三学期の始業式の日は講堂での校長の新年の挨拶とガイダンスの後、二時限目からは普通に授業がある。解放されたのは午後三時三十五分、七時限目の授業が終わった後だった。
誰も居ないだろうから図書室に行って話そうと言う熊谷君の誘いに付いて行った。図書室で一人、先に芳賀俊郎君が本を開いていた。彼も大学進学希望だ。
結局、勉強の邪魔をしちゃ悪いねと元居た教室に戻ったけど、まだ数人が残っておしゃべりをしていた。冬休み明けで久しぶりに会う友達と話が弾むのだろう。
彼は俺ん家に行こうと誘った。熊谷医院までは学校の駐輪場からバイクで三分。その間もお巡りさんに見つかったらアウトだね、と言いながらヘルメット無しの彼を後ろに乗せて行った。
部屋に入ると、彼はすぐに話し出した。相談事は今後の部活の事だった。新聞部を辞めると語り、及川はどうする?と私の去就を口にした。
辞めたい理由が受験勉強に集中したいからと言うことと、最終号の新聞はどうしても過去の学校の歴史や輝かしい事跡、OBの談話や校長の廃校にあたっての挨拶になる、あるいは町長やPTAの方の挨拶も掲載するようになるかも知れない。果たして俺達新聞部部員の生徒の役割だろうか、最終号は事務室が発行すべきではないかと言った。
受験勉強の進捗状況についての不安も語った。本当に自分は医者に成りたいのかと自問自答しているのだと、私から見たらショックなことを口にした。私達同級生は彼が学年でトップの成績と認めていたし、医者に成る、迷うことなく医学部に進むと思っている。ご家族もそう期待していると疑いを持っていなかった。医学部以外に彼の進学先は無いと当たり前に思っていた。
今思えば受験生が抱く不安な気持ちそのものだった。自分に不安を抱いたのは受験対策の進捗状況にもあったろうし、田舎町で外の進学校や受験生と比較して自分の受験生としての学力レベルや立ち位置がどの程度にあるのか把握しにくかったことも影響していたと思う。
受験の合否の結果を予想して抱く不安も有っただろう。また医学の道を選択すればそれで彼の生涯の歩む道は決定する。自分自身の生涯の職業の選択で有り、十八(歳)にして人生のあらかたの道を決めることになる不安が彼を襲っていたのだと思う。
「三学期の始業式のあった日の午後、相談したいことがあると言われ、誘われるままに彼の家まで付いて行った。
思いもしていなかった相談事に正直戸惑ったよ。三年生になっての学校新聞最終号の発行のあり方と彼自身の進学の進路先のことだった。
最終号の学校新聞はどうしても過去の学校の歴史や輝かしい事跡の掘り起こしになる。OBの談話や校長の廃校にあたっての挨拶になる、あるいは町長やPTAの方の挨拶も掲載するようになるかも知れない。果たして俺達新聞部部員の役割だろうか、最終号は事務室が発行すべきではないかと言った。
また、そのこととは全く別に、本当に自分は医者に成りたいのかと悩んでいると、私から見たらショックなことを口にした。同級生はもちろんのこと彼のご家族も、大学が何処になれ彼が躊躇することなく医学部に進むものと思っていたからね。
私は、俺が野球に打ち込むのと同じように新聞部の活動に情熱を燃やしてきたのは熊谷だろ、掲載する内容は殆どお前の言う通りになるかも知れないけど、この二年、打ち込んできた活動の最後を他人に任せられるのか?それで自分自身納得できるのか?と言った。
最終号の内容がどうなるかはともかく、彼やもう一人の新聞部の部員だった千葉京子さんの活動に協力するよと言った。先輩達が抜けて高三の時の新聞部の部員は私を含めて三人だけになるのは分かっていることだ。私は名簿に載っているだけで大して戦力にならないけどねとも言った。
また、進学先のことは受験生が抱く不安な気持ちそのものと理解して何も助言できるようなことはなかった。仮の言うことに耳を傾けただけだった。
もう少し考えてみるよと言う彼の言葉を最後に、勉強している内容やクラス仲間達の進学か就職かの動向等を話題にして話し、あの日はそれで彼の部屋を後にした」
あの時、腕時計は午後五時を少し過ぎていた。冬至の頃から見たら着実に陽が延びていた。彼の見送りを受けながらホンダPCXのエンジンを吹かしたのを記憶している。
それからの約一ヶ月、教室で会う熊谷君は何事もなかったように黒板に向い、授業が終わるとすぐ家路に就いていた。
また、私も学校の授業にも部活にも、また家に帰ってからの勉強にも自分なりに納得できる取り組みをしていたと思う。野球部の部活の帰りにキャプテンの哲君が、間もなく始まる高二最後の期末試験に出そうな所は何処かと英語や数学の教科書を開いて聞くくらいで特別変わったこともなかった。