第三章 高三の夏(六、七、八月)
一 校長先生の講和
「進路と費用の事では三者面談が記憶にあるね。日記では六月一日に特別授業で校長先生の講和があったと書いてある。
熊谷君の事とは話がズレるけど、校長先生は参加してくれたのが父であっても母であっても自分が何をしたいのかどの方向に進みたいのか、目の前でハッキリ言いなさいと言った、と書いているね。
進学もただ大学や専門学校に行けば良いというものでは無い。何を学びたいのか身につけたいのか目標を明確に持たないと中途退学に陥りやすい。君達のために親が用意した入学金や授業料等は大金だ。ご両親の汗だ。その金を無駄にするなと言ったと記録している。
また、就職組のために高校生の就職と企業の採用活動の方法について説明してくれているね。高校生の就職・採用活動は学校教育が優先、そこまでは良いけど、その次に続いた説明に驚いたとある。
一定の時期までは一社に応募したら他社を選べない、一人の生徒が応募出来る企業は一社だと言う。生徒は応募した企業から内定が得られなかったときに初めて他社の企業に応募出来るのだと言う。
また、内定すれば、原則、必ず就職しなければならないルールになっているのだそうだ。聞いていた皆が、えーってなったと書いてる」
「百合さん知ってた?」。
「知らない、初めて聞くわ。でも、そういうことを教えてくれる校長先生が居たって、良い学校じゃない。
私の所は生徒の殆どが進学だったから大学や専門学校の選択が妥当かどうか、目標が何なのか、その方向にあっている進路選択をしなさいって。
今思い出したけど、説教交じりの進路指導の先生の特別講座があったわね」
「あのルールは今も生きてるのかな。
職業選択の自由に抵触しないのかな?就職活動を制限していることにならないのかな?、それとは別の問題なのかね?、私は、今も良く理解出来ないよ」
六月一日の金曜日。日記に五時限目の社会科の時間に普通科と農業科の全員が視聴覚室に集められた、三者面談に掛かる校長先生の特別授業が有ったとある。あの日久しぶりに一つ教室に皆が集まったから先生が来るまでは教室内が賑やかだったのを覚えている。席は何処でも構わなかったから私は野球部仲間と固まって講和を聞いた。
校長先生は自分の将来に関することだから面談する前に真剣に考えて置きなさいと言った。三者面談は翌週の月曜日から予定されていた。参加してくれるのが父であっても母であっても自分が何をしたいのかどの方向に進みたいのか、目の前でハッキリ言いなさいと言った。
進学もただ大学や専門学校に行けば良いというものでは無い。何を学びたいのか身につけたいのか目標を明確に持たないと中途退学に陥りやすい。進学先が自分に合わないと分かったら早めに進路変更を考えるのも間違いではないけど、仮にそうなったら自分だけで判断しないで必ず周囲の人の意見を聞いてその先を決めなさいと言った。
君達のために親が用意した入学金や授業料等は大金なのだ。ご両親の汗なのだ。その金を無駄に出来ないハズだと言った。
大学に行っている間、父や母が働いて授業料にアパート代、生活費等を仕送りすることになる。自分がアルバイトで多少の収入を確保しても仕送りが必要になる。
あの時、校長先生の話から初めてこれから先の自分の生活を現実的な物として想像して見ることを突きつけられた。あの時に、岩城先生の体験談を思いだしたことを今も覚えている。
また就職組には、自分がやりたい事を決めていてそれにかかわる職業に就ければ良く、大概は企業の求人情報から選択することになると言った。
高校生の就職・採用活動は学校教育が優先で、その上で適正な就職の機会を得られるようにハローワークや求人企業と連携して進められるものだと説明があった。
そこまでは良かったけど驚いたのはその後だ。一定の時期までは一社に応募したら他社を選べない、一人の生徒が応募出来る企業は一社だ。生徒は応募した企業から内定が得られなかったときに初めて他社の企業に応募出来ると語った。
また、内定すれば、原則、必ず就職しなければならないルールになっているのだそうだ。聞いていた生徒皆が、えーって声を上げた。
その後に校長先生は、三年も経つと大企業であれ中小企業であれ新規高卒で就職した人の約四、五割は離職する、大卒でさえ三、四割の人が転職しているというデーターがあると語った。
サラリーマンで一生を一企業で勤めて済む時代では無くなったと言った。だから自分が何をしたいのか、よく考えなさいと言った。転職するのも仕方がない。転職を考えるようになったらまず自分がしたいことは何か、どんな仕事をしたいのか改めて考えなさいと言った。
そして、次の職場を見つけるまでの当面の生活費、蓄えはあるか等事前準備を怠るなと言ったのを記憶している。
初めて就職した職場を離れると、次ぎに働く場を探すのは容易な事ではない。主にハローワークに行って探すようになるだろうけど初めて就職した職場よりも高い給料を保証するところを見つけるのはまず難しい。転職を繰り返す度に収入が減った、生活に困る、正社員になりたいと何度も聞かされた君達先輩の声だと語った。
世の中、給与所得者の三割を超える人が正社員になりたいと望んでいる現状なのだとの話も覚えている。
少子化から君達のような若年労働者はどんどん減少する。人手不足なのは高齢者の定年延長の話や外国人労働者の受入れが社会的に論議されているのをみていて君達も分かるだろう。人手確保優先のために徐々に転職者の処遇も改善されるとは思うが、日本の労働事情はまだまだ転職者の知識、経験、能力を買うという状況に無いと言った。自分がやりたい仕事のために資格が必要だったらその資格取得を優先する事が大事だと言った。
そして、人間、働いて生きることは宿命だ、罪を犯さないかぎり職業に貴賎はない。どんな仕事を選んでも何度転職しても真面目に向かえば誰かが認めてくれる、そうなるように努力しなさいと言った。
あの言葉は忘れられない。社会に出たら自己責任が全てに求められると言った言葉も忘れられない。
校長先生がそういった話をする頃には生徒は皆真剣な顔になっていたのを覚えている。あの視聴覚教室が水を打ったように静かだった。