「・・・父ちゃんが亡くなって木炭の製造販売を続けるのは当然無理。電化製品に押されて木炭も練炭も需要が無くなっていたでしょ。
私が高校に通うにはそれでも現金収入が必要だった。母ちゃんは町に出来たばかりの鶏を捌く会社を見つけて来た。それが鳥一。捌いて焼き鳥用の串刺しを作るなんて・・・、それまで、鶏は食べる側からしか考えたことが無かった。
野菜は自給自足で採ろうと朝の四時五時に起きて畑の野良仕事をして、それから私達の朝食を作り、迎えに来た車(マイクロバス)でいつも同じ時刻に会社に出かけていた。
鶏を捌くのは生鮮食品を扱うことになるでしょ。だから指先を汚してはダメ。爪を綺麗にしておかないとと一年中ゴム手袋をして農作業をしていた。それが忘れられない。
会社が終わって戻ってきても陽があるうちは畑にまた出かけていたよ。
あの時に私に出来たのは自分の弁当と母ちゃんのお弁当作り、部活があって夕食は時々作っただけ。
今思うと、朝から晩まで働く母ちゃんのような、あの真似は出来ない」
義子の言葉に信夫が続いた。
「俺は智兄と義子姉ちゃんと母ちゃんの四人の生活の時はまだ良かった。
だけど義子姉ちゃんが高校を卒業して居なくなると、家の中で話し相手が居なくなった。
母ちゃんは、朝は早いし、夕食を済ますと死んだように堀炬燵の周りで居眠りしてしまうことも多かった。
俺は風邪を引かないように、お風呂に入って早く寝ろって毎日のように声を掛けた」
「信夫は親父が亡くなった時、まだ小学校四年生だったもんな。
親父が死んだというのに何も無かったように忠男兄の子供達相手に家の中で騒いでいたのを覚えている。
義子が東京に就職したときは、まだ中学二年、三年?」
「姉ちゃんと六つ違うもの、中一になる時だった。姉ちゃんが居なくなって、中学に入ると急に(自分が)大人になった気がした。
母ちゃんの手伝いをしなければと思った。でも、何をしたら良いのか分からなかった。
土日に畑仕事を手伝ったけど、現金収入にならない。
ある夏の日の夜だった。中一だったか中二だったか、空の堀炬燵に入っている母ちゃんが、こんなに働いて、こんなに苦労しているのに、手も痛めたのになして(どうして)楽にならないべな(生活が楽にならないんだろう)って腱鞘炎になった皺くちゃの両手を広げてみていたのを覚えている。悲しかった」
「俺が中学、高校生の(昭和)三十年代は世の中が大きく変わっていく時代だった。テレビが普及しだし、東京オリンピックもあったね。
電化製品の発達はそれまでの生活様式を大きく変化させた。木炭等の需要が減って、年老いてきているのに日雇いに出る父ちゃん母ちゃんを見るのが当たり前になっていた。生活は苦しくなっていく一方だった。
中学の時の同級生の多くは、金の卵と囃し立てる世の中、社会の時流に乗せられて上京した。俺は日本育英会の奨学金で高校に通えた。その時のことを一番覚えている。
父ちゃんは、中学卒業したら隣の荒木田さんに付いて回って大工の仕事を覚えろ。働けって言った。母ちゃんが怒って、仁志は自分で学費を確保したんだ、今まで通り三年間は飯ぐらい喰わせることは出来るべ、って見たことも無い顔だったね。
高校を卒業して上京するとき、義子の学費ぐらいは送ってくれって手を合わせられたときも少し驚いた。
後で分かったことだけど、孝一兄も母ちゃんに頼まれて義子の学費分を毎月送っていた。兄貴は当時、三十(歳)過ぎても大学教授の家でまだ書生生活だよ。司法試験に受かる前だ。送金するお金の工面は容易ではなかったと思う。
母ちゃんも抜け目がないなと思ったよ。でも義子の高校一年の終わりだろ?親父が死んだのは。二人の仕送りが生活費の一部に充てられて、かえって良かったと俺はずーっと思っていた。
だけどそれが、その後も俺の送った分も孝一兄が送った分も手を付けずに智兄の将来のために貯金していたなんて、母ちゃんが上京してきたときになって初めて聞かされて驚いたよ。智兄の郵便貯金通帳に半分こして入れて来たと言った」
座布団の上に横になり、側でイヤホンをつけて一人テレビ画面を見ていた智兄が一瞬私の方を見た気がした。いつの間にかイヤホンが外されている。
智兄は何事も無かったようにまたテレビに目を移し、画面の伝える内容と関係なく何かぶつぶつと言っている。よく見ると、皆に分からないように手の甲で頬をぬぐっていた。