熊谷君が葛西清重が貰った土地、吾妻鏡に書かれている胆沢(いざわ)(いわ)()牡鹿(おしか)等の郡下数ケ所を拝領すの具体的な地域は前に先生が江刺、胆沢、磐井、登米(とよま)桃生(ものう)、牡鹿ではないかと言っていましたけどこの図を見ると人の往来や物流の要である北上川沿いで繋がりますね、清重の功績を大きく認めた頼朝が牡鹿郡を飛び地で与えたとする説は確かに理解出来ないと言った。

 私は一枚の郡割図を見ただけで言う熊谷君に感心したと同時に、正直、少し驚いた。彼の熱の入れようも岩城先生同様に半端じゃ無いと思った。

 あの時、京子さんが同姓の千葉氏に興味を抱いたのは当たり前だった。私にご落胤の(いん)の字を何て読むのと聞いて、タネ(・・)と教えると郡割図の所領を貰った人に千葉胤盛三男、伊具(いぐ)亘理郡(わたりぐん)、胤道五男、名取(なとり)宮城郡(みやぎぐん)、頼胤六男、黒川郡と(つね)(たね)の子が多く所領を貰っていますねと言った。

 常胤はこの地域、町周辺の千葉姓の元になった人だと私が横から言うと、先生は、千葉さんは初めて聞く名前だったねと言った。そして、千葉(ちば)(のすけ)(つね)(たね)は挙兵した頼朝が石橋山の戦いに負けて伊豆から千葉の房総半島に逃げ、上陸した後、頼朝から参陣の要請を受けていち早く応じた人物だと教えた。

 

 熊谷君が色々調べたけどクラス仲間に多い及川や畠山、三浦の苗字がこの町近在の所領に出てこなかった、どうしてですかと聞いた。先生は、そこまで調べたのと感心し、たいしたもんだと言った。そして、畠山姓については宮城県柴田郡に所領を貰った鎌倉幕府の御家人、畠山重忠が関係している。また三浦姓に繋がるのは福島県の耶麻郡(やまぐん)会津(あいず)(ぐん)等四つの郡を所領として貰った三浦(みうら)義連(よしつら)だと言う。

 先生は、私達藤沢町周辺に下向してきた葛西・千葉一族の郎党の中に畠山と三浦の姓に繋がる縁者が従属して一緒に付いてきたと考えて良いと言った。その根拠に葛西(かさい)(きよ)(しげ)は葛西を名乗っているけど千葉(ちばの)(すけ)(つね)(たね)の弟、葛西重高の養子であり、常胤の奥さんと畠山重忠の父は姉弟で、畠山重忠の母は鎌倉武士三浦(みうら)(よし)(あき)の娘でその三浦義明の息子の一人が三浦義連(よしつら)だと先生の説明だった。

 簡単に言えば清重、常胤、重忠、義連は一族縁者だった。葛西清重や千葉介常胤の所領に畠山の姓や三浦の姓を持った者が一族郎党から選ばれて代官として下向して来た、あるいは郎党として連れられて来た。畠山の姓、三浦の姓を持つ誰かがこの土地に移住して来ていたとしても不思議ではないと言った。

 

「私は当然、及川姓のルーツについて気になるよね。十円玉はあの通り宇治の平等院の絵だ。あの平等院の敷地の中に頼朝より先に平家追討の乱を起こして敗れた源頼政のお墓がある。

 その頼政の息子が及川姓を名乗ったと先生に以前に聞いていたけど、奥州合戦の後の所領、地頭職の関係で岩手、宮城の辺りに及川姓は出てこない。

 それで先生に質問したよ。そしたら、先生は奥州合戦の後の南北朝や室町、安土桃山、戦国時代に葛西氏家臣の立場で及川姓は勢力を伸ばした。凡そ四百年経って葛西晴信が秀吉の上方軍と戦う陣割を敷いた時の記録を見ればわかると言った。

 一度聞いただけではどんな字を書くのか、人名って解らないよね。あの時、先生に丁寧に教えていただいてメモした。その夜に興奮を覚えながら日記に写したね。それがこれだ。登米(とよま)鱒淵(ますぶち)城主(じょうしゅ)及川(おいかわ)紀伊(きい)(のかみ)(なお)(たり)津谷(つや)川城(がわじょう)(しゅ)及川美濃次郎頼兼(おいかわみのじろうよりかね)気仙(けせん)(じゃ)ケ崎(がさき)城主(じょうしゅ)及川掃部頭(おいかわかもんのかみ)重綱(しげつな)と有るだろ。

