「ギターが無ければ、あなた達がギターを持って来なければこんな体験は無かった。有り難うと言った首藤さんの感謝の言葉がキッカケだった。
皆が哲君と私達に有り難うと言い、拍手をしてくれた。そして、誰彼と関係無く握手しあう輪が、まだ炎が赤く白く煙の起つドラム缶の焚き火の周りに出来ていたね。
由美さんと明子が女の子の処に行って何かを話し、哲君も準君も私もそれぞれに歌った仲間と話し合い、握手した。そこに居た皆川さんと佐藤さん以外の消防団員の方とも談笑した。
哲君も熊谷君三兄弟も、私も明子も、生涯忘れることの出来ない平成十九年の幕開けだった。
初日の出の時刻は六時五十分だった」
日の出の時刻は腕時計を見たから覚えている。日本全国あちこちの海に昇る初日の出とか、富士山を視界に入れた初日の出がテレビに映し出されたりするけど、それらと比べたらとてもとても誇るほどの景観ではない。しかし、保呂羽山の向いの山々の間に上る初日の出を杉木立の間から見るのも静けさの中で厳かだった。
「ご来光を見る目的で石段を登り、新たに加わった人を含めても参拝者は五十人と居なかったと思う。あの日、皆が神社を背に東の空に向かって横一列に並んでいた。朝陽に向かって礼拝し柏手を打った。
赤みを帯びた朝陽が少しずつ周りの杉林を照らす。太く林立する杉は枝で空を隠し、初陽の光をまるで呼び込むようだった。
杉の東側の表面が白く光り輝き、やがて赤い陽の光が保呂羽山神社を照らす。その時の経過に身が引き締まる思いがしたよ」
午前七時を過ぎて拡声器を肩にした消防団員が、テントの中さ、味噌汁を用意す(し)たっすから、ご希望の方はご遠慮なく食べてけらい(下さい)、そう言って回っていた。私達六人は勿論テントの中に寄った。
「その後に、地元の人と消防団員が協力して用意してくれたんだろうね。紙コップにワカメと豆腐と油揚げと刻みネギだけの味噌汁がふるまわれた。空きっ腹に美味しかったし、身体の中から私達を暖めてくれた。
一緒に歌った女の子を連れたご夫婦が、お先に失礼しますと私達に挨拶してテントを後にした。由美さんと明子が声を出さずに女の子に手を振っていたのを覚えている」
帰り支度のときに、軽くなった私のリュックサックを明子に持たせて哲君のギターを私が背負うよと言ったけど、哲君は自分でギターを背にした。哲君のリュックサックをまた明子が背負った。
枯れ落ち葉で敷き詰められたような山道は朝方の霜に濡れていた。ズボンの裾も靴も気になるほど濡れはしなかったけど、落ち葉に隠れた砂利道の坂に滑らないよう注意が必要だった。今度は右手側に視界が開けて登る時に気付かなかった金越沢ダムが山また山の麓の方に見えた。その湖面が朝陽に照らされて赤みを帯びて光っていた。
「山を下る時間は登るときの半分で足りた。休憩を入れることもなく一気に下りたよ。参道入り口の標柱の前に戻って、改めて標柱のてっぺんに置かれた二羽の木彫の雉を皆で見上げた。
陽を受けて赤みを帯びていた。その先は視界に雲一つ無い青空だった」
周りはすっかり明るい。側に停められている自家用車は一台だけだった。バイクの姿は無かった。私の腕時計は午前七時四十五分を少し回っていた。
「明子からリュックサックを受け取った哲君は、リュックサックとギターを登る前に見た姿と同じように背負い直した。
それが合図のようでもあった。私は哲君に感謝し、向き合ったまま彼の左肩を軽く叩いた。
良いお年をとお互いに言いながら、熊谷三兄弟も明子も私も哲君に手を振った」
哲君の姿が五十メートル程先の右から突き出た山の裾に見え無くなると、私達五人も歩き出した。
「哲君を見送って、保呂羽郵便局前まで戻った時は午前八時半を過ぎていた。これから町までまた小一時間歩きだねと、三兄弟に声を掛けた。
明子が由美ちゃん大丈夫と声を掛けた。平気、平気、まだ余裕。テニスで鍛えているからと明るい声だった。
篤君が有り難う御座いましたと丁寧に私に挨拶し、準君が、楽しかった、休みが明けたら会おうと言った。あの年の三学期の始業式は一月十九日、月曜日だった」
熊谷君兄弟が町に向かうのを見送ってバイクを引き出し、ヘルメットを被って私と明子も家路に就いた。PCXは軽快な音を立てた。
「我々も家路についた。途中、明子が、こんなに楽しかったんだもの美希姉ちゃんも誘えば良かったと後ろから言った。
美希姉ちゃんとは佐藤美希さんのことで、同じ大籠地区に住み、明子の小さい時からの遊び相手で有り、同じ藤沢高校に通う私の同級生だ。
農業の傍ら米、野菜に果物、調味料等食料品から洗剤等日用雑貨品、衣類まで扱っていた私の家の及川商店に買い物に来ることも有ったし、明子の部屋で二人が遊んでいることも、その後に私の父や母と居間でお茶を飲み、お菓子をつまんでいる時もあった。
その美希さんの家を左手側の緩やかな坂道の先に見ながら過ぎて、家に着いた時は午前九時に近かった。
母が食事の準備が出来ていると言い、食卓の前の椅子に座っている父は既に顔を赤くしていた」
焼酎のボトルが父の左手側にある。食卓には何時もより品数も多く、正月らしい母の手作りのおせち料理が並べられていた。
「自分の部屋に一旦戻った私と明子が着替えて食卓の前に座ると、改めて父が、明けましておめでとう御座いますと言った。母も私も明子も、おめでとう御座いますと唱和した。
その後に、明子がとても喜んで哲君のことも、熊谷三兄弟のことも報告するのが私には嬉しかった」
あの元旦の朝は、保呂羽山での思いがけない歌の合唱や人々との出会い、消防団員の動き、圧巻だった佐藤さんの南部牛追い唄、皆川さんの雉にまつわる神話の話に、初日の出が杉林の先によく見えたこと、朝日が神社を照らしていく様子、甘酒と味噌汁が格別に美味しく感じたことなどを、小一時間も話題にした。
「母の用意したおせち料理に舌鼓を打って、それから朝風呂に入って仮眠を取るために二階に上がったときは午前十時半を過ぎていたよ」
(了)
〔後書〕
前にも告知させていただいたとおり、9月1日から「青春賦」を投稿させていただきます。
この2007年・元朝参りは、400字詰め原稿用紙840枚「それぞれの道」の冒頭に書いたものです。(73歳の春の作品)
某出版社の新人作品募集に応募する(75歳の春)にあたって「それぞれの道」を「青春賦」と改題し、加筆修正して原稿用紙500枚以内という応募条件に合わせるためカットした場面でした。
それ故、作中の及川君の聞き手役に回っていた島根県出身「百合さん」、友人、長崎県出身「山口君」はこの後の「青春賦」に出てきます。
一週間ほど、投稿のお休みを下さい。