九
「あった。ここよ」
振り返る妻の頭にも大分白いものが混じる。網棚に荷物を挙げて座席に着くと、シートをリクライニングにした。
「義兄さんには悪いけど、これで良かったのよ。仕事で先に帰った義子さんもそう思っているわよ。貴方もそうでしょ」
車窓を見ながら沈黙を続ける私を気遣う。妻の顔も見ず、黙って頷いた。
智兄はここ十年あまり膀胱がんの手術を二十数回と繰り返した。母が無くなった後、凡そ五年間は一関に住む久美子姉が生家を覗き、時には一緒に住み、病院通いも日常の生活も世話をした。
「膀胱がんの手術は田舎ではもうこれ以上できないって医者が言うの、どうする。東京で何とかなっぺが」
姉が私に電話でそう言ってきたのは五年前になる。義子が智兄を引き取って最新の医療を受けさせよう、精神科も専門病院を探して継続すれば良い。そう言って母の時と同じように兄を高島平の団地に引き取った。
以来この五、六年は、常勤から再雇用の身に変わっても働き続ける義子の仕事の日程の都合を見ながら、今は無職の私とで一緒の時もあり交代での時もありながら心療内科のある大学付属病院と泌尿器科のある病院の、兄の二つの病院通いを支えてきた。
土日には三人で浅草の仲見世に出かけたり、東京スカイツリーにも行った。兄が巨人が好きで、野球が見たいと言えば東京ドームにも行った。その東京ドームで季節外れの一月に開催された「ふるさと祭り東京」にも出かけた。
私と義子が泌尿器科の医者の説明に立ち会った。もうこれ以上は手術できないと去年の梅雨空の日に医者に宣告された。
手術をすれば膀胱の壁に穴が開いて死期を早めるだけになる。それを避けるためには人口肛門を造る必要がある。そう説明を受けても兄は肛門増設手術を拒否した。
その結果がどうなるか、兄には想像できたのだろうか。あの時に覚悟を決めたのだろうか。車窓に目を遣る頭の中をその思いだけが駆け巡る。
兄の意思を尊重したと恰好よく言えば言えるけど、人口肛門を増設したら誰が兄の人口肛門の世話をする、日常の衛生管理が大変なのだ。
その考えが頭の隅にあった。あの日、志村坂上(東京都板橋区)にある病院の泌尿器科で医者の説明を聞いて高島平の義子の所に戻った時、兄は珍しく、有難うと言った。
智兄が歩けるうちに父母のお墓参りに行こう、義子にそう言って去年の旧盆に帰省したのは兄が上京して以来だった。三人とも帰省するのは五年ぶりだった。焼香を済ませると、兄はお墓から見える青い空と緑濃い山々をしばらくの間じっと見渡していた。
箱根に行ったことが無い。富士山を見たいという兄の希望で二か月後の十月には箱根に一泊旅行をした。義子が三人で出かける案を企画し実行した。その頃から兄の歩行やトイレの用足しに介助の手が必要になっていた。義子が私に同行を頼んだのもそのためだった。
年が明けると、週一で通っていたデイサービス行きも兄は困難になった。一人でトイレに行くのが辛くなってきた時に療養型病院への入院を提案したけど兄は拒否した。
這ってトイレに行くようになっても、お前達の側に居たいと言った。訪問診療、訪問看護の手を借りながら義子と住む団地の部屋で兄の療養を継続した。来てくれる医師と看護師が頼りだった。有り難かった。
亡くなる二週間前、兄は車椅子に乗ったまま私と一緒に団地の近くにある赤塚公園の桜を見ることが出来た。兄は、田舎はまだ蕾だなとつぶやいた。そして振り返り、俺が死んだら小さな葬式を田舎でしてけろ(して下さい)と言った。どきっとした言葉と裏腹に穏やかな顔だった。
母の時と同じように、高島平から近い戸田斎場で兄を荼毘に伏した。兄もまた遺骨で帰郷した。
兄の法名と享年七十四歳を思いながら、ふと、心の中でそうかと思った。母も兄も口にした「俺が死んだら葬式を田舎でしてけろ」は望郷以外の何物でもない。
年号が間もなく令和になる。時折車窓から見える桜の木は満開だ。
「再来年は三回忌、母の十三回忌と同じ年の巡りになる。法事は一緒にすれば良い」
頭の中で呟いた。
新幹線「はやぶさ」は福島の駅を通過した。
(了)
{後書}(令和五年八月十八日)
「望郷」は小生の最初で最後の私小説です。小説ですので虚構も混じります。