 先生は今の宮城県登米(とめ)や津谷川、気仙地域周辺が君達仲間の及川の苗字のルーツと考えても良いと言った。出所(でどご)を聞いたら江戸時代初期に書かれた葛西真記録等にちゃんと載っていると聞いてビックリした。

 また十年前と今も同じかどうか分からないけど、全国の及川姓を持つ人の半分以上の八万人近くが今の岩手県南部から宮城県北部の地域に住んでいるという先生の話に私はもっと驚いたね」

「名前のルーツって言うのかしら、聞いていて面白い。姓から歴史を感じるなんて初めてだわ。私の田中百合の田中にもどんな歴史が隠されているのかしら。私が生まれた島根県は田中姓が多いのよ」

「同姓のせいもあるね。京子さんは千葉介常胤の息子達が所領として貰った場所を示す先生お手製の群割図から関心が離れなかった。何しろ福島県以北から岩手県南部まで千葉一族の所領だったからね」

 

 あの時、京子さんは同姓の千葉介常胤からなかなかに関心が離れなかった。郡割図一に目を落としたまま常胤の長男次男に四男だったかな?は名前と所領が出てこない、どうなっているのかと先生に質問した。

 先生は事務用ファイルから新たに四枚の郡割図を外して私達の前に置いた。今の青森、秋田、福島、山形の各県地図に落とした郡割図だった。

(参考、郡割図二、三、四、五)

福島県の郡割図を指して次男は(もろ)(つね)、当初の名前は(もろ)(たね)だと言う。(もろ)(つね)は相馬野馬追祭りが開かれるあの福島県相馬市辺りと父から受け継いだ下総(しもうさ)相馬(そうま)御厨(みくりゃ)を所領とした。それで相馬氏を名乗ったのだと教えてくれた。

 四男の(たね)(のぶ)は現在の福島県いわき()(たいら)辺りを所領に貰ったらしい。(たね)(のぶ)の話で印象に残っているのはその前にも源平合戦の功績から今の成田国際空港辺りから九十九里浜周辺までの約五千町、千葉県の大須賀村(おおすがむら)の広大な土地を貰った、吾妻鏡に大須賀胤信として登場していると言う説明だった。郡割図一にあった三男等より説明の有った方をよく覚えている。

 長男は(たね)(まさ)。彼は常胤の後を継ぐ千葉氏宗家の跡取りで今の千葉県千葉市周辺が所領。そこが主な生活の場だったろうけど、彼は岩手県の私達の磐井郡地域にかなり関連していた人物だと先生は語った。胤正は頼朝の信頼が厚い鎌倉幕府御家人として活躍し、奥州合戦の後も藤原氏の残党征伐に平泉に来ていた。

 また、彼の嫡男(なる)(たね)は葛西清重と一緒に合戦後の平泉の治安と復興に当たっていた。岩手県磐井郡周辺地域には胤正の三男で(たね)(ちか)、成胤の子で(やす)(たね)をご先祖様、千葉の祖とする千葉氏系図が多く見られると先生は言った。

 あの時、先生は厚さが十センチ程もある青色のバインダーを取り出して、宮城県の栗原郡に残るという(たいら)(せい)千葉(ちば)系譜(けいふ)(参考、別掲)というのを私達に見せて呉れた。また先生は、吾妻鏡別巻に鎌倉幕府草創期に関わった人達の系図が整理されていると言った。

 その二つの系図から鎌倉幕府を作った御家人同士が如何に平氏(へいし)の大一族だったか、京の都から関東地方に下向して来て土着した人々の間でいかに血の繋がりが濃くなって行ったか良く分ると語った。

何も分かっていない私はあの時、系図って沢山有るんですかと聞いた。先生は系図は世帯の数ほど作れる、だから何か客観的に立証するものがないと信憑性がないと言った。その場で盛岡葛西系図(参考、別掲)と仙台葛西系図と言うのを私達に見せてくれた。

 凄い。これ(みんな)、先生が作ったんですか?って私は思わず聞いた。先生は、作ると言ってもそれぞれの系図に書かれている文面から理解し易いように罫線、ヒゲを付けて表にしただけだと言った。