三 友の関心事
あの年、春休みの間の野球部の部活は哲君を中心に残った部員五人で話あって決めた。月、火、水、木の四日を練習日とする。時間は午前九時から十二時。晴れの日はグランド使用、雨・雪等でグランドを使えない日は体育館代わりの講堂を利用する、金、土、日は各自自宅で柔軟体操の後、家の周りを最低でもニキロはランニング、最低でも素振りを百回行うこととした。
監視の目の無い自主練習の方法に問題がなくもなかったが、決まりがあったことで私の部活は充実していた。その一方で、部活が決め事に成っていたから受験勉強の為に机に向かうリズムも出来ていた。
「あの年の三月下旬。学校は春休み・・、日記だと・・・。うん。三月・・二十四日、土曜日だ。熊谷君に呼ばれてまた彼の部屋に行っている。
熊谷は勉強の合間に吾妻鏡の第一巻を読んでいると言った。岩城先生が言うようにクラス仲間に見られる及川や熊谷、小野寺、佐々木、千葉、畠山、千田、三浦、伊藤の氏姓を持つ鎌倉幕府御家人がぞろぞろ出てくると言った。
また、彼は(インター)ネットで鎌倉時代から続いた葛西一族が何故滅亡したのか調べていた。葛西清重から四百年続いた葛西一族が豊臣秀吉の奥州仕置きで滅亡した、その時の最後となった葛西氏の当主が葛西晴信だと分かって彼は興奮していたと書いてるね。その後に、秀吉が出てくるとは思わなかった。奥州仕置きという言葉を初めて知ったとある。
また、彼と一緒に町の人、一般的な人が苗字を持つようになったのは何時からかネットで調べた。それで明治初期に戸籍法が制定されたと知った、と日記に書いてる。
その後に、ネットの説明だと法制定となって主家の氏姓や名主の苗字を貰って付けた人も多いと有るが、熊谷の指摘する吾妻鏡の数ページを見たら先生の言うように間違い無く鎌倉幕府御家人の氏、姓が私達のクラス仲間の氏、姓だったとも書いてる」
「誰でも一度は自分は何処から来たんだろう、何故この苗字なの、名前なのって、自分のルーツに関心を持つでしょう。探りたくなるわよね」
三月下旬の土曜日お昼前、熊谷君からの電話だった。私に受験勉強をしっかりしているかと聞いていながら、午後に遊びに来ないかという誘だった。
午後も机に向かうつもりでいたけど彼の話の内容が葛西一族物語と聞いて俄然行く気になった。それに吾妻鏡の何巻かを分けて借りようと思った。一巻でも読み終わっていればそれを借りようと思った。
約束の午後一時半に訪問した。彼の部屋は温かかった。エアコンも効いていたけど、窓際に飾られた白い梅の花の枝が春めいた外の陽気を部屋の中にも伝えていた。ぷーんと良い香りがしていた。彼は勉強の合間に吾妻鏡の一巻を読んでいる最中だと言う。
そして、岩城先生が言うように私達のクラス仲間に見られる及川や熊谷、小野寺、佐々木、千葉、畠山、千田、三浦、伊藤の氏姓を持つ鎌倉幕府御家人がぞろぞろ出てくると言った。また午前中にネットで葛西清重を入力したら葛西一族物語、千葉介常胤を検索したら奥州千葉氏のブログが出てきたのだと言う。彼は、その中身は自分達の住んでいる町に関連している、自分達の祖先の歴史を伝えている、と少し興奮していた。
葛西清重から四百年続いた葛西一族が秀吉の奥州仕置きで滅亡した、その時の最後となった葛西氏の当主が葛西晴信だと分かったと言った。
豊臣秀吉は誰でも知っている。その歴史上の人物に関係して葛西晴信が出てきて葛西一族が滅亡したと聞いて、私も一瞬、えっ、て思った。
彼はかなりの資料をプリントアウトしていた。ブログの中身の真贋はともかく私達には十分にインパクトを与える物だった。葛西清重が所領として源頼朝から貰った土地についても一つの説が書いてあったし、先生に聞いていなかった鎌倉時代の終わりから南北朝時代、室町時代、安土桃山時代などに奥州に下向してきた葛西、千葉一族がどうなったのかその変遷やその時代の人名等が書かれていた。
葛西晴信についてのプリントもあった。葛西氏第十七代葛西晴信は豊臣秀吉から小田原攻め、参陣命令の書状を受け取っていた。その書状は奥州の各地域を所領とする武将達が天下統一を図る秀吉に従うかどうかを見る、言わば踏み絵だった。
青森の津軽為信も岩手県北部を所領としていた南部信直も、秋田の戸沢盛安も宮城の大崎義隆も宮城福島山形の一部を所領としていた伊達政宗も、山形の最上義光も武藤何とかも福島の田村何とか、石川何とかも皆小田原参陣を命令されていた。
その事を知っただけでも私と熊谷君は興奮した。学校の机の上の日本史の勉強よりもズーっと面白いと思った。
晴信は参陣しなかったことを理由に秀吉の奥州仕置きで江刺、水沢辺りの岩手県南部から石巻、栗原辺りの宮城県北部に跨がる三十二万石もの領地を没収されていた。
熊谷君は今度、先生に葛西清重だけで無く鎌倉幕府の御家人が奥州のどの地域に誰が所領を貰って下向してきたのか教えて貰おうと言った。また葛西一族滅亡について詳しく聞いてみようと言った。
そして、生徒にも町の人々にも余り知られていない歴史の事実をひも解いて記事にまとめ最終号の藤高新聞に掲載するのも良いと言った。
私は、それは良い、新聞を読む人に絶対に受けるよ、皆、藤原氏や義経を知っていても伊達政宗を知っていても、俺達の住む町がらみで葛西清重や千葉介常胤と言う人物が居たなんて、最後の当主が葛西晴信で四百年続いた葛西氏一族が秀吉の奥州仕置きで滅亡したなんて知られていないことばかりだ。知られていない歴史を俺達が伝えるって凄く面白い、ワクワクするよと彼の提案に賛成した。
あの日、その後もネットで奥州葛西氏関連項目を調べたり、必要だなと思う物をプリントアウトした。途中、母に夕食を熊谷君の家で御馳走になると連絡した。
午前診療の後、所要があって仙台に出かけたとかで彼のお父さんは居なかったけど、彼のお母さん弟妹さんとの初めての食卓で私はかなり緊張した。
その後も彼の部屋に戻ってネットで色々調べた。終わりにしたのは夜も九時だった。私が知る過去二年、学校新聞に掲載する記事は運動部や文化部の日頃の活動状況や対外公式試合に掛かるものが多かった。
今年はそんな記事よりも町の隠れた歴史、葛西清重や葛西一族、千葉一族に掛かる記事を集めれば面白い物が出来る。そう思いながらバイクを走らせて、途中、彼が新聞部を辞めることを一言も口にしなかったことに気付いた。医者になるという熊谷家のプレッシャーから解放されていないハズなのにと思った。
借りてきた吾妻鏡第三、四、五巻と別冊はバイクの後ろに括り付けた袋の中だった。
「熊谷君が日本史、中でも日本の中世史研究に傾注して行ったのは岩城先生の鎌倉幕府と葛西清重に掛かる話がキッカケになったのは間違い無い」
「それで及川君が、何時か言っていた学者の卵、誇れる友人と言っていたのね」
「うん。彼が医者への道から方向転換したのは今までの話で少しは言えたと思うけど、誇れる友人というのはこの後に話すけど佐藤美希さんの身に起こった事実と、私の将来を思って言ってくれた熊谷君の意見、行動にある」