九 伊達政宗の謀略4
「政宗が体制を整えて葛西・大崎一揆鎮圧に乗り出したのが天正十九年の六月下旬。
これも箇条書きにしてある。
・豊臣秀次、徳川家康等が政宗の支援に向かう。合流する。
・伊達軍と一揆軍との最大の激戦地は佐沼城。
・夜に佐沼城を抜け出た大将・千葉信胤と千葉重信兄弟殺さる、西郡
・伊達成実日記、城中に籠る家来、家族、民百姓三千人余殺した。城中、死骸多く土の色も見えずと書き記す。
・佐沼城落城、七月三日。
とある。
最期の戦いとなったのが佐沼城だ。今の宮城県登米市になる。あの時、先生は古文書には城の周りを川が流れ、一方は深田、一方は大海のごとき大沼・・誠に堅固な要害なりとある、今も佐沼城の傍を迫川が流れ本丸址の側に池の一部が残り土塁に続いて城を囲む外堀が見られると語った。
実際、後で私達は古城巡りで現地に行ったけど、先生の言う通りだったね。
(参考、佐沼城復元絵図)
政宗は、伊達の旗指物も翻る佐沼城に証拠隠しも兼ねて容赦ない攻撃を開始した。佐沼城を徹底して攻め破れば他の城や館、地域に籠もる一揆勢も退散する、雲散霧消するだろうと見せしめの意味もあって容赦なかったらしい。
一揆軍を疲れさせるために夜も攻めかかり眠らせなかったと先生の語りだった。古文書には七月三日の夕方に佐沼城は落城したとあるのだそうだ。
政宗の重臣伊達成実、彼は伊達家一の武闘派でありながら筆まめな武将だったと言う。彼の日記である成実記には、夜に城を抜け出た大将・千葉信胤と千葉重信兄弟を葛西領の西郡というところで捕まえ殺したとある。そう言って先生は一呼吸置いた。
城中、家中百姓ども二、三千余討ち果たし候と有るから侍百姓を問わず、また女、子供、老若を問わず二、三千人殺したことになる。泣き叫ぶ声が佐沼城に響き渡っただろうと語り、死骸多く土の色も見えず気を遣って歩く有様だったと日記にある。そういう先生の説明に京子さんが、えーっ、と声を出した。
ブログの記事で熊谷君も私も成実記のその辺りの記述を知ってはいたけど、先生の口から改めて話を聞くと、本当に凄い数だなと思ったね。凄惨な場面が想像された。後世に伊達のナデ斬りと言われているのがこの場面だ。
政宗の目論見通り一揆側の各拠点に籠もっていた人々は凄まじい佐沼城の殺戮を耳にして次々と退散、消えていったと言う。政宗の第四の謀略の話はそのすぐ後だった」
「政宗の謀略はまだまだ続くの?」
「いや、これで最後だ。第四の謀略は旧葛西氏の家臣達を本領安堵の甘言で誘い、一カ所に集めてナデ斬りにした事だった。
それを聞いて京子さんが、まだナデ斬りがあるんですか?と驚きの声を上げた。
熊谷君が横から須江山の惨劇だと言った。頷いた先生は政宗の残党狩りだと言った。
政宗は、旧葛西・大崎領を確実に自分の物にしないと没収された伊達郡や信夫郡等を所領としていた家臣達に与える土地が無い。しかも肥沃な土地から痩せた土地に移る。
先祖伝来の土地から知らない土地に移る家臣達の不満を抑えなければ成らない。新天地が不穏渦巻く土地ではなおのことダメだった。政宗は必死だったと言う。
政宗は佐沼城を陥落させた後、葛西・大崎一揆に参加した者や地域に隠れていた旧葛西氏の家臣、惣領等に処罰は問わない、降伏すれば所領を安堵するから出て来なさいとお触れを出した。
当初の一揆勢には伊達の旗指物も翻っていたのだ。佐沼城の戦いを味わった者、それを伝え聞いた者達にとってその呼びかけに一縷の望みを託すのは当然だったと思うね。降伏してきた者の中には葛西時代から政宗と内通していた者もいたと言う。
政宗は今の宮城県にあった桃生郡深谷荘の須江山で吉報を待てと言う。言われた彼等は須江山で従者と共に思い思いに陣幕を張り、幟を立てて待ったらしい。
しかし、運命の八月十四日。伊達の旗差し物を掲げた一団が東浜街道を進んで来るのが見えると須江山は騒然となったらしい。
日記には八月十四日、須江山。伊達軍による葛西軍の武将討伐とある。
近づいてくるのは鉄砲、槍、弓等を担いだ武装集団だった。どう見ても自分達に伝令するだけの姿形ではなかったろうと先生は言った。
待っている彼等に伊達軍が襲いかかった。有無を云わせずに皆殺しにした。それが今でも地元の人達に伝わる須江山の惨劇だね。
先生は、成実記には関白秀次が枝葉までも枯らさなければ後日の災い計りがたく一揆張本人の奴らをことごとく討伐しろと言ったと書いてあるけど、秀次を借りて政宗の所業を正当化しているだけでそれが本当かどうか分らないと語った」
「聞いてる私も、その千葉さん、京子さんと言ったっけ?、えーっ、て思うわ」
「隠された歴史話って、知れば知るほど歴史に興味が沸く」
「その後、熊谷君が、同級生に葛西という姓の者が居ないけど葛西一族の滅亡と関係しているのか?と聞いた。
伊達政宗は新領地の早期安定と平穏を築くために前の支配者の影が残る葛西と名のつく者は徹底して排除した。葛西姓だった人はその姓だけで命を狙われた。他国に出るか、残っても姓を変えるしかなかったと先生は応えた。
続けて、氏姓だけの問題では無い。葛西氏に関わる文物や建造物も菩提寺も全て破壊され焼却された。政宗によって徹底した歴史隠しが行なわれたと言う。
私も君達も葛西一族なんて、それにまつわる話なんてこの地域周辺の事なのに知らなかったろう。後世の人々も我々もそれに翻弄されていた事になる、と語った。
私は聞いたあの時も今も、その通りだなと思うね。記憶に残る話だった。
その後で私は、先生が行って来た葛西氏関連の所で特にお奨めの場所、古城って何処かと聞いた。それで古城巡りの話になったけど、その頃にはあの日、正午をとうに過ぎていた。
佐藤美紀さんから電話が入って、思ってたより時間がかかったから今日は失礼する。先生にも皆にも済みませんと謝ってくれということだった。あの時になって彼女の医療相談の内容を知らない、と急に彼女の事が不安になり出したよ。
電話口を代わった京子さんが、美希さんが来られなくなったと報告すると、先生は頷いて、皆、お腹すいたろう、下に行こうと言った。奥様が用意をしているという昼食の誘いだった」
