第二章 高三の春(四、五月)
一 新聞部の会合
「日記を見ると、四月六日、金曜日が高三の始業式だね。その日、熊谷君、千葉京子さんと一緒にロの字型に机と椅子を並べて岩城先生を待った。
熊谷君との事前の打ち合わせでは学校新聞最終号の記事の内容として葛西一族、自分たちの苗字のルーツを扱う提案を予定していた。彼に打ち合わせ通りで良いよなって念を押した」
あの日、一時限目の岩城先生のガイダンスが終わって二時限目の各部部活打ち合わせで先に野球部に顔を出すか新聞部に行くかで迷った。キャプテンの哲君が野球部は例年通り体操、キャッチボールで体をほぐし、校庭五周、ベース間ダッシュ五回、素振り百回を終わった後に教室で今年度の活動方針、部予算の説明等をする、十一時半までは練習だと言った。
そのスケジュールに甘えて自分だけ残って一人トレーニングやるからと言って頼み込み、二時限目の終わる十時二十分まで新聞部の部活打ち合わせに先に参加した。
ノート一つを持って登場した先生が着席すると、私は今年の藤高新聞は主にこの町の歴史を取り上げたいと言った。例年の構成パターンを意識していたのかも知れない京子さんが、如何いうことって聞いたけど、私はあの時、この町の隠れた歴史を取り上げたい、絶対受けるよ、と言った。
「私の提案を黙って聞いていた先生が思いがけないことを言ったね。今年度の藤高新聞の発行は一回で如何だろう、君達の理解を得られたら校長に進言して年二回の発行予定を一回に減らしてもらうと言った。
理由は、私達三人が進学希望で受験勉強に集中しなければならないのに新聞の編集作業に時間的労力が掛かりすぎるということだった。
例年だと新聞の原案作成のための校内記事のまとめも校外の歩き取材も、また割り付けや編集も二年生と一年生が担当していた。三年生は就職活動と大学受験等の準備があるため収集した記事の是非の選択と校正等の軽い裏方の作業を担当してきた。
三人が今までの一、二年生の担当部分までヤルのは負担が大きすぎると言った。
熊谷君も私も思いもしなかった先生の提案だった。三月初めに先生の家を訪問して、二人で新聞部を辞めたいと言ったことがその根底にあった事は確かた。先生が考えた結果の彼と私に対する配慮、気配りだったと思う。
間があって、熊谷君が年一回の発行だとして先生が記事にしたいというものが有りますか?と聞いた。
先生は今年発行する藤高新聞は五十九年の歴史を閉じる学校新聞だ、学校の歴史を伝え、ここにこういう学校があったという証を刻める新聞で良いのではないかと言った。スタートが定時制高校だったとか、隣町の県立千厩高校の分校だったとか、昔の木造の藤沢小学校の教室の一部を借りて授業を始めたとか校庭を借りて運動会をしたとか、そういう事も記事になると私達三人が知らなかった学校史を語った。
そして、スポーツや文芸活動で先輩達が獲得した輝かしい事跡を再掲するのも良いだろう、月並みな最終号かも知れないがそれらに加えて学校が無くなるけど何か未来に繋がるようなことを一つ表現できたら良い、それで十分学校新聞の役割を果たせると言った。
それを受けて京子さんが、学校創立の頃から今日までの思い出を写真で綴る、先輩OB達から写真を集めるのも、コメントを貰うのも良いかもと直ぐに賛意を示した。
熊谷君が、発行は年一回だけど予算は二回分を使っても、発行が卒業間近の二月になっても良いですかと聞いた。先生はそうなっても構わないと言う。
そしてあの後、熊谷君は過去の記録と今いる生徒の未来に向けた発信を内容としてまとめようと私の方に向いて言った。
あの時、熊谷君が具体的にどのようにイメージしたのか分からないけど、私は彼と一緒に考えた提案が潰れることになるから先生の意見にすぐには賛成出来なかった。
その後、年一回、熊谷君の言う卒業間近の二月に最終号を発行するとして、何時の時期に何の作業をするかスケジュールの討議になった。また、過去の記録と今いる生徒の未来に向けた発信をどのようにするかについても意見が出た。しかし、私は気が乗らなかったね。
最後に部活の日を週一、何が有っても無くても原則水曜日の午後四時から五時の間、この教室に三人が集まるということを確認してあの年の新聞部第一回会合は終わった。
終わってから熊谷君が一緒に帰ろうと言った。一瞬迷ったけど、哲君との約束がある、俺は野球部の練習に行くよ、と言って誘いを断った」
「及川君、不満だったのね。気持ちが分かる。ちょっぴり反抗した・・・のね」
「当時は私も受験生だからね。夕食を済ますと八時前には必ず机に向かっていた。あの夜に筆箱の側に置いていた携帯が鳴った。熊谷君からだった。昼間の部活の事を言ってきた。ゴメンと謝ってきたね。
私は学校新聞に掲載する記事のことより、医者になる。医学部を受験することに迷いは無くなったのか聞こうとしたけど、彼の悩みを呼び起こすようで止めた。彼の話を聞くだけにして、また三人で話し合う必要があるなと思った」
今日はゴメン。先生の提案した年一回の発行は三月初めに先生の家に行く前に選択肢として俺も考えた。今日、先生に改めて年一回と言われて自分の選択肢を引きずった。
ただ、俺の考えていた年一回の発行は学校の歩んできた歴史だけで終わりだった。先生の言う将来に何かが繋がればということは考えていなかった。咄嗟に俺達生徒仲間の将来を語れば良いかなと思った。自分が将来に向かって何を目指すのか何になりたいのか、どんな職業を選択するのか。それぞれが夢や目標を語ればそれを記事として掲載すれば先生の言う将来に何かが繋がればという答えに成ると思った。
また増ページの中で俺達のルーツ、葛西一族についての記事も掲載出来るかもと咄嗟に思った。そこは俺達の判断部分だ。納得しながら自分の時間的負担を掛けることが出来るか、受験勉強と両立させられるかどうかは俺達自身の判断と行動になる。
先生が部活が受験勉強に影響が大きい、負担だと思うなら部を止めるほかは無いと(訪問した)三月に言った、その事はあの時も今も変わらない。自分と向き合って、改めてこの先を考えるよと熊谷君は言った。目の前の日記にそう残っている。彼自身のあの時点での結論だった。
医者になる。医学部を受験することに迷いは無くなったのか聞こうとしたけど、彼の悩みを呼び起こすようで止めた。医学部を受験するのであれば、掛かるプレッシャーは何も変わらなかったろう。
私は将来に向かって何かが繋がればという部分の彼の考えに賛成出来たけど、町の人々にもクラス仲間にも知って欲しい町の隠れた歴史を伝える機会を失いかねないことに、また自分でもヤル気になっていただけに、あの夜、熊谷君から電話をもらっても気持ちがすっきりしなかった。
かといって自分だけで葛西清重や葛西一族、奥州仕置き等の資料を集めたり、調査も編集も出来るとも思わなかった。あの時、改めて話し合おう必要があるなと思った。