六

 東北の春は遅い。見える山々は何処もまだ茶色く、畑の日陰になっている所は今朝の霜を残し、盛り上がっている所には霜柱も見えた。

「僅か五か月振りでも懐かしいかな?」

 そう言って母の顔を横から見ると、前を向いたままの顔は強張(こわば)っていた。

「今朝は冷え込んで、三月も半ばを過ぎだって言うのに田舎は氷点下だよ。朝から青空が見え(る)っからまだ()え。

天気予報は明日も明後日も天気は良えって言ってだ。良かんべ(良かったね)。

 だども、母ちゃんが来るって聞いた時、(おら)はびっくりす(し)た。正月にも帰って来なかったがら、もう帰って来るごど()ャど思っていだ。

 智のごどもう忘れたがど思っていた。ンだがら仁志から電話をもらった時、(おら)はびっくりす(し)たよー」

 母の返事の代わりに、運転する姉が語尾を引っ張りながら言った。

 二週間前の母の言葉が思い出された。田舎を捨てて来たんだ。今更帰れ()ャ。そう言いながら、春も秋もお墓参りは欠かしたことが無ャ。父ちゃんに東京さ行くがらって言わ無ャで来た。父ちゃんが待ってるべ、智と世話している久美子の様子も見てみでャ。

 後ろに流れる里の冬枯れの景色に目をやりながら、母には田舎に一旦帰る理由が必要だったんだ、そう思った。

 

 最後に車椅子を下ろして、これで全部だ、ありがとうと言うと、姉は月極めで借りている少し離れた駐車場に自家用車(くるま)を置いてくるという。

 玄関口に回らず、母の手を引いて通りに面した表戸口から土間のある居間に入った。堀炬燵に入っていた智兄の顔が正面だった。目が会った。

 右手に杖を持ち、左手を引かれ、腰の曲がった母を見てどう思ったのだろう。その顔は先に穏やかに見えたけど、その後はみるみる鬼の形相だった。炬燵を離れて奥に引っ込んでしまった。

 母も気づいたと思う、だけど何事もなかったように床板に腰を下ろすと、靴を脱ぎ始めた。老人用の靴だ。しゃがみこんで、内側にあるチャックを引いて脱ぐのを手伝った。

 

 母を堀炬燵のかつての定位置に座らせると、持ってきた手荷物を隣の座敷の隅に置いた。

 次の六畳間を覗くと、兄は頭から布団をかぶり、ベッドに潜り込んでいた。義子がかつて母のために購入して東京から送った簡易ベッドを今は兄が使っているらしい。

 側にある仏壇は戸が開かれ、両側に花が飾られて正面に仏様のお膳が供えられていた。母と私を一関に迎えに来る前に久美子姉が用意したのだろう。

 居間に戻ると、母がお茶にする前にと独り言う。

「父ちゃん達に挨拶すっペ。拝ま()ャでお茶も無かんべ(無いだろう)」

 掘炬燵から立ち上がるのを手伝いながら、この半年で母は急に老け込んだなと改めて思う。以前より腰が曲がり、不自由な左足を少し引きずって歩を進める。

 お線香を焚き、金を鳴らし、両手を合わせてしばらく仏壇を離れない母だ。どんな思いがあるのだろう。手にしたハンカチで頬を伝う涙を隠した。

 母は向き直ると、側のベッドに声を掛けた。ごめんなと言う。顔を見せない布団がしばらくして揺れていた。

 

 戻ってきた姉が、お茶にす(し)たの?、コーヒーにすっか(するか)?と私に聞く。母が淹れてくれた湯飲みを前に、私がコーヒーだねと言った。

「休んだべ。その前に狭山茶ば持って、先に隣近所に挨拶すて()。(して来い)」

 息子娘が帰省した時に母が言ういつものパターンだ。変わらないなと思う。

 

 家々七軒に顔を出した。冠婚葬祭があると昔のままに協力し合ってきた仲だ。どの家を訪問しても母が帰ってきたことを知って驚き、後でお茶を飲みに寄せてもらうねと好意的な言葉をいただいた。

 母にそのことを報告していると、直ぐに表戸が開いて布団屋さんと小学校の元先生だった、二人の寡婦が連れ立って顔を見せた。

 二人とも母より十も二十も若くても、かつての母の茶飲み友達と言っていいのだろう。今は姉が智兄の世話を多くするようになっていたから、姉の話し相手、茶飲み友達にもなっているのだろう。 

 二人は母には東京の生活はどうか、息災であったかと聞き、この寒い冬の間、智兄の面倒を姉が良く見ていたと語る。そして元小学校の先生の及川さんの言葉だった。

「もうすぐ春だものね。帰って来て良かったー。みんな待っていたんだよ。智ちゃんがどんなに待っていたが。傍で見ていても(おら)はもぞこくなった(可哀想になった)。

 久美子ちゃんが一関に帰って、智ちゃんが一人の日もあったぺ(あったでしょう)。ちゃんとご飯食を食べたべが(食べたか)、寒く無ャ恰好してんべが(しているだろうか)、炬燵も石油ストーブも危なく()ャべが(危なく無いだろうか)って、他人事(ひとごと)だけど心配になったよー。

 暖かくなってきたもの、このまま田舎さ居んでしょ(居るのでしょ)?」

再会を喜んでいた母の顔は途端に曇った。

唇を閉じて、しばらく目の前の自分の湯飲みに目を落とす。小さく息を吐いてから言った。