ヘルメットを脱いで縁側に腰掛けると、横に立ったまま何か飲む?と聞いた。いや、それより先生も熊谷も京子も心配してたぞ。病院はなんだった?と聞いた。
彼女はそれにはすぐに応えず、障子を開けて座敷から座布団を二枚持ってきた。一枚を尻に敷いて座り直したけど、右横に座った彼女の膝小僧が気になった」
「フフフ、及川君もそんな言い方をすることってあるんだ」
「青春。思春期、当時十八(歳)だよ。なア」
「美希さんは五日前に初めて町民病院に行って、次の診察日に都合の良い日は何時かって先生に聞かれて、学校があるって言ったら、医療相談ってことにして日曜日でも良いですよって言われたと語った。
お母さんかどなたか一緒が良いって言われて、お母さんと一緒に行く約束をしていたのだと言う。
しかし、あの日の朝方、お母さんのお姉さん、伯母さんが危篤だと連絡があって両親が隣町(米川町)に急に出かけたのだと言う。
心配する両親に医療相談だから一人でも大丈夫と言ったけど、二人が出かけた後、不安になったから私に電話したと語った。一緒に町まで出られたから良かったと言った。
病院では先生がレントゲン写真を机の上のパソコンに広げていた。母が来られなくなった事情を言い、彼女一人と確認すると、明日にしましょうって言ったのだそうだ。それで病院からお母さんに電話して、翌日の月曜日に改めて町民病院に行くことになったと言った。
彼女の顔色は良かったけど、あの時、私は何か分らない不安を感じたね。
彼女は話題を変えるように岩城先生の話ってどうだった。葛西一族の話って面白かったか?と聞いた。頭の中で変なことを想像していてすぐに応える言葉が出なかった。
医療相談はすぐ終わったのか?と聞いたけど、なぜ先生の家に来なかったのかと聞けなかった。
彼女は明日の九時半の外来予約になった。医療相談はすぐ終わったけど本当に体調が良くないし、すぐに連絡を入れる気持ちにならなかった、ごめんなさいと言った。
家に帰って少し横になって休んで、それから電話を呉れたのだった」
あの時、彼女は急に、上がってと言って私の右腕を引っ張った。戸惑いながら靴を脱いで縁側の廊下に立つと、私の手を引いて行く。座敷を右に鍵型に巻いた廊下を通って行った左側に美希さんの部屋が有った。
ドアを閉めた彼女がいきなり私の胸に飛び込んできた。怖いと言った。私は肩に手を掛けた方が良いのかどうしたら良いのか分らなかった。
ワイシャツの私の背中に手を回して縋り付き、怖いとまた言った。
病院の検査結果か?とかろうじて口にしたけど声がかすれた。だけど、それだけの言葉でも少し自分を取り戻した。
彼女の小さな肩を両手で抱いて、何が大丈夫なのか自分でも分らないけど、大丈夫、そう言って元気づけるしかなかった。急に泣き出した。肩をふるわせ嗚咽を抑えるように私の胸に顔を押しつけてきた。
胸が急にドキドキしてきた。背中にまわった手の感触、押しつけられた顔、胸の膨らみを私は全身で感じだした。
彼女も私の胸の鼓動に気づいていたと思う。顔を覗くと涙が頬を伝っていた。
大丈夫、もう一度そう言うと背中に回した手に力を込めた。彼女が右の頬を私の胸に付けたまま顔を上に向けた。
頬に流れた涙に唇を持っていくとそのまま彼女の口を吸った。私と美希さんの初めてのキスだった。
「美希さん家と私の生家は三百メートルぐらい離れている。その間に二軒の農家が彼女の家と同じように県道から離れて畑の間に点在している。
JAの農産物集荷所の近くにある私の家の周りも、離れて父の弟夫婦の家と外に二軒の家が県道沿いにあるだけだ。在も在だね。在って解る?町から遠く離れた集落、それだけ田舎ってことだ。
私の父は雑貨屋を営みながら農業も手広くやっていた。雑木林の山の斜面を使って椎茸栽培、開墾した平坦地でりんご園、肥えた昔からの畑では小松菜やホウレン草、曲がりネギなど季節の葉物野菜を出荷する程に作付けしていた。
生活雑貨品販売の部分を除けば、彼女の家も同じようなことで生計を立てていた。それだけに作物に関する情報交換やJAの集荷所等を通じて親同士がよく知っている仲だった。遠く離れていても私の家と彼女ん家は在ではご近所様の関係だね。
あの時、明日、どんな検査結果の説明があろうと必ず教えろよ、俺が付いている、そう言ったけど、その励ます言葉以外に私に出来ることはなかった。
家に帰ると、二階の自分の部屋に直行したよ。彼女は血液検査を行い胸部レントゲンを撮ったと言った。机にパソコンを載せて乳癌を検索した。
初期症状、治療の考え方、病気のステージ、みな初めて見る文面と画像だったね。読んでも解らないことが多かった。今ならともかく、高校生のあの時に解るはずもないよね。
三十代、四十代の乳癌患者が増えているとあったけど患者は五十代以降が多いとあった。生理が始まって閉経までの期間が長いほど乳癌にかかる率が高いとあった。
それを見て美希さんは大丈夫だ、心配した乳癌ではなさそうだと思った。
ただ病院の先生がご家族の付き添いがあって説明したいと言うのだから彼女が心配するのは当然だったし、私も何かあると思ったのは確かだ」
検索を終わってボンヤリと机に向かって座っていたら京子さんからの電話だった。美希さんを心配しての電話だった。
明日学校があるから明日分るよと応え、彼女の家に寄ったことも、少し前まで一緒に居たことも言わなかった。美希は(学校に)明日元気に来るよねと言って京子さんの電話は切れた。
電話を切ると美希さんの顔がすぐに頭に浮かんだ。彼女を女性として意識したのはあの時が初めてだった。幼なじみで好きな友達としての美希さんはあの朝までだった。机を前に彼女を思い浮かべながら、初めて心の中で愛してるってつぶやいた。
「今聞いていても、告知の方法って難しいと思うなァ。
次の診療日にはどなたか御家族の方同伴で来て下さいと告げることも多いけど、それまでの期間、患者さんを不安にさせるからね。かといって、一人で来られた方に病気を告知して、帰宅途中に早まって自殺した患者さんも居るからね。
医者を信じること、治療を頑張りましょうとしか、言えないなー」