「冷凍庫に残り物のご飯を冷凍してあるけど、それでも解凍する?」
「それで、お粥じゃないけど柔らかめのご飯にするか?。おかずだね、何にしよう」
「冷蔵庫に昆布の佃煮、塩辛、白菜の漬物があるよ。豚の角煮でチンすれば良いものもある」。
「上等、上等。決まりだ。はっと汁に柔らかい御飯。昆布の佃煮に白菜、それだけでもお袋は満足するよ。今日は七草粥の日だし、それでなくても正月の贅沢した胃を休めるにはちょうど良い」
「鶏肉、シイタケ、切ろうか?」
「いや俺がするよ。お袋に作ると言ったん(の)だからね」
鶏モモ肉を一口大より小さめに切る。この皮が良いのだ。良い味を出す。胸肉ではだめなのだと自分で思う。シイタケの傘を二つにして軸と一緒に五ミリ幅に刻んだ。
後は鍋に水、ほんだしを入れて煮立ったら鶏肉、大根、ニンジン、ゴボウ等を入れて煮る。灰汁を取って煮えたらはっとの生地を薄く延ばして一口大にちぎって鍋に入れれば良い。
作る準備を終えたところで、生地を作るのが早すぎたかな、これからケアマネが来る、と思いなおした。一休みしてケアマネを待つ。
義子がコーヒーを淹れた。母はまだ眠っている。足を引きずり九十(歳)に近い母には疲れる参詣だったかな・・・。
玄関口でピンポーンとなる。告げられていた予定時刻よりも三十分早かった。義子も私も名刺を交換し、挨拶をした。
「特養ですか。同じようなお仕事に就かれているのですね。しかも施設長さん」
名刺から顔を上げ、私の顔をまじまじと見る。
一通り母の近況の状態を伝えていると、母が起きてきた。
「おばあちゃん、今日は。ケアマネージャーの矢部です。よろしくお願いします。
巣鴨のお地蔵さんに行って来たんですってね。お蕎麦も食べて来たとか。良かったですね。楽しかったですか」
「はい。お地蔵さんにお願いをしてきゃした(来た)。足を直してけろ(下さい)って。この年齢だから無理がもしんねャ(しれない)けど、自分の足で畑も山も歩いてみてャ(みたい)」
「母ちゃん、ここは高島平だよ。田舎じゃないよ」
義子の言葉を私は笑えなかった。
「今、ケアマネさんに相談を始めたところだ。母ちゃん用にこの部屋に介護用のベッドを入れる。外出用に車椅子を用意する。みんなレンタルだ。それに田舎にいた時と同じようにデイサービスに週に一、二回通えるようにする」
「ありがとう。だども俺はいい。ベッドも車椅子もデイサービスも俺は要らねャ(要らない)。ここでテレビでも見てる。
気が向いたら、何、目の前に公園があんだもの(あるのだもの)、天気のいい日は出かけてみんべ(出かけてみる)。寝るのにも困ってい無ャ(い無い)」
「そう言うけど、義子が毎日の母ちゃんの様子を見て言ってるんだ。ベッドを入れるのも車椅子を使うのも俺は賛成だ。
デイサービスは田舎でも利用していたじゃないか。デイは楽しいって、田舎にいるときに言っていたろう?、そうした方が良い」
義子も私も説得した。しかし、母はうんと言わない。
「介護料金は全国どこでも同じ、福祉用具やデイサービスの利用は毎日の生活を楽しくする、楽にするためのもの、自分で生き生きと生きられる環境を作る物ですよ。
介護ベッドを入れること、デイサービスの利用は支えてくれるご家族にとっても大変助かるんです」
矢部さんが追い打ちをかける。母は沈黙した。
矢部さんはそれを了解したと受け取った。経験則から判断したのだろう、義子と私に向かって介護計画を作りますねと言う。
「田舎の方での介護計画、契約は自然に解消しているはずだけど、一関市の介護保険課と調整します。約一週間は時間を下さい、できるだけ早く対応できるようにします」
「よろしくお願いします」
良子も私も殆ど同時だった。
矢部さんは母に何でも相談してねと言って引き上げた。
自分の施設でも会いに来たご家族が帰った後に、入居者に何でも相談してねと言うことが多くある。それを思い出した。入居者が家族の前で言えない事情を後で聴くためにつなげる言葉だ。
「母ちゃん、夕食ははっと汁だ。これから火をつけるけど、何、三十分もすれば出来上がる。準備は完了しているんだ。味取りは味噌で良いよな?」
「俺の産まれだ登米(宮城県登米市)辺りは、はっと汁は醤油だ。大きな油ふが入るだども、一山超えて藤沢に嫁コに来たら味噌味だった。
油ふの代わりに油揚げだった。お前達はそれで育ったべ。俺ももうすっかりそれに慣れだ。嫁に来て六十年にもなっかんな(なるからな)。油ふは直径十センチもあったべ」
初めて知ることに私も義子も思わず、へーっと言った。
濡れた布巾を掛けて置いたけど、はっとの生地は少しばかり表面が乾いていた。義子が寄越した冷凍の御飯を鍋に入れ、お粥を作る方法で先に柔らかい御飯にする。
結局、はっとの生地は少しの間、時間を置いて千切った。
池袋から小手指に帰る電車の座席に座ると、なぜ、母はベッドも車椅子もデイサービスも俺は要らないと言ったのだろうと気になった。
二年前の春、田舎に在った母はデイサービスの迎えのバスに乗った途端異変が生じ、そのまま送迎バスは町民病院に直行した。優子からの電話で職場から一旦家に戻り、身支度して小手指から大宮に出て新幹線に飛び乗った。
田舎の町民病院に慌てて駆け付けた時、母は左右の黒目があらぬ方向に飛び、顔がゆがみ、左側の口端からよだれを垂らしたままだった。血栓を溶かしているという点滴を打たれたままベッドに横たわっている母を見て、大変なことになった、介護が大変だ、誰が母と智兄の面倒を見るんだ、ととっさに思った。
幸いに送迎の付き添い看護師が機転を利かしたから、送迎バスがいち早く病院に運んだから、血栓を溶かす治療の対応が早かったから助かった。左足が不自由になったものの脳梗塞の後遺症は軽度で済んだ。
デイサービスを使っていて良かった。みんなに助けられたのだ。そういう経験をしているのに何故母は福祉用具もデイサービスも要らないと言ったのだろう。理由が分からない。
電車が東久留米駅を通過するとき、孝一兄夫妻が用意する母の誕生日の祝いを兼ねた新年会のことを思った。土曜日の昼間、池袋駅近くの中華料理店なら足の悪い母は勿論、まだ現役で仕事をしている義子にも私にも支障がないだろうと二十九日、正午からおよそ二時間、予約したという料理店を伝えてきた。
母は喜んでいた。孝一兄の一人娘、社会人になっている瑛子も参加すると聞いて一層喜んでいた。信夫も船橋市から駆け付けると言っていた。我が家も私と優子と社会人となって家の側でアパート生活している娘と、結婚して信州安曇野に住んでいる娘が一緒に参加する。
母への誕生日プレゼントは何にしたらいいんだろう。電車は所沢駅を通過した。