に取って見始めた。

「なるほど、二泊三日の一日ごとに行き先と見学先、進む距離、所要時間か、作り方からして分かり易いね」

(参考:」ツーリング行程表)

     

 

 

 八月一日。あの日に美希さんを祭り会場に送迎するのは小父さん達の役目だった。私は熊谷君と約束した午後四時ちょっと前には特設会場となっている藤沢中学校のグランドに着いた。中学校は街並みが途切れる赤坂神社前から左に曲がって三百メートル程しか離れていない。隣の千厩町に抜けるバス通りの国道四百五十六号線の右側道路沿いにある。 

 会場入口側の道路には「第三十二回藤沢野焼き祭会場」と大きな立看があった。その右側の空き地に消防車が一台停められていたのを覚えている。私は会場入口付近で配る人の渡すままに縄文の炎と表紙に書かれたあの年のPR冊子を受け取った。

会場入口の右回りに消防団の詰め所に続いて黄海、藤沢、大籠、保呂羽の各地区のテントが有り、左回りに徳田と新沼地区のテントと売店が並んでいた。自治区のテントとテントとの間には障害者施設や藤沢病院、生徒の出品作品や参加者の多い藤沢中学校など団体のテントも設営されていた。

出品作品の多い自治区は窯の数もテントの数も複数になっている。あの年は会場入口とちょうど反対側の正面に町の外から作品を出品した人達のための窯とテントが有り、その横に来賓、審査員等のゲストに当てられたテントと祭り実行委員会本部のテントが並んでいた。

 

(付録:この小説は4年前の作品です。今では、コロナ、コロナの後に祭りが再開され、高校生の作品を募集、表彰する「熱陶甲子園 IN FUJISWAWA」が開催されるようになっております。関心のある方はインターネット等で調べてね。)