四 伊達政宗の謀略2
「先生は、その後にも政宗の謀略話を続けた。私は日記に先生の言ったことをメモみたいに書き残している。箇条書きだね。後で思い出しながら書いたものだからね。
・小田原に出かけなかった葛西晴信は、帰ってきたと聞いて米沢にいる政宗に使者を送った。
・政宗は蘆名氏から奪った所領を秀吉に没収され百五十万石が七十万石になった。(奥州仕置き)
・また会津黒川城(会津若松城)も取り上げられて米沢城に引っ越していた。
・政宗は意気消沈していた。
・先生は伊達文書のコピーを見せてくれた。
・葛西晴信宛の政宗の書状に、全てはお任せあれ奥州のこと言うに及ばず出羽に至るまでも仕置きは秀吉公からこの伊達政宗に仰せ付けられたとあった。
・秀吉は、実際はそのような命令も指示もしていなかった。
・政宗の書状は晴信を騙すためのものだった。
・その嘘を書いた文書は小田原に参陣しなかった岩手、秋田、宮城、福島など近隣の武将たちにも出されていた、と書いてるね。
先生はその嘘の文書の発行について、晴信が、奥州大名と秀吉との間を取り次ぐ責任者だった浅野長政や前田利家を通じて秀吉に本領安堵、本領回復の為の運動をするかも知れない。政宗はそれを阻止したかったのだと言った。
晴信が本領安堵を勝ち取れば、政宗はその後に葛西領に侵攻できなくなる。侵攻すれば惣無事令に違反し、いずれ秀吉をも相手にしなければならなくなる。
虚言の書状の発行は、晴信の小田原参陣阻止に次ぐ政宗の第二の謀略だと語った」
「及川君の話を聞いていると、その岩城先生と言う方、学校の先生をしながら葛西一族を調べることがきっとライフワークになっていたのね」
「うん、そうだね。私はあの時も今もそう思っている」
「話の内容が面白い、黙って、続きを聞こう」
「先生は晴信の使者に持たせた書状と同じ日に発行された政宗の他の書状の内容を知って驚き、ショックを受けたと語ったね。
その一つが葛西重俊に宛てた書状で、あの時、その写しを私達に見せてくれた。アルバムの中に写真があるはずだ。それそれ。
葛西流斎へ被下候御書写は私にも読めたけど、後は先生の読み下しと説明だった。私の日記には流斎は号で名は重俊、葛西晴信の弟・胤重の子で晴信にとっては甥と有る。(参考、伊達政宗文書。葛西流斎宛)
写真で文書が読めるかな?。
政宗は奥州・出羽の仕置きは秀吉公からこの政宗に仰せ付けられた、他の城主、館主は喜ぶべきだと書き、文面の中の弥太郎の「弥」の字はいよ いよと読むと先生が説明して「弥晴信当方へ一統のお計らい、方々の前にあるべき候」は三十二万石の晴信が他の大名や領主に先んじて政宗に従えと言っている。
葛西氏の重臣、重俊が政宗と通じていて、伊達への従属を画策していたことを示している。政宗の葛西内切り崩しの謀略がここにも見えると先生が強い口調で言った。
私はその後で葛西晴信の書状や伊達政宗の書状の写し等をどうやって入手したのかと聞いたね。先生は歴史書や研究発表資料の発刊されたものを購入して知ることも多いけど、それよりも図書館の効果的な使い方、方法を君達も覚えておいた方が良いと言った。
探し当てたい本を図書館員に伝えて検索して貰う。行った図書館にある蔵書だけでなく近隣の図書館や国会図書館にあるものまで検索して探してくれる。
また、貸し出しの取り寄せが可能かどうかも先方に当たってくれる。取り寄せが出来ても館内閲覧だけOKという本もあるからそれは図書館に出向いて決められた時間と場所で閲覧することになる、と教えてくれた。
そして、先生が葛西晴信の文書や資料をまとめたという地方史家の名前と出版社の名前を言うと、熊谷君がメモしていたね。私も記録した。日記に移してあるけど、葛西左京太夫晴信文書は気仙沼市にある出版社だった。私の生家に近いところと知って吃驚したよ。耕風社で西田耕三編とあった」
五 葛西一族の所領没収
「奥州仕置きの内容が明らかになると葛西領内は騒然となった。
当然だよね、所領没収なのだから。
先生は寺池城(宮城県登米市)に居た晴信は一戦してかなわぬ時は腹を切ると家臣達と評定したと記録されていると語った。日記にあるメモ書きだね。
・晴信がその頃に家臣に宛てたという書状の写しを見せてくれた。
・大原飛騨守と千葉甲斐守以下東山勢千五百人余が既に桃生郡深谷に既に打ち出た。
(参考、葛西晴信書状、須藤伊豆守宛)
東山勢の東山とは今の一関市辺りだ。あの時、先生は手作りだという葛西軍と上方軍の対陣想像位置図と江戸時代早期に編纂されたという葛西真記録の陣割一覧を見せてくれたよ。(参考、葛西軍と上方軍 対陣想像位置図(天正18年8月)。出陣武将一覧)
秀吉に対抗した陣割だという資料の方は私と熊谷君が三月にブログの中からプリントアウトしたのと殆ど同じだったのでそれほど驚かなかったけど、先生手作りの対陣想像位置図に感心したね。
それを見ながら一気に四百年前の歴史の場面を想像した。
・合戦の火ぶたは天正十八年八月十一日。
旧盆の始まりに近いせいか、先生が言った日付を今も忘れないね。太平洋側に沿って東浜海道を北進してきた木村吉清の軍勢が今の宮城県の桃生郡和渕に到達して戦いの幕が開いた。
上方勢二万と葛西勢四千、鉄砲の数も違う。先生は多勢に無勢で結果は明らかだったと言った。上方軍が寺池に迫りつつあると伝令を聞いた晴信は、寺池城を捨て三方を川と沼に囲まれて堅城と言われた佐沼城に移り立て籠もったと言う。
しかし先生は、進軍してきた上方軍の圧倒的な威容を目の当たりにしてどの陣も大きな戦にならずに終わった。葛西軍は戦意を喪失して退却、逸走したのが本当ではないかと語った。
何故なら、その後、晴信は黒川郡大谷荘、今の宮城県黒川郡に十二村を給せられたと盛岡葛西系図や政宗の重臣伊達成実の書いた成実記に残されているのだと言う。
華々しい抵抗戦が繰り広げられたなら秀吉からそのような措置を受けることはあり得ない。晴信は切腹ものだったろうと語った。
そして、晴信の所領だった江刺・胆沢郡、気仙郡、牡鹿郡等の葛西七郡は秀吉配下の木村吉清、木村清久親子に与えられたと言う。伊達正宗の思惑外れだ。それがまた、後に話すけど、とんでもないことになった。
私と熊谷君はネットで調べて木村親子の存在と、その後に葛西・大崎一揆があったことは分かっていたけど、その具体的な事は知らなかった。
また、初めて知る京子さんは伊達政宗の前にこの町周辺を治めた人物に木村吉清が居たと聞いて驚いていた。
私は木村吉清親子と葛西・大崎一揆、それに掛かる伊達政宗の動向について先生の話に一層のこと、期待したね」
ごめんなさい。スキャンした後は正常保存なのに、アアップロードすると物によって回転してしまいます。小生の修正技術不足で、しばらくこのままにさせて下さい。



