「一揆勃発で今の宮城県登米市の寺池城に居た木村吉清の所に息子の清久、宮城県大崎市の古川城主が対応策の相談に来た。
しかし、彼はその帰り路に一揆軍に襲われた。途中にあった佐沼城に緊急避難したのだそうだ。
それを聞きつけた吉清が救援に向かったが、親子で一揆軍に佐沼城に閉じ込められる羽目になった。
政宗は米沢から氏郷は会津からそれぞれに救出に向かったという。
(参考、葛西・大崎一揆関係図)
その後の先生の話は私達三人には驚きの連続だったね。日記にまた箇条書きにして書き残している。
・天正十八年十一月半ば。政宗と氏郷は宮城県の黒川郡にあったという下草城で木村親子救出と一揆軍討伐の軍事会談をした。
・明日から進撃と決めた夜。政宗の重臣の一人、須田伯耆が氏郷の陣営を訪ねてきた。
・須田は葛西・大崎一揆の首謀者は政宗だと言う。
・政宗は一揆どもと通じ、氏郷を暗殺する計画であると密告した。
・証拠として一揆を煽る政宗の書状を持参していた。
あの時、それを聞いただけで私は思わず、えーっ、何それと言いながら熊谷君を見たね。彼は首を横に振った。知らないという意味だったと思う。
計画通りに進撃して途中後ろから政宗に攻められれば氏郷軍は一揆勢との間で挟み撃ちになる。氏郷は命が危ない。
・氏郷は密告のあったその夜のうちに軍を進めた。翌日、宮城古川市大崎にあった名生城を占拠してそこに籠った。
・政宗から何だかんだと連絡があっても名生城を出ない。病気と称して佐沼城攻撃にも参加しなかった。
・氏郷は秀吉に、政宗に異心ありと報告した。
・氏郷が動かないから政宗は単独で佐沼城の木村親子救出に当たらざるを得なかった。
私はそのころに先生の話にすっかり引き込まれていたけど、一方で病院に行った美希さんのことを気にしていた」
「話が面白いものね。岩城先生?、先生の話し方、話、三人の気を引くのに十分だったんじゃないか?。伊達文書とか葛西文書とか普段我々が耳にしないもの、目にしないものがあってその内容を読み聞かせ、分かりやすいように噛み砕いてくれる。
話に裏切りに一揆とか興味が沸く歴史の一端が出てくる。引き込まれるよ」
「美希さんの話はまだ先ね。良いわよそれでも、私も聞いていて面白い」
八 「サイカチの木」と「セキレイ」
「それから先生にサイカチの木を知っているかって聞かれた。どんな木なのか私達三人はすぐには応えられなかったね。二人は知ってる?」
「いや。知らない」。
「アルバムのどっかにサイカチの木の写真があるはずだ。後で見てみて。
あの時、机の上あった先生のパソコンを借りてネットで検索したね。画面を見て私は、何だ、これか、俺ん家の裏山にあるよと言った。
高さが十五メートルぐらいになる木だ。幹や枝に鋭い棘があり五、六月頃に黄色い花を着けて秋には長さ二十~三十センチの曲がりくねった鞘の中に一センチ程の豆果が出来る。デッカイさやえんどうみたいなものだ。
晴信はサイカチの木の枝を門柱や玄関に目印として飾り、葛西一族がここに居るという合図にしてお家再興の吉報を待てと家臣達と約束していたのだと言う。
サイカチの木をもじって「葛西勝つ」になるという先生の説明だった。うん、それ、それ。その写真だ」
百合さんが、無言のままサイカチの木の写真を私に見せ、それから山口君に見せた。
(参考、サイカチ)
山口君が首を横に振った。そして縦に頷いた。
「その後に、秀吉の対応だねと先生が言った。日記にはメモ、箇条書きだね。
・氏郷の書状を受け取った秀吉は天正十九年一月、政宗に急ぎ上洛せよと命令した。・・二月初めに聚楽第の大広間に家康や前田利家等諸大名が集められた。
・その前で、秀吉を裁判長として政宗の審問が開かれた。
・先に上洛していた蒲生氏郷が密告した須田伯耆を従えて近くに控えていた。
・秀吉が書状を政宗に突きつけて詰問する。
・政宗は覚悟を決めていただろうと先生は語った。
・しかし政宗は、書状は偽物だと主張した。セキレイの花押の目に穴が空いているのが本物で、空いてなければ偽物だと言う。
・須田伯耆が氏郷の所に持参した書状のセキレイの目には穴が空いていなかった。
・秀吉は以前に自分が受け取った書状を持って来いと指示した。
・その場で確認したらセキレイの目にはどれも針の穴が開いていた。それでもう審問は終わりになった。
とある。それだけ聞くと、秀吉は政宗を許したように見えるよね。
しかし、先生はそんなに事は甘くなかったと言った。
秀吉は、政宗の先祖伝来の居城である米沢城のあった置賜郡、伊達の苗字の由来の地・伊達郡、伊達氏累代の墳墓のあった信夫郡、安達郡などを没収として、換わりに木村吉清父子の旧葛西・大崎領十二郡を政宗に与えたのだと言う。
先生は、政宗は相当ショックを受けたと思うと語ったね。
裁判に負けた氏郷が伊達郡、信夫郡など政宗の旧領地を与えられて九十二万石の大大名になり、裁判に勝ったはずの政宗が七十万石から五十八万石に減封された。
しかも生まれ育った故郷を失い、新しい土地の三十二万石分にはまだ一揆勢がのさばっていた。それを鎮圧して初めて自分の領地となるのだから否応なく次ぎに戦が待っていたと語った。
あの時、先生は手作りだと言う右に天正18年奥州仕置き前頃の所領、左に天正19年2月奥州再仕置き後頃の所領と有るA四判一枚の絵図を私達の前に広げた。旧葛西領や大崎領等の位置も分かったし、伊達領がどれだけ減ったかが一目瞭然だった。
セキレイの目に穴を開けるも開けないも政宗の手にある、勝手だ。証拠立てる物になりえなかった。政宗の花押と言われるものは数多く種類があるらしい。
先生は、俗にセキレイの花押と言われるものがこれだと仙台市博物館、伊達文書の中の一ページを見せてくれた」
「その写真もどっかにある?」
「写真じゃなく、そのアルバムの一番後ろに挟んである。熊谷君と一緒に後で先生にコピーさせてもらったものだ。所領図も花押もある」
(参考、伊達政宗の花押。天正18年と天正19年の所領(伊達領))
「これかー。へー。(所領の)違いがハッキリしているね。セキレイは鳥だろう。確かに鳥の姿、形に似ているね」



