第一章 友
一 友を知る
「お茶を淹れたわよ。高校生活かしら?そろそろ医師を目指すことになった動機を聞かせてくれる?」
「うん、良いよ。約束だからね。あの頃の日記とアルバムを引っ張り出して来たよ」
目の前に置いた高校生時代のB6判の日記帳は表紙が少し色褪せていた。本棚に置きっぱなしだったから少しホコリも付いている。
四人掛けの小さな食卓テーブルの前の椅子に百合さんが座っている。流し台の側で、さっきまでピーピーとお湯が沸いたと知らせていた薬缶の下の青い炎は消えていた。百合さんの真向かいに茶色い釉の掛かった私専用の湯飲みが置かれていた。
「十年も前だからね。表紙を見ただけでも懐かしい。当時の私のアルバムと高校の卒業アルバムだ。
山口君はまだ寝てるよ。帰ってきたのが昨夜十一時に少し前。百合さんが眠いから先に寝ると言って部屋に行ってから一時間ぐらい経っていたと思う。
風呂上がりに私と缶ビールを一個開けただけで、私より先に寝た。
夕食は何処かで摂って来たようなこと言ってたね。疲れていたと思うよ、徹夜明けでそのまま日勤に就いて、帰って来たのが夜の十一時だからね。
研修医の勤務って、それこそ働き方改革の第一(の対象)にされるべきものだね」
自治医科大の同期生仲間であり気の合う三人だ。研修の勤務先が同じということもあり連絡し合って一カ月に一、二度、大宮駅近くの私の賃貸マンションに集まる。診療の上での情報を交換し、話し合い、勉強のために役立つこともあるけど、大概は緊張を解きほぐす、お互いに励まし合うために集まる場所みたいなものだ。
二人が泊まるときは二部屋しかないからいつも山口君と私が一つ部屋で、百合さんが一部屋を寝床にしている。
二冊のアルバムを目にして、百合さんはほつれ毛を右手で耳の後ろにかき上げた。私は湯飲みを手に一口啜り、三冊の日記帳を目の前にして話し始めることにした。
「私は廃校寸前の地元の高校に進学したよ。三年後、私達を最後に廃校になる。
そして部活で野球部に入ったんだけど、新聞部にも入った。学校の扱いは、原則、運動部と文化部の間でなら二部を選択して良いとなっていた」
私の高校進学は地元にある岩手県立藤沢高等学校の外に選択の余地が無かった。三年後に廃校になると分かっていたけど家庭の経済的事情から通学のバス代や寮費やアパート代等の負担の掛かる隣町の高校も一関市内の高校も選ぶことは出来なかった。
当時、藤沢高校は少子化と過疎化によって一年生も二年生も三年生も普通科一クラス、農業科一クラスだった。私が入った普通科は定員四十名の処に同級生が二十三人、農業科は定員三十名の処に十五人だけで、在校生全体数は百三十人と居なかったと思う。
高校に入ると、中学の時に引き続き野球部に入部した。同時に新聞部にも入った。生徒数が少ないこともあって学校の扱いは、原則、運動部と文化部の間でなら二部を選択して良いとなっていた。
歩いてひたすら歩いて、躓いて転んでもただでは起きない。何かを手にする宝石を手にする、それは君の活動次第、君の努力次第、さあ新聞部に入ってお宝を探してみよう、活動してみよう。当時の新聞部の先輩の呼び込みを今でも覚えている。
その面白さから、私は将来、自分が商社マンとして海外に行く事があったら本社宛てや先輩、上司宛てに報告書をまとめる事も多いだろう。新聞部に入れば今から報告書等を纏めるコツというか、要領を習得出来るのではないかと勝手に想像した。自分勝手に妄想した結果の入部だった。
四月末だった。新聞部の先輩から必ず顔を出すようにと催促されて、ユニホーム姿のまま新聞部の打合せ会というのに参加した。その場で同じクラスの熊谷準君と千葉京子さんが新聞部に所属しようとしていると分かった。
またその時に、新聞部の部活担当教諭がクラス担任でもある岩城先生と分かった。年度の活動計画案発表という前に新入部員の自己紹介が設定されていた。
指名された私は、野球部と掛け持ちで新聞部にとって不良部員になるかも知れませんが根気よくご指導お願いしますとやってしまった。先生は穏やかな顔をしていたけど、明らかに敵意をもって睨む先輩もいた。私が野球に打ち込むのと同じように新聞部の活動に情熱を燃やす人も居るのだ。今思うと恥ずかしくなる挨拶だった。
クラス編成の変更は絶対に無い三年間だ。それを良いことに熊谷君と千葉さんに何かあったら新聞部の活動情報を入れてくれるよう頼んだ。千葉さんは合唱部と掛け持ちで、熊谷君はテニス部に所属していながらの新聞部入部だった。
「高一の時は甲子園出場は夢物語だけど、県予選(の大会)で一回戦だけでも勝とうと先輩達と毎日野球の練習に打ち込んだ。だから新聞部の部員とは名ばかりで活動は殆どしていない。あの頃は高三の夏の県予選までは野球に集中しようと思っていた。
高二になって野球部が真面に活動出来なくなるとは考えてもいなかったよ。夏の甲子園県予選(大会)までは部員だけでチーム編成が出来たけど、秋の県南部地区の新人戦の大会には柔道部と卓球部から二人ずつ人材を借りて俄部員を含めた九人ぎりぎりで辛うじて参加した。
後輩が居ないという現実を強く認識させられたね」
新人戦も文化祭も終わった後の十一月末、所属部員で新人戦参加のチーム編成が出来なかったサッカー部と女子排球部、野球部の三つの部は職員会議で廃部が決定的だった。
そんな時に思いがけない熊谷君の応援だった。彼は、外の部の人材を借りても大会参加のためのチーム編成が出来た、大会の時には開催地に生徒全体で出かけ一丸となって応援して来た伝統がある、またそれを機会に他校との交流を深めてきた、その事実を直視して残り一年でも野球部は存続すべきだ、と生徒の署名集めに奔走した。
野球部に関係の無い彼の行動に驚き、感心させられた。彼の行動に勇気づけられて先輩達五人と残った私達五人で一緒に校長室に野球部存続の嘆願に行った。
部活担当の細川先生から野球部の存続が伝えられたのは何時も月末の水曜日に開かれる十一月の職員会議の翌日だった。
一年半も新聞部の部員らしい活動をしていなかった私が熊谷君と野球部の内情も今後の新聞部の部活のことも、また大学受験の勉強のことも心から話すようになったのはその頃からだ。