母の十三回忌と智兄(仮名)の三回忌の法事を一緒に済ませた後に、二人の事を何か書き残されねばとの思いが、ふつふつと湧いてきて書いた物です。
法事を終えて、長く自分の心にあった重荷が溶けたような気がしたからです。ちょうど、処女作、サイカチ物語を書き終えたところでした。
皆さんの中にも、故郷に良い思い出ばかりではない方もおられるかと思います。小生は団塊の世代で高度経済成長、進学熱の高まりとともに大学受験戦争の激化、灰色の青春と揶揄される時代に育ちました。
兄の精神障害の発症は小生が高一年の時でした。また兄の自殺未遂も高二年になる時でした。貧困とその家庭事情等に小生自身が押しつぶされそうな気持で、一刻も早く田舎から逃げ出したい気持ちでいた高校生活でした。
そして、大学受験は二度失敗。落第生です。高校生の初任給が月に一万八千円の時代に、月二万円の日本育英会の奨学金が約束されていたのですが、その資格を喪失しました。
高校時代の恩師から、何をやっているんだ、お前のために国が金を出してくれると言ってるんだ、欲張らずに、入学できるところは一杯あったろう、とお叱りもいただきました。
十九、二十歳でどうしたらいいかも分からず、当時住んでいた国分寺市(東京都)の本屋をたまたまに覗いて、知った詩が室生犀星の詩集でした。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして 悲しくうたうもの
よしや うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠き都にかへらばや
遠き都にかへらばや
何度復唱したでしょうか。そのことは、三十七年余、主に福祉医療の仕事に従事していながらも変わりません。「よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」が、ずーっと心の支えでした。
定年間近に母を引き取り、高校時代からも凡そ半世紀後に兄を身近に引き取り、そして二人の遺骨を田舎の墓地に埋葬して法事をして、初めて高校時代からのうつうつとした気持ちから解放された気がしました。
先日に、中学時代からの友から、田舎に帰ってきたよ、野焼き祭りも見ずに帰ってきた、誰々が亡くなっていたよと連絡が来ました。俺も今年は五月に行ってきた、今、「望郷」をブログに投稿している、田舎の事も、かつて還暦祝いを一緒にしたかんぽの宿の場面も書いてあるよと言いながら、久美子(仮名)姉の三回忌を思い出しました。
皆様にお断りしてブログの投稿をお休みさせていただいた去る五月末の法事がその三回忌でした。来年には長兄孝一(仮名)の三回忌です。
この春には、二年前に定年になった弟、信夫(仮名)から再就職の口が決まったと連絡が来ました。また、妹の義子(仮名)は七十(歳)を過ぎても保健所でアルバイトをしながら、今年の夏も市民農園が当たった(耕地の権利)、ナス、キュウリ、トマト、万願寺等が収穫できたと郵便パックで野菜を送ってきました。
友人知人や家族の死を思いながら、今、この年歳になっても、人生って何なんだろう・・・と、答えの出ないままに考えることが多くなりました。
この一年、二年内に小説・大槻玄沢を書き上げねば、大槻玄沢没後二百年は2027年。NHKの大河ドラマにできないぞと勝手に思い、また、後五年、八十(歳)までは生きねば、家のローンを残して死ねない、妻に借金を残せないなどと、夢想と小市民的思いに捉われながら机に向かっています。
とてつもない暑い夏です。小生のブログ投稿にさして関心の無いような妻ですが、点いたりつかなかったりしていた小生の部屋のエアコンを買い替えてくれました。
この作品、「望郷」も日に百を超えるアクセス数がありました。末筆ではございますけども、お読み下さっている皆様に心から感謝申し上げますと共に、改めてご健勝をお祈りいたします。
次回作は、「青春賦」を予定しております。サイカチ物語の後書に書かせていただいたとおり、医者になった及川俊明が同僚を前に青春の一ページ、医者になった動機等を語ります。九月一日からの投稿とさせてください。
その間に、短編、「2007年、元朝参り」を来週、二十一日(月)から投稿させて下さい。