「成る程」

「それに違反したのが小田原の北条(氏直、氏政)だ。有名な秀吉の小田原城攻めだね。

その時、秀吉は東北地方一帯を所領とする各武将、青森・津軽の津軽為信、岩手、盛岡辺りの南部信直、岩手県南、宮城県北の葛西晴信、宮城大崎辺りの大崎義隆、宮城・山形辺りの伊達政宗、秋田の佐竹、戸田何とか、山形の最上(もがみ)義光(よしあき)だったかな、彼らに小田原参陣の号令を掛けていた。

 その号令は東北の各武将が自分に従うかどうかを見る、いわば踏み絵だった。

 私が育った岩手一関辺り、宮城県、宮城県北は当時、葛西晴信の所領だった。熊谷君も私も千葉さんも、私達の田舎は伊達藩、伊達政宗とばかり思っていたから岩城先生に葛西一族が治めていたと聞いて驚いた。

 小田原参陣の号令があった天正十八年当時、葛西晴信は三十二万石にもなっていた。

 世は織田信長亡き後、豊臣秀吉の時代、それを知る葛西晴信がなぜ小田原に参陣しなかったのか参陣出来なかったのか、調べたらそこに伊達政宗の謀略があったと先生が言う。私達三人は政宗の謀略と聞いて驚いた。

 地元では伊達政宗は天下統一を目指した戦国時代の最後の武将として、英雄扱いされているからね」

「へーっ、なるほど。医師になる動機の話とどう繋がるのか分からないけど、確かに面白くなってきたな」

 

 あの時、京子さんは私との間に持ってきた座布団を敷いた。熊谷君が質問に入ったのはそれからだった。葛西晴信が小田原参陣要請に応じなかったがために天下平定を図る秀吉の奥州仕置きで所領を没収された。

それは分ったけどなぜ参陣しなかったのか。ネットで調べたら晴信が大名領主として領内をまとめ切れていなかった。家臣達が領地争いをする、主君に謀叛を起こす、その紛争解決や鎮圧のために小田原参陣どころではなかったと解説しているものが多い。本当にそうだったんでしょうか?と聞いた。

 先生は参陣要請を受けた頃の時代がどういう状況だったのか、そこから話す必要があると言った。

 晴信の時代は繁栄の根本が領地支配にあった、武士団の一族の繁栄は良い土地をいかに所持するかだ。だから領地拡大を巡って度々隣国との争いになる。親類縁者の間であれ兄弟の中でも領地の管理と一族支配を巡って争いになる。

 また、商い等で財力・武力を得た者が既成の支配者に代わってのし上がろうとする下克上の時代だ。領主には紛争を解決するために家臣達の協力が絶対的に必要だった、家臣の信頼を得る魅力と武力が無ければ領国の維持も拡大も出来ない。晴信には信頼を得る魅力と武力があったからこそ小田原参陣云々(うんぬん)を迎える天正十八年当時三十二万石にもなっていた、と語った。

 そして先生は、調べたけど小田原参陣の要請状が届いた天正十八年春迄の前約二年間、葛西領内で大きな紛争が起きたという記録が見られなかったと言った。それは晴信が秀吉の天正十四、五年頃発効の(そう)無事令(ぶじれい)を家臣達に徹底していたからで、晴信は天下の流れを理解していたと言った。

 その晴信がなぜ小田原に参陣しなかったのか、参陣出来なかったのか、調べたらそこに伊達政宗の謀略があったと言う。私達三人は政宗の謀略と聞いて驚いた。地元では伊達政宗は天下統一を目指した戦国時代の最後の武将として語られ英雄扱いされている。私はあの時、早く先生の話の先を聞きたかった。

 

「伊達政宗も惣無事令の意味するところは知っている。それで隣国と講話を結んだり、和議を結んで戦をストップしていた。しかし、天下取りの野望を持つ政宗の自制は二年だけだったのだそうだ。

 政宗は、天正十七年に講話を結んでいた福島・会津の蘆名氏((あし)名義(なよし)(ひろ))を磐梯山の麓、(すり)上原(あげはら)の戦いで破り、今の福島、長野、新潟、栃木県にまたがる広大な土地を手にした。

 また和議を結んでいた隣国の最上(もがみ)義光(よしあき)大崎(おおさき)(よし)(たか)とも騒乱を起こして、大崎義隆を事実上支配下に置くことになった。政宗が次に目を向けたのが葛西領だったと言う。

 葛西晴信が小田原に出かけられないよう、葛西領内の内乱勃発の動きを後ろで政宗が仕掛けていたのだと言う」

「うーん。面白そう。当然、その先が聞けるんだろうね」

「私も聞いていて、前より面白くなってきたわ」

「岩城先生は、あの時、晴信の小田原参陣の意思は近年発見された葛西文書の一つで明らかだと言って一つの文書を見せてくれた。私達に分かるように読み下してくれたね。晴信の配下の胆沢郡(いさわぐん)前沢城主・柏山氏の宿老、三田(みた)何とかに宛てたものだった。胆沢郡(いさわぐん)は今の岩手県奥州市近辺だ。

 手紙の内容は秀吉が北条(ほうじょう)(うじ)(なお)征伐のため小田原に出陣した。諸国の大名も日々に小田原へ駆けつけている。我々も近々参陣する覚悟だけど、浜田謀反に同調した者達が伊達政宗に近しい富沢日向守に内通していると情報があった。それゆえ小田原に行っている間が気になる。留守中の事をその方に頼みたい、小田原のことが首尾良く行けば帰って来てからその方に桃生郡全域を与えるという起請文だった。桃生郡は今の宮城県石巻、女川辺りだ。(参考、葛西晴信起請文、三田刑部宛)

 また、先生は、その翌月の四月になって今の一関市内の長坂にあったという(から)梅館(うめだて)、そこに各地に散らばっていた重臣達を集めて小田原参陣を決める話し合いをしていたと、もう一つの書状の写しを見せてくれた。(参考、葛西晴信書状(小野寺若狭宛)

先生は、そこまでした晴信が小田原に出かけようにも出かけられない内乱勃発の動きを実は後ろで政宗が扇動していたと言う。

 蘆名氏を破り広大な土地を手にした独眼竜政宗の奥州制覇の野望が大きく膨らみ、姻戚関係を結ぶことでしばらく(よしみ)を通じていた葛西領にも侵攻の触手を伸ばしていたと語った。

 政宗のやり方は、他国領内の主君と家臣の争いや主家の相続争いに外から手を出して煽り、その騒動の一方を支援して武力介入し、その地域への影響力を強める、あるいは直接傘下に収めるという内訌(ないこう)の手だと語った。

 また、先生は私達の目の前でメモ用紙に「遠交近攻」と書いた。読んで字のごとしで、遠くの領主豪族と手を結んで近くの敵を攻める、いわゆる挟み撃ちだ。

 先生は、仙台市博物館が編集・発行したという伊達政宗の文書、手紙の写しを見せてくれた。それは政宗が葛西晴信の知らないところで葛西氏の家臣と内通する書状だった。裏切りを証拠立てる文書が幾つもあったよ。私達は驚くばかりだったね」

(参考、伊達政宗文書(江刺三河守宛、富沢日向守宛)

「文書に残っているとなると、疑いようのない行動だね」

「晴信は裏切りが疑われる者達の後ろに控える政宗を見据えて動きが取れなかった。葛西領を自分の物にするため晴信の小田原参陣を阻止する、それが政宗の第一の謀略だったと先生は言った」

「聞いていて、熊谷君が歴史研究等にハマっていったのが分かるような気がする」

「熊谷君も私も、仙台市博物館、伊達文書と手帳にメモした。

 あの時のメモが今役立っているのは熊谷君だ。彼はW大学の文学部で日本の中世史を学び研究して十年になる。大学院を終えてこの春に博士号も取り、四月からW大学の職員として働きだした。

そのうち、機会を見つけて二人にも紹介するよ。私の大切な友人だ」

 

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