「今日は休ませてもらって、明日は一関の忠男のお墓参りをして来んべ(来ましょう)。お彼岸の日は午前中に俺家のお墓参りす(し)て、午後は東京さ帰んべ。
皆さんにはお世話かけるだども(かけるけど)智も久美子もよろしくお願いします」
これからの予定を言い、頭を下げる母を目の当たりにした。私の頭の中は、智を殺して俺も楽になりたいと言った母の言葉が駆け巡った。
及川さんは布団屋さんの寡婦と顔を見合っただけで、それ以上のことを言わなかった。話題の少ない田舎だから何処どこの誰が亡くなったと、この四、五ケ月の人の変化だけを続けて語り、二人は帰った。
傍で一緒に聞いていた姉が、場を取り繕うように、お昼だね。支度するからと言った。
翌日、忠男兄の眠る(祥雲)寺と義姉の家に寄って一関の街から帰るとお昼も過ぎた。家に戻って自家用車を降りたばかりなのに、母は畑に行きたいと言い出した。
「今行ったって何もないよ。ホウレン草と長ネギが少しあるけど、その足では歩けないでしょ」
姉の言葉に構わず、口を閉じた母は杖を手にした。
「良いよ、気のすむように俺が付き合うよ、ホウレン草でも取って来る、入れ物はあるか?」
姉に渡された手袋とビニール袋を手にして、先にゆっくりと歩きだしていた母の後を追った。ついて行く。裏山の小道に出て、二、三百メートルほど先の小さな畑が目的地だ。
途中に坂道もあるけど私の足なら十分とかからない。しかし、母は二十メートル程行った先の緩やかな坂を上り左に曲がって、右が迫る山の崖で左が竹藪の小道で息を切らした。杖を頼りに身を前かがみに寄りかかる。
「誰も見ていないよ、遠慮するな」
ためらっていた母は黙って従った。背にした母の温もりが伝わってきたけど、こんなにも軽かったかと改めて思った。竹藪が途切れて視界が広がると畑はすぐだ。
他人様の畑も目の前の自分家の畑も緑色を見せている所は僅かばかりだ。見える畑は段々になって土色が勝っている。
ホウレン草に長ネギ、ブロッコリーだろうか、そう思いながら遠くを眺めていると、傍に立つ母が言った。
「あれが見たかったんだ」
指さす先は畑の隅に立つ白い梅の木の古木だ。私が小さいころから見てきた梅の木だ。満開に咲き誇っている。
畔を母とゆっくり歩きながら近づくと、梅の花の匂いが一層包み込み、迎えてくれた。母は見上げて満足そうな顔をした。
「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春を忘るな だべ」
自分から菅原道真の和歌だべと言う。
「いい匂いだね」
そう言って応じると、それまで薄い雲に覆われていた空は束の間の青空を見せた。陽が照ると間違いなく春の日差しだ。鶯の声が近くに響く。周りの木の枝と藪に目を凝らしたけどその姿は見えなかった。
明日のお墓参りに持って行きたいと言う母の要望に応えて一枝を折った。花の匂いが一段と鼻を衝く。手にした母は笑顔だ。
ホウレン草を摘んで、梅の枝も一緒に持った。杖を付く母の歩調に合わせる。ゆっくり、ゆっくり、休み、休み、母は家までの下 る帰り道を歩いた。
少し昼寝をすると言って奥座敷に消えた母は、折角に隣の家の大工の荒木田さんが顔を見せたのに、彼が私を相手にお茶を飲んでいる間とうとう起きてこなかった。
八号車一番DEだからここだね。トイレはドアを開けてすぐだから良いャな。そう言いながら母を窓際の方に座らせた。
断ってもホームまで見送りに来た亡き次兄の妻子達と久美子姉に頭を下げながら、手を振った。新幹線は定刻通りに滑り出した。
ホッとした気持ちで座席に落ち着き、母の横顔を見た。何故か少し緊張した顔をしている。
「疲れたか?、大宮まで二時間はある。少し眠った方が良い」
母の座席のリクライニングを少し倒そうと手を出した。
その手を軽く抑えた母が言った。
「俺は何処の墓に入ったら良いんだべな」
えっ?、思いがけない言葉に驚き、母の顔を見た。見る顔は間違いなく白髪と皺のある顔なのに、幼子のようなあどけない目を向けていた。
「何を馬鹿な事を言ってる。さっき、墓参りをしてきたばかりじゃないか」
「先妻さんが居っぺ。俺が入っても良いんだべが」
答えを待つ目だ。頭の中は、とっさに長兄達の母が亡くなって何年、父が亡くなって何年と計算した。
長兄達のお母さんが亡くなったのは確か昭和十五年一月、六十五年も前のことだ。父が亡くなって三十三回忌を終えたのは六年前だ。
「三十三回忌は弔い上げだべ。母ちゃんは親父が土葬の時代に建立た先祖累代の墓に、更に香炉を置き、水鉢と花立を備えて三層構造に飾ったじゃないか。
法名碑も建てたし、立派に大理石で周囲も囲った。先妻さんも亡くなった長姉も妹も、そして親父も皆感謝しているよ、きっと。
先に逝った皆が物欲も何もかも欲の無い仏様になっているよ。母ちゃんを迎えてくれるよ。余計な心配はしなくて良い」
弔い上げと亡くなった人の魂とがどうあるのか知らない。次元の違う話なのだろうけど、そう言うしか無かった。
納得したかどうかは分からない。幼子が答えを聞いて安心したような顔を見せ、母は少し寝るかなと言った。改めて母の座席をリクライニングにした。
その後も母の心境を思ったけど、人間の業って何なんだろう。九十になる母は死ぬまで女性なんだ、としか思いが行かなかった。
車窓に目を移すと、遠くまで青空が広がっている。畑で手折った梅の花とJAのスーパーで購入した仏花で飾り、お参りしてきたばかりの墓が思い出された